「イレーヌと漂いつつ」(1)

 階段の踊り場から少女が消えた。
 4階まで続く長い階段をもうすぐ登り切ろうというときに、彼女の姿がいつも目に入る。額縁におさまったその少女はわずかに上目遣いをしながら物憂げな瞳で何かを眺めていた。栗色の長い髪の毛は翳のはいった青色の髪飾りでふんわりとまとめられていた。彼女はどこから見ても輝いていたし、いつまでも寂しげだった。そんな彼女の姿を目にしながら、いつも4階への最後の階段を登っていく。でも、彼女の姿が今日はなかった。
 代わりに奇怪な男の絵が掲げられていた。絵の具がうねるようにキャンバスの上をのたくっている。暗い緑色の背景に、白い額が浮かんでいる。二つの瞳は、絵を見る者の方を向く者の、その向こう側にある何かを憎んでいるかのような鈍い輝きを秘めている。正直気味が悪かった。
「絵が変わってる」
「え? 絵? なんのこと?」
 独り言のつもりだったけど、隣を歩いていた聡子に聞こえていた。
「ここに飾られてた女の子の絵が、男の絵に変わってる」
 そう言うと聡子も同じように男の絵を見た。
「そうだっけ。なんかキモいね。この絵」
 一瞥しただけで聡子は最後の階段に足を向けた。男は何かを非難したいような顔をこちらに向けるだけで、実際に何かを口にすることはなかった。
 教室にたどり着いても、少女の絵がどこかに消えたことを口にするクラスメイトは多分いなかった。教室の中には割れたガラスの破片が乱反射しているように女の子の声が響いている。自己推薦文の下書きがまだ書けてない。滑り止めのオープンキャンパスも行った方がいいのかな。漢文ってもう捨てていいよね? 第一志望受かんなくても別にいーよね。そんな言葉が耳に入ってくるだけで、少女の可憐な容姿に想いを馳せる言葉は聴こえない。
 そういえば、いつも眺めるだけで、あの絵がどんな人物によって書かれて、あの少女が誰かということを調べたことがなかった。彼女がいなくなってから、彼女のことをもっと知りたいと思うなんてなんて傲慢なんだろう。でも、代わりの絵が飾ってあると言うことは、あの絵が飾ってあった場所にあの少女の絵が飾ってあるのかもしれない。
 まだホームルームまでは時間があった。
「私、職員室行ってくる」
 前の席に座っている聡子に声をかけて、教室を出た。どうしてそんな嘘をつく必要があるんだろう。
 学校の中には何枚もの西洋画のレプリカが飾ってあることは昔から知っていた。ただ、私がよく見ていたのはあの少女の絵だけだったから、他にどんな絵が飾られているかということを気にしたことがなかった。
 廊下を歩く女の子たちの視線をかわしながら廊下を歩く。一枚、また一枚と絵が見つかる。職員室がある2階まで廊下を歩いては階段を降り、また校舎の端まで廊下を歩いては階段を降り、という道順を辿りながら少女の姿を探した。
 職員室も抜けて、2階の端にたどり着いたとき、少女の姿を見つけた。
 薄暗い廊下の行き止まりに、その絵は飾られていた。額縁の中で、少女はいつものように物憂げな視線を浮かべながら柔らかく座っている。自分の顔がほころぶのがわかった。消えてなくなってしまったわけじゃないんだ。
 元々、この場所のあの男の絵が飾られていて、交換されたのだろうか。少なくとも、4階の教室に通っていたこの8ヶ月間は少女はあの階段の踊り場にいた。どうしてこのタイミングで絵が交換されたのだろう。交換されたのだとしても、誰が、なんのためにそんなことをしたのだろう。
 朝のホームルームを告げるチャイムが高々と校内に鳴り響く。少女の顔を、もう一度だけ見て、ガラスが飛び交う教室に向かって走った。

(続く)

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