「イレーヌと漂いつつ」(4)

 登校中、聡子はずっとイレーヌの話をしていた。誰が移動させているか、なんのために動かしているのかもわからない。先生に聞いてもそんなこと知らないという。この学校の中でなぜそんなことが起こっているんだろう。そんなことを熱心に話していた。数日前までは、階段の踊り場にイレーヌの絵が飾ってあることにも気づいていなかったにもかかわらず、もう聡子も、他のクラスメイトもイレーヌの絵に夢中になっている。
「もしかしたら絵が勝手に動いてるのかもしれないよ」
「え、ほのかってそんなファンタジックなこという人だっけ」
「誰が動かしているのかもわからない。動かす目的もわからない。だとしたら、絵が自分で動いてるのかもしれない」
「そんなバカな」
「イレーヌが自分のことを見てほしくて、わざと動いてるのかもしれない。普段は誰も目を向けてくれないし、階段の踊り場にいても誰も気が付いてくれない。自分を見てほしくなったイレーヌが、最後の手段で他の絵と入れ替わろうっていう策を取ってみた」
「じゃあ、私たちが騒いでるのはあの絵の思惑通りだったってこと?」
「そう。普段生活してるのに見向きもしない絵について、みんな議論してる」
「そうやって先生たちが生徒を議論させようとしてるんじゃない」
「どうかなぁ。そこまで熱心な先生たちだとも思えないけど。保護者から何の文句も出ないように無事に問題なく卒業してくれればいいとしか思ってないよ」
「そうかなぁ。でも、笹川先生は違うでしょ」
 聡子の言葉に思わず顔をしかめる。
「そうだね。あんなに優しい先生、他にいない」
「だよねー。あの先生がいなかったら大学の志望校だって決まってなかったもん」
 聡子はなんの疑問もなく、笹川先生が敷いたレールの上を走っていく。
「私も。笹川先生がいなかったら進路なんて考えられなかった」
 正しい言葉だった。何も間違っていない。
 学校に到着すると、昇降口のところからいつもの学校の雰囲気と違っていた。
 みんなそわそわして廊下をきょろきょろと見回しながら歩いている。みんな、イレーヌを探しているのだ。今日はどこにいるのか。どの絵と入れ替わっているのか。
「今日はどこにいるのかな」
 聡子もあたりを見回しながら靴を履きかえる。
 教室につくと、聡子はクラスメイトに声をかける。
「今日はどこにいたの?」
「北側の階段の踊り場。しかも3階から4階の。1階の廊下から、4階の階段の踊り場まで、誰にも見つからずに絵を移動させるなんて絶対無理だと思わない?」
 クラスメイトは興奮した様子でまくしたてる。
「下校時刻が過ぎても先生はたくさん残ってるし、1階なんて一番人通りが多いフロアだし。夜中に忍び込もうとしても警備が目を光らせてるし、どんなに朝早く来ても朝練してる生徒に見られるだろうし」
「誰にもバレずに絵を移動させるのは無理ってこと?」
「どう考えても無理でしょ。同じフロアだったらともかく」
 みんな、ほっぺが赤くなるほど熱心に話している。私はそこから離れて机にかばんを置く。どうせイレーヌのところにいっても、生徒がひしめいているに違いない。私は昨日と同じように1階に降りて、イレーヌと入れ替わった方の絵を見に行った。壺から壺へと白い液体を注いでいる女性の絵だった。台所のような場所で、絵の左から右に太陽の光が降り注いでいる。彼女の表情は暗い。何を思いながら、白い液体を移し替えているのだろう。女性の背後にある、暗い灰色の壁に視線が向く。吸い込まれそうな灰色だった。
 今日は、私が家に帰った時にはお母さんが仕事から帰ってきていた。久々に聞くお母さんの「おかえり」。明るい声。
「早いじゃん」
「最近、ほのかに晩御飯つくってもらってばっかりだったでしょ。たまには私が作らないとと思って。洗濯物も済ませておいたから」
「ありがとう」
 変な「ありがとう」だなと思う。ただ、家事をしてくれた親に対して子どもが言う感謝の言葉ではなく、本来は自分の仕事だけど、それを代わりにやってくれたことに対する感謝の言葉に思えた。
「忙しくないの?」
「ちょうど今月号の記事が校了になってさ。来月号の企画の会議もあったんだけど、同僚に任せて帰ってきちゃった。同僚に娘さんに全部家事押しつけて仕事ばっかりしちゃだめですよって怒られちゃった」
「仕方ないよ。大変な仕事なんだし」
 部屋にかばんを置いて、着替える。お母さんは無理して1LDKのアパートを借りて、私に部屋を用意してくれた。
 しばらくしてリビングに戻ると、料理が出来上がっていた。手作りのハンバーグ。お母さんの好きな料理だった。
 お母さんの手料理はどこか抜けた味がする。ぼんやりしているというか、あか抜けないというか、まとまっている味ではない。このハンバーグを食べても、合いびき肉の味なのか、塩の味なのか、はっきりしない味が口の中に広がる。でも、どこか癖になる魅力を持っている。
「最近、学校で変わったことあった?」
 イレーヌの話は、編集者のお母さんには興味深い話かもしれない。でも、これ以上イレーヌに触れる人が増えてほしくなかった。
「ううん。普通」
「そっか」
 さっき、自分で言った「ありがとう」という言葉がよみがえる。そして、同じ言葉をお母さんに言われた日のことを思い出す。笹川先生との三者面談の帰り道。保育士の専門学校にいくことを決めた日。
 お母さんは大学に行っていいと言ってくれた。行ってほしいと言ってくれた。その分自分が働くから、と。でも、お母さんがお父さんからの援助を受け付けない限り、それはとても難しいことだった。今の学校に通い続けることもやっとの状態なのに。
 戸棚にしまってあるお母さんの給与明細をみて、それがどれくらいの水準なのかを調べたら、世帯収入平均の半分ほどの額だった。これ以上、お母さんの負担を増やすわけにはいかなかった。
 三者面談で笹川先生に相談したら、保育士の学費助成の制度を教えてくれた。今の私にとっては、願ってもない制度だった。飛びつく以外に選択肢はなかった。
 その日の帰り、電車に乗って帰っているとき、小さな声で「ありがとう」とお母さんは言った。お母さんの顔を見ることはできなかった。とても優しい声だったことだけはわかった。あの「ありがとう」は、どんな意味の「ありがとう」だったのだろう。お母さんは、何を感謝していたんだろう。私の視界がそのときぐらりと歪んだように感じたのは、電車が強く揺れたからだったのか。

(続く)

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