ナディア、紅の豚、山椒魚、W.W.Ⅱ

はじめに

 この記事を書いている日から75年前、広島に原子爆弾が投下された。当時の日本政府(というか陸軍)が、ポツダム宣言と冷静に向き合い、早期に受諾をしていれば、投下されることはなかったかもしれない爆弾。「世界で唯一、原子爆弾を投下された国」という十字架を背負うことなく、戦争を終えることができたかもしれない。皇国の護持、組織としての面子、欧米諸国への憧憬および劣等感、様々な要素が絡まり、戦争は結局終わらなかった。そして、もう一つ原子爆弾が落とされて、15日に終戦を迎えた。そんな日を控えたときに、「ふしぎの海のナディア」を見終えたことは果たして偶然だろうか。多分偶然だ。ナディアの世界の中には第二次世界大戦が描かれていない。その40年前、20世紀に突入したところで、物語は幕を閉じる。

 しかし、描かれていないからといって物語と物語の外の要素は無関係なのだろうか。ナディアは物語が終わったあと、何を見て、何を感じて、何を後悔するのだろうか。庵野監督がどこまで考えてあのアニメを制作したかはわからないが(インタビューとか読めばわかるかもしれないけど)、あの物語は二つの世界大戦をも射程に入れた物語なのではないか。

世界大戦と「ナディア」

 ネオ・アトランティスの首領、ガーゴイルは「人間は信用のおけない欠陥品だからね。我々が管理しておかないと、愚かな戦争を繰り返し、この星ごと滅びてしまうだけだよ。そんな生き物に未来はない」(第38話)と述べている。「ナディア」の世界では、人間はもともとアトランティス人が奴隷として作り出した生物である。物語の中にはアトランティス人が最初に作った人間である「アダム」が登場し、旧約聖書、さらには「ナディア」の放送から5年後に放送される「新世紀エヴァンゲリオン」とも世界観を共有している。

 アトランティス人の最後の王であるネモは先述のガーゴイルの言葉を「どうかな」と否定し、「人間は貴様が考えているほど愚かではない」と述べ、ナディアを撃つことができなかったジャンについて「これが人間の優しさであり、いいところだ」と主張する。

 その後、ネオ皇帝の裏切りに遭い、ナディアは意識を取り戻し、ガーゴイルは敗北する。ナディアもネモのようにガーゴイルを「あなたは愚かだわ」と断ずる。EDでは1902年へと時代が流れ、その後のノーチラス号の乗組員を描いている。ナディアはジャンと結婚し、子どもをもうけ、生活をしていた。

 しかし、ネモやナディアが言うようにガーゴイルの言っていたことは「愚か」なことだったのだろうか。20世紀の歴史を少しひもとけば、ガーゴイルの言っていたことが正しかったことが明らかになる。

 物語の終結から12年後、サラエヴォ事件を引き金として第一次世界大戦が始まり、ヨーロッパ全土が巻き込まれていく。数百万人の死者を出しながら、4年間戦争状態が続く。その戦争が終わったのもつかの間、ドイツでは1919年にナチ党の前身であるドイツ労働党が結党。1921年にヒトラーが第一書記に就任し、頭角を現していく。その後のナチスの所業は周知の通りだ。

 優生思想、暴走した自国民主義の名の下に数多くのユダヤ人や障害者がガス室へと送られた。1939年にはドイツ軍がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦へと発展していく。戦線は拡大し、1945年の終結まで、全世界で数え切れないほどの死者を出した。

 ガーゴイルの計画はネモなどの尽力によって頓挫し、それほど多くの死者を出さずに終わっている(描かれていないだけで、ガーゴイルの計画も膨大な死体の上に成り立っているかもしれないが)。もちろん、フィクションと現実は比較できないが、ナチスがした所業の方がガーゴイルの所業よりも悲惨なものだったかもしれない。

 ナディアはジャンとともに20世紀のフランスで生きた。ジャンと出会った1889年当時、ナディアは14歳。ナチスによってパリが陥落したのが1940年。そのときナディアが生存していれば65歳。年老いたナディアはそのときのヨーロッパの風景を目にして、一体何を思うのだろう。ガーゴイルの言っていたことは正しかった。人間は愚かで、自分勝手な戦争を繰り返し、罪もない何百万人の人間の命を簡単に奪う。人間はやはり欠陥品だった。ガーゴイルの言葉が脳裏に再現され、父と兄の死と引き換えに手に入れた新しい時代が、跡形もなく瓦解していく。これほど苦しいことはない。もしかしたら、ジャンの航空機の技術も、軍用機に転用されるかもしれない。愛する人が作り出した技術が、人を殺す。そのときナディアは「やっぱり科学なんて嫌いよ」という一言だけで済ませることができるだろうか。

 ナディアの中で、ジャンたちと過ごした1889~90年の思い出が素晴らしければ素晴らしいほど、またガーゴイルへの憎しみが大きければ大きいほど、1940年代にヨーロッパで繰り広げられる光景によって、ナディアは苦しめられるはずだ。

 そして、視聴者である我々はナディアたちの物語が終わった後、二つの大きな大戦が起こると言うことを知っている。ナディアたちの生き生きとした生活が、マリーとサンソンとの家庭が、また戦争によって引き裂かれることを知ることができてしまう。

「紅の豚」の視線、ナディアの後悔

 スタジオジブリ作品「紅の豚」も、同じことが言える。「紅の豚」は1930年代のイタリアを舞台としている。つまり、WWⅠとWWⅡの狭間の時代だ。映画の中には台頭を始めたイタリア・ファシスト党の姿も描かれ、実際ポルコはファシストに追われることになる。

 「紅の豚」に描かれている世界はどこまでも牧歌的だ。男たちはみな愉快で、女たちはみな強く、男を待つ。いさかいは起こるものの、そのいさかいもカーニバルにしてしまう明るさがあの世界を覆っている。しかし、その牧歌的な世界も第二次大戦によって崩壊することを我々は知っている。人間の身体を取り戻したポルコは再びアドリア海のエースとして戦争にかり出され、フィオの戦闘艇作りの技術は軍用機の製造に転用されるかもしれない。アメリカで俳優になったカーチスもいずれは連合国軍の一員となり、再びポルコと、本当の「敵」として相まみえる日が来るかもしれない。ジーナはまた愛する飛行機乗りを失うかもしれない。「紅の豚」の世界が牧歌的であればあるほど、その牧歌的な世界が崩れ去る悲しみも深く視聴者に刻まれる。人間はあんなにかわいくてかっこわるくて素敵なのに、どうして戦争なんてするのだろうか。そんな声が頭に響く。

 宮崎駿は劇中でファシスト党を描くことによって、物語には直接描かれない第二次世界大戦までも射程にいれているようにも思える。一方、「ナディア」はどうだっただろう。科学全盛時代の到来を予感させるために産業革命後のパリを物語開始の舞台として設定したが、ヨーロッパの近現代に舞台を設定するということは、その後に大きな戦禍が起こることも想定の範囲内のはずである。しかし、戦禍へのまなざしは「ナディア」の中には見られない。

 もし、戦禍が想定されていたとすれば、ナディアたちは一体何のために戦ったのだろうか。ガーゴイルから何を守ったのだろう。ナディアは「地球人」になることで、何を手にしたのか。その後に失うものの方が大きかったのではないか。15歳のとき、「アトランティスの継承者として、レッドノアを沈める」とした判断を後悔するのではないか。そう思えてならない。

 マリーの語りによれば、ナディアは子どもを産んだあとも肉や魚を食べることはしなかった。物語内における強烈なナディアの自意識は物語が終わっても存続している。桁外れの正義感も、強すぎる潔癖も、引き継がれていくとすれば、自分の行いを大きく悔いると考えても不自然ではない。ナディアは悲しむために戦ったのか。悔いるために戦ったのか。ナディアはなんのために戦ったのだろう。

「気づいたときにはすべてが終わっている」

 いささか唐突ではあるが、井伏鱒二の『山椒魚』について触れたい。私が『山椒魚』という小説から読み取る一番大きな要素は、「気づいたときにはもうすべてが終わっている」ということだ。

 頭が肥大化したことによって狭いすみかから出られなくなった山椒魚は、溜飲を下げるために小さい小窓から外界を眺め、他者を批判する。美しい花粉を見ては「すみかが汚れる」といってみたり、活発に泳ぎ回る小魚の群れを見ては「不自由だ」と罵る。

 しかし、それらの他者批判は結局すべて自分の身に降りかかってくる。「不自由だ」と小魚を批判しながら、水に吸い込まれていき花弁を眺めてめまいがしそうになっていく。弱者である自分を抑圧するために他者を批判するが、やはり抑圧しきれるものではない。最終的に小エビに対して放った「屈託するやつはバカだよ」という言葉によって、自分の愚かさに気がつく。そして、すみかから出ようとする。しかし、もうすみかから出られることはない。気づいたときには、すべてが終わっているのだ。

 物語の中でこの山椒魚と同じ行動をしていたのがガーゴイルだった。人間たちをネオ・アトランティスの管理下におこうとしているガーゴイルもまた人間だった。最後にブルーウォーターの光に触れて、塩になるときに初めてその事実に気づく。その瞬間に、自分の計画はすべて幻想だったことに気がつき、人間に対して放っていた「人間は愚かだ」という批判の言葉が自分に返ってくる。しかし、自らの愚かさに気づいたときにはすべてが終わっている。そのまま、塩となって絶命するしかなかった。

 ただ、上記のように物語の外に目を転じてみれば、ガーゴイルと同じ道を、ナディアはたどることになるのではないか。ガーゴイルが悪であり、人間と共存の道を選ぶ自分の道が正しいと信じてきたナディアが、二つの大戦によって人間の愚行を嫌というほど見せつけられる。そのとき、ナディアはガーゴイルに向けて言った「あなたは愚かだわ」という言葉が自分に返ってくる。そのことに気づいたときには、やはりすべてが終わっているのだ。もう、後戻りができないところまで戦火は燃え広がっている。

 井伏が『山椒魚』を表した1929年当時の文学界では新感覚派による純粋芸術の追究やプロレタリア文学が引き起こす政治と文学との闘争などの新しい潮流が起こっていた直中だった。井伏は直接的にどこかに属することはせず、少し離れたところから文学シーンを眺めていた。何かを至上命題として設定し、盲進し、追求していく様を相対化する。ガーゴイルにはその明晰さがギリギリのところで残されていた。塩になる一瞬のうちにすべてを理解し、後悔し、「さらばだ」という言葉を遺してこの世を去った。

 果たしてナディアはどんな思いで大戦を眺めるのか。相対化しながら世界を見つめ直すことはできるのだろうか。それとも、自らの信念を貫き続けるのだろうか。信念を貫くには、二つの大戦はあまりにも残酷なものではあるが。

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