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おとなとこども1 母の作った残酷なシロツメクサの冠の話

わたしはいつから「おとな」になったのだろう。
娘が3歳になり、人間らしいやりとりができるようになって「おとなとこども」という関係性を意識することが増えた。
娘とわたしは、人間対人間でもある。でもやっぱりおとなとこどもでもある。その間でいつも揺れている。

「おとなとこども」とはいったいどういう関係なのだろう。
そんなテーマで日々考えていることや思い出したことをたまに書いてみようと思う。

その1つ目は、最も古い母との記憶のはなし。

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ここ10年、こども向けの読み物を作り続けてきた。
わたしは誌面を通して、読者であるこどもたちにどのように語りかけてきただろうか。「おとなとして」振る舞うと言うより、「対等な関係」を意識的に目指していたように思う。例えば、恐竜とか宇宙とか忍者とかの特集を作るとき。わたしは「おとな」として「こども」に何かを教えるというよりは、わたし自身が面白いと感じたことや発見を切り出し、「こんなおもしろいことが世の中にあるんだよ!聞いて聞いて!ね!一緒に面白いって感じてくれたらうれしいな!」という気持ちをこめていた。それは今でもそう。
企画によっては、幼い日のわたし自身に未来のわたしから呼びかけるような気持ちのときもある。
おとなとこどもという立場は、生きてきた年数の違いにしか過ぎず、どちらがえらいこともなく対等でありたいと思っていたのだ。相手がこどもだからといって、ゆずりたくもないし、媚びたくもない。そのかわり相手がこどもだからといって馬鹿にしたりもせず、ともに学びを共有する。それがわたしのつくる読み物が目指しているスタンスだった。もちろん、脳やからだの構造上できないものや感じ取れないものを強要したって意味ないから、読者の発達段階や理解力は考慮するけど、子どもだからこの程度しかできないでしょ、とか子どもはこういうことしとけば喜ぶでしょ、というふうに絶対に見下さないぞ、というのはわたしの立てた譲れない旗のようなものだ。

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3歳の娘と生活を共にしていて、そんな前提がゆらぎはじめている。
わたしは彼女にとって魅力的なおとなになれているのだろうか? 
彼女が、自分が自分でいいのだと心から安心できるいちばん近くのおとなになるためにわたしはどのように振る舞えばよいのだろう?

おとなとこどもの「対等」ってなんだろう。

そんなことを考えていると、思い出すのは、わたしの母のことだ。
母は、おとなとしてこどものわたしにどう関わってきたのか、というのをしみじみと思い返すのである。
母は、とても変な人だと思う。
うちの実家に遊びに来た人は、たいてい「おもしろいお母さんだねえ」とコメントを残して去っていく。

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さて、最も古い母との思い出のはなし。
自分が幼い子ころの母の記憶でいちばん古いものは、河原でシロツメクサをつんで冠を作ったときのことだ。なぜかいつもこのシーンが鮮明に思い出される。
たぶんわたしは年中さんくらい。桜が終わって葉桜並木の下に、無数のシロツメクサが咲いている。母は、冠の作り方をわたしに教えてくれたのだけど、わたしはまだ不器用で、上手に編んでいくことができない。母は決して手伝ってはくれず、自分の冠を黙々と完成させていった。わたしは、母に教わった冠はつくれなかったので、もっともっと簡単な、編むのではなく茎に穴をあけて花を通していくスタイルで首飾りを作った。

お互いにできあがったものを見せたけれど、やっぱり母の冠のほうが圧倒的に素敵だ。
それでわたしは、ごく自然に「それ、ちょうだい」だったか「それ、かして」と言った。幼稚園に行きはじめ、少しだけ他のおとなを知りはじめたわたしにはわかっていたのだ。こういうとき、おとなはこどもにぜったいに譲ってくれる存在なのだということを。むしろその冠はきっとわたしのために作ってくれているとすら思っていた。
だから、そのあとの母の行動は衝撃的だった。

「うーん、これはやっぱりこうしようかなー♪」といって
ぽーーーーんと川へ放り投げたのだ。

シロツメクサの冠は、川の真ん中くらいにぽちゃりとおち、それからゆるゆると川下に向かって流れはじめた。ときどき岩にひっかかり、とまり、そのたびに数本のシロツメクサがほどけながら、少しずつ少しずつ遠ざかっていく。

わたしは「あ!」と声をあげたのかな。
とにかく、呆然とそれを眺めるしかできなかった。

ハートウォーミングな展開を期待していた方には申し訳ない。
これは、そういう残酷な記憶なのである。残酷な記憶だからとてもよく覚えているのかもしれない。

小さくなって見えなくなっていく冠を母はどういう表情で見ていたのだろう。
わたしは、我にかえって「なんで!なんで!」と母を責めた。
当たり前にわたしの手に入ると信じて疑わなかったシロツメクサの冠は、一度も触れることもできず、じっくり見ることもできず、なくなってしまった。それも不慮の事故ではなく母の意思によって。

「だって、これは母さんが自分のために作ったんじゃろ。母さんがどうしたって勝手やけえ」
母はそんなようなことを言ったと思う。

わたしは、そのときはじめて、母のものが当たり前にわたしのものではないことを知ったのだ。

わたしが「おとなとこども」の関係性について考えたくなっているというのはこの記憶が原点になっている。

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以降母は、意識してなのか、それとも無意識なのか、「あなたとわたしは別々の人間である」ということを態度でわたしに接していたように思う。
こどもとして傷つくこともあったけれど、それによって「わたし」としての心が守られることもあった。よかったのか、わるかったのかはよくわからない。よかったこともわるかったこともある気がするから。

母は、近頃になってよく「子育てについては反省することばかりじゃけえ」と言っている。
母になったわたしと、孫をみて、母もいろいろと思い出しているのだろう。母自身もよかったことと悪かったことをいったりきたりして思い返しているのかもしれない。
わたしのたてた「おとなとこどもは対等である」という旗は、ときにとても厳しくもある。シロツメクサの冠を躊躇せずに川へ放ってしまう母の態度のように。とてもストイックだ。甘えが許されないのだから。
こどもにとって、安心して甘えられる場所というのはぜったいに必要だと、娘をみて思う。だからとても揺れている。

おとなはだれでもがいつのまにかなっているもの。
そして知らずにおとなとしてこどもに接するようになる。
その楽しさと恐ろしさと喜びと切なさみたいなものを、わたしは書いていきたいと思っている。


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