「イレーヌと漂いつつ」(2)

 今日も、階段の踊り場にはあの男がいた。
 腹立たしさを押し殺しているような視線をこちらに投げかけている。絵の具のうねりが男の執念の強さの表れに見えてくる。彼は何に怒っているのか。それとも、怒っていないのか。それは額縁の外にいる私にはわからない。いや、額縁の中にいるのは実は私の方なのかもしれない。
 聡子はもう絵のことなんて忘れていた。男の絵に目もくれず、私に受験にかかわる不安ごとを漏らしている。私にはそれはノイズにしか聴こえなかった。私にとっては、離れてしまった少女の存在と、私を睨みつけるこの男のことが重要だった。
 教室にかばんを置いて、またトイレに行くふりをして少女の元へと向かう。職員室を抜けて突き当りの壁。しかし、そこに少女の姿はなかった。
 どうして、と自然と呟いていた。壁にかけられていた絵には、二人の踊り子が描かれていた。白いひらひらの衣装を身にまとって、手すりに足をかけている。右の少女は自分の右足を気にしているようなそぶりをしている。二人の少女は、真ん中には描かれずに、絵の右上に描かれている。少し薄汚れているようにも見えるベージュの壁が少しあたたかった。
 また少女が消えてしまった。ホームルームまでは少し時間があるものの、絵を探していたら始業のベルには間に合わない。踵を返して教室に戻った。
 「最近一人でトイレよく行くね」
 聡子が言う。
 「うん」
 適当に返事をする。
 ほどなくして笹川先生がクラスに入ってきた。
 「あとみんなの授業も一ヶ月で終わります。残るは卒業試験のみです。それが終われば、大学受験に向けて一直線です。最後にギアを上げられるように規則正しい生活を崩さないように気をつけよう。最後に勝つのは、いつも通りの生活を続けられた人です。特別なことはせず、普通の生活を心がけよう」
 笹川先生の明るい声に、クラスメイトたちは小さく頷く。専門学校に行く私には何とも言えない疎外感を抱く毎日だ。大学にいくことだけが進路ではない。保育士養成の専門学校に行くことだって立派な自己実現の方法だ。笹川先生は三者面談のときに言ってくれた。それは私にもわかっている。大学に通えるような経済力はもう私の家には残されていないのもわかっているし、お母さんを経済的に支援しなければいけないということもわかっている。ちゃんと保育士として仕事に従事すれば、奨学金の返済も全額免除される。私が専門学校にいくことは必然だ。正しい、適切な選択だ。人生の選択に優劣はない。ただ、他の女の子たちは当然のように大学受験をして、大学に行く。私が3年で専門学校を卒業したあとも、1年は大学に在籍して自分の勉強をする。私のように高校三年生の時点で職業も宿命づけられている友人は稀であって、これから大学にいってそれぞれの人生を模索し始める。中高一貫の女子校において、それは当然の選択だった。ただ、両親が離婚したことによって、私の人生が学校の方針に合わなくなってしまっただけだ。言葉を重ねて、自分を塗り固める。でも、塗り固めた言葉はすぐに水分をうしなって、ひび割れて、私のからだからべろべろはがれていった。
 昼休みに美術室に行って、大黒先生を訪ねた。昼休みは大体自分の作品を作っている。
「先生、最近学校の絵が入れ替わってること知っていますか?」
「入れ替わってる? なんで?」
 大黒先生は、普段色の濃い口紅を塗っているが、今日は何も塗っていなかった。大きすぎる黒縁メガネが鼻からわずかにずり落ちている。でも、先生はそんなこと気にしていないようだった。
「知りません。だから先生に聞きに来たんです」
「あたしも知らないよ。なんの絵が入れ替わってるの?」
「上目遣いでどこかを見てる少女の絵です」
「あぁ。イレーヌね。御影はルノワールも知らないのか」
「ルノワールっていう人が書いたんですか」
「オーギュスト・ルノワール。印象派の代表的な画家だよ。きらびやかすぎてあたしはあんまり好きじゃないけど、イレーヌ嬢の絵は確かにいい。もっと作品のことを調べてみなよ。いろんなことが見えてくるから」
 大黒先生はそう言ってキャンバスに向き直った。
「じゃあ、イレーヌの絵が入れ替わっていることは知らないんですね。他の先生が移動させるって言ってませんでしたか」
「聞いてないね。みんな絵なんて興味ないでしょ。みんなにとっては風景の一部だよ。わざわざ切り取る人なんていない。カフェのBGMと一緒」
 大黒先生は心なしか声を落としてそう話した。
 放課後の時間、聡子と別れて、学校を歩き回った。イレーヌは3階のトイレの横の壁にいた。
 トイレの横になんて座りたくないわ。憂いを帯びた瞳が、そう言っているような気がした。私もこんなところに立ち尽くしたくはなかった。

(続く)

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