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長編小説 『蓮 月』 その五

 じっと静一の眼を視つめて「お待ちどうさん、召し上がっておくれやす」メニューは、蒸した夏の温野菜・くるみとレーズンのカンパーニュ・オムレツ・野菜ジュースと珈琲だった。
「わぁ、朝からすごいご馳走だ、頂きます」と無理にはしゃいだが、見透かされたように「お母さんのこと・百合のことで悩んではるんでっか?」静一は苦笑して思わず溜息をついてしまった。「唯さんには嘘をつけないね、その通り色々と考えを巡らしておりました」
「百合のことなら気にせんで大丈夫、わてがちゃんと話しますよって、それから仕事は叔母のつてで京都エリアで仕事が出来るよう頼みます。お母さんも京都に良い認知症のホームに契約医院となっているドクター知ってますさかい、京都に呼びましょう」眼を大きく見開いて驚きを現す静一は「いくらなんでも、それは・・・・・・」「でもなんですか?不服ですか?」「いや、そうじゃなくて、昨日会ったばかりで、僕のことを何も知らないあなたが・・・」初めて<あなた>という言葉を発したことに静一は気づかなかった。「そこまでどうして」「だって、さっきも言いましたように・・・」
「私が<想い>を捧げた人やから、こゝろは結ばれたやんから、その後はもっとちゃんとした道を歩まなあきまへんやろぅ」沈黙が流れる。
いや沈黙に何もかも飲み込まれて思考が、声が出てこない静一は、追い詰められたように呻吟し、結局は無様な自分を投げ出すしかないと判断して「う~ん、参った・・・参りました。全面降伏です。あなたの言うようにするしかないようですね。僕も腹括ります。でも御存じかもしれませんが、来月百合さんとニューヨークへ行く仕事が・・・」
「ええ、存じております。私は私で単独で行きます。ニューヨークでも逢えます」「百合さんと唯さんはほんとはどんな関係なんですか?」
「ほんとうに大学の同級生、それだけです。なんや気が合って、もう十年程になりますな」「一見、すごく対照的なお二人に視えますが・・・
」「そうどうすな、確かに両極と言ってもいいくらい・・・そやからええんとちゃいますか?互いの世界を認め合うしかありませんよってな」「でも、あんさんを百合が紹介したのは、あんさんがいくら待っても振り向いてくれはらへんからとちゃいますか・・・つまり、そんなら唯だとどうする?って」「あんさん、あぁごめんなさい気安呼んでしもぅて、静一さんへの挑戦状みたいなもんやったとちゃいますか?」
「静一さんの負けどすな」なるほど、そうだったのか・・・しかし・・・逡巡と諦観と奇妙な浮遊感の狭間で静一は、この状況を、自分のほんとうの気持ちを掴むことが出来ないままに、半ばお道化で、この場を切り抜けるしかないと覚悟をした。
「いやはや・・・いやはやですね。参った参った・・・言葉が出てきません。じゃぁ、明日の夜遅くなるかも知れませんが、とりあえずの荷物を持ってこちらへ寄せて頂きます」唯はこの上ない悦びの表情をして瞳が妖しく広がり潤んで・・・「その前に、今度はほんとうに抱いておくれやす」「いや、後の予定が一杯一杯ですから・・・困惑の表情を作り、「言い訳を何かと探そうとするが・・・」唯はスルスルスルと一糸纏わぬ姿になり、部屋に向かって歩み始めた。静一は想った。これに抗うことが出来るのは、意志でも無く、倫理でも無く・・・エロスを越えた処にほんとうに着地した人間しか出来ないだろう。だが、そこに至るには千里の径庭を越えねばならない・・・つまりこの誘惑には勝たなければならない。後を追い後ろから唯を抱きしめたが・・・「ごめんなさい、今日はこのまま帰らせて下さい。必ず明日来ますから・・・」そうして二人は常若の国に雪崩れ込み、睦みあい・・・それ以外のことをすべて忘れ去るという行為に何とか耐えた。そして、現実の時間軸に強く意識が戻された。

 静一はぼんやりと考えた。約束を反故にしたらこの業界から締め出されるだろうなぁ・・・いやぁ、やっぱり此の儘此処には居られない。
二十歳じゃ無いんだ・・・この歳で一切か無なんて・・・唯のこゝろに嘘があるとは想えない、だが、この胸の落ちつかなさはどうだ・・・何の兆しだ、いや何かのサインが送られているとみるべきだ・・・新世界はまた異世界でもあり・・・その世界に行くには倫理と論理をきっちりと通さなければならない、心地よさとそぐわぬ異和がある世界・・・身の丈に合った恋ではない! いずれにしろ決断を迫られているのだ!
とそこまで考えが至った時、再び静一は目眩に襲われ頭に激痛が走り気を失った。

「もしもし もしもし、大丈夫ですか?起きて下さい、起きて下さい お客さん」と肩を揺すられて、電灯の光で顔を照らされた。うす暗い薄明の世界にスクリーンが視野に入って、そこが映画館だとわかった。
ビッショリ汗をかきうなされていたらしい。「ロビーのソファで横になりましょう」と警備員と女性スタッフが手を貸して、運んでくれた。
静一は「すいません、これでミネラルウォーターを買って来てくれませんか」と頼み、少し待った。そして上体を起こして貰い一気に半分以上を飲み干した・頭痛が潮が引くように収まって、二人に礼を言って「もう少しこのままでお願います。もうだいじょうぶですから」と声をかけると二人は持ち場に帰った。

 静一は意識が戻った・・・夢だったのか?あれほど濃密なあの感触が夢だなんて・・・信じられない、そう思い現実の意識に立ち返ることを願った。 そうだ、このミニシアターに映画を視に来たのだ リバイバル上映で「去年マリエンバードで」アラン・レネが監督したモノクロ映画、昔視た記憶を辿りながら違和感を抱いて視ていた・・・そしてシンメトリックな庭園を視ているうちに眠ってしまったのだ そこまで記憶が戻りほっとした。そして気がついた。自分が夢精をしていることを知った。恥ずかしさで顔が火照った。
時計を視る。約束の時間まで1時間半なんとかなると思った。近くの百貨店に入り、下着とジーンズを買求めてトイレで着替えた。念の為小さな携帯用の匂い香も買ってポケットに入れた。

 さあ、これから・・・ほんとうの現実はどうなるのだろう。待ち合わせの喫茶には、すでに唯が浴衣姿で微笑んでいた。浴衣の柄は向日葵から月光を浴びる蓮の華に変わっていた。合図をして、入り口まで来て貰い「此処から、十分ほど歩きますがよろしいですか?「はい、かまいまへん」Take 1の夢の流れと変わらずJazz Barで寛ぎ、唯の誘いで家に着いた。さぁ、これから~これからがほんとうに大切だと肝に銘じようと考えていると・・・それを見透かしたように唯は「どうかしはったんですか?明日の予定があって落ちつかはれへんのですか?」「いや、そうじゃないです。ただ・・・ただ、歌にもあるじゃないですか~この道はいつか来た道って・・・そんな感じです」「さっぱりわかりませんわ。時々けったいな人になりはるんや、人を煙に巻いて・・・」
「ごめんなさい・・・」一瞬夢のことを話そうとして、そうかまだ朝の夢を語って居ないことに気がついた。唯に今語るべきだと感じて、朝の夢を出来るだけシンプルに、まるで朗読劇を語るように、ゆっくり静かに話した。唯の瞳は大きく見開いたまま、ほぉ~と合いの手を入れたりして聴き入ってくれた。語り終わるやいなや「それは正夢とちがいますか?」「正夢ですか?」「はい、そうです、正夢です。だって、今の今、唯の前に座って視つめているのは静一さんで、朝に向日葵の柄の浴衣を着た女性は私ですよって・・・」
瞳が強い光を放った。「でも、なんで化身した向日葵は橋を渡るのを妨げたんでしゃろうな?」と独り言のように言い放ち「もう、橋を渡ってしもたんやから、その謎は捨て置きましょう・・・いつかその時がくれば、解決してくれはりましゃろぅ」
「確かに橋は渡った、でも渡りきってはいません」「ふふふ・・・橋の意味はそういう意味ですか?」「いや。そういう意味ではなくて・・・ほんとうのあなたにまだ届いていないという意味です」「ふ~ん、難しい考えるのがお好きなお人ですなぁ」意を決したように、唯は言い放った「今晩は、どうぞ泊まっていておくれやす。まだまだお話が聞きたいですよって・・・」夢の名残はそこにはなく、強い意志がそこにあった。
「初めてお目にかかったその日に、泊めて頂くなんて、そんな厚かましいことは・・・ましてや京都のお人に」「ははぁぁ 古おすな」
「いや、今のは半分冗談、半分礼儀作法ですが、ほんとうに、明日の昼一大手のクライアントへのプレゼンがあって、その為に朝から最終の打ち合わせをデザイナーとしなくてはなりません。だから、今日は・・・はい」 静一の言葉がほんとうかどうかを確かめるように表情を視つめていた唯は「そうどすか・・・それなら仕方ありませんなぁ」と顔を背けて沈黙を守った。
「あの・・・手紙を書いてもよろしいですか?」「[手紙]?メールやSNSと言われているこの時代に手紙どすか・・・嬉しいわ。私待ちます、長いのお願いします。それから、京都へ来る時は必ず連絡を入れておくれやす。そして次はゆっくり泊まっていっておくれやす遠慮はいりませんよって・・・・三十路の女の一人住まいやかて別にかましまへんやろぅ」「ありがとうございます。はい、次回は必ず、ではタクシーを呼んで頂けますか?」「はい、今すぐに呼びますよって、待っておくれやす」静一はこの流れで良かったのだと思いたかった。
                          その六に続く

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