「イレーヌと漂いつつ」(3)

「絵が勝手に移動してるんだって」
 朝、教室に入ったら誰かが静かにそう言っていた。
「どの絵が移動してるの」
「白いワンピースを着た女の子の絵。昨日、3階のトイレの横に飾ってあったのに、今日は1階の保健室の横に飾られてるんだって。しかも、トイレに飾られる前も、別の場所に飾られてたらしいよ」
「嘘。ていうかそんな絵飾られてたっけ」
「私もみっちゃんに言われて初めて気が付いたんだよね。みっちゃんも誰かに聞いたらしいけど」
「ふぅん。誰かが移動させてるのかな」
「みっちゃんが先生に聞いてみたんだけど、そんなの先生も知らないって言われたって」
「え、こわ。誰かが勝手に動かしてるってこと?」
「それとも、絵が勝手に動いてるとか」
「なんの話?」
「知ってる? 絵のお化けの話」
「お化け? なにそれ知らない。教えて」
 廊下に近い席で女の子の輪がだんだんと大きくなっている。
「なんだろ。なんかあったのかな」
 聡子が目を光らせて人だかりを見ている。
「絵が動いたって言ってるね」
「なにそれ、おもしろそう」
 聡子はカバンを机に置くなり、恐怖で彩られた声がだんだんと大きくなっている集団に向かって歩き始めた。聡子は男の絵に対して「キモ」と言ったことはとうに忘れていた。
 女の子たちを尻目に私は教室を出て、一階にいるというイレーヌに会いに行こうとした。階段を降りていると笹川先生とすれ違った。
「おはよう」
 笹川先生はいつでも明るい。でも、おしつけがましい明るさではない。対象をギラギラと直接照らし出す照明というよりは、暗い部屋を柔らかく、それでいて隅々まで照らす間接照明のような明るさだ。女子校の中では数少ない男性教員ということも後押ししてか、生徒も教員も、誰しもが笹川先生を慕っていた。
「おはようございます」
「御影、もうすぐホームルームだからな」
「はい。すぐに戻ります」
 笑顔で声をかけ、先生は教室に向かって歩いて行った。先生はいつも始業時間の10分前には教室に行って、生徒と話しながら教室を観察する。どこかに疎んじられている生徒はいないか。行き詰まっている生徒はいないか。そんな生徒を見つけると、その場では声をかけずに、帰りがけにそっと声をかけられる。悩みを共有して、時間をかけて解決の道を一緒に探る。私もその中の一人だった。両親が離婚したあと、さりげないトーンで声をかけられ、そこから進路の話が展開していった。あのときの私は人生のビジョンも何もなかった。この先どうやって生きていこうかということを全く想像できなかった。でも、笹川先生の手によって道はひらけていった。
 笹川先生の微笑みを思い浮かべながら階段を降りる。
 どうしても、私にはどうしてもその微笑みが許せなかった。
 相手を包み込むような微笑み。それは包摂であり、支配だった。
 先生が心のそこから優しいことは知っている。でも、私にはその優しさが怖かった。
 慰められ、庇護され、支配下におかれる。私の人生は笹川先生の手によって半ば決定されてしまったのだ。でも、決めたのは私だ。決めるように差し向けたのは笹川先生だが、実際にその道を歩もうと決めたのは私だった。言い逃れはできなかった。無自覚に人の人生を決定し、その決定に、私は従うしかない。怖かった。
 ひねくれていることはわかっている。ただ、笹川先生の優しさによって、私という存在が規定されたことが怖いのだ。私は専門学校に赴くたびに、笹川先生の微笑みを思い出さなければいけない。多分、保育士になったときにも。いつまで、私は笹川先生の微笑みによって縛られ続けるのだろう。
 一階にたどり着いたが、そのまま階段を登り始めた。イレーヌと合わせる顔がなかった。
 笹川先生の顔を出来るだけみないようにしてホームルームの時間をやり過ごした。教室は突然降りかかってきたスキャンダルに浮き足立っていた。なぜ絵は動いているのか。誰が、なんのために動かしているのか。すでにあちこちにそんな議論の場が設けられていた。聡子も一つのグループに加わっていた。
「くだらない」
 凛とした声が教室に響いた。名越ゆいかは教室の中心にいた。
「絵が動いたくらいのことで、騒ぐことないじゃない」
 名越さんは目の前のクラスメイトに話していたが、明らかにクラス全員に聴こえるように言った。
「先生たちだって先生同士全員の動きを把握してるわけじゃないでしょ。誰かが絵の配置を替えてるだけなのに、こんなきゃーきゃー騒ぎ立てるなんてバカみたい」
 名越さんはいつでも正しかった。部活にも生徒会にも所属しているわけではない。ヴァイオリンをプロの演奏家に師事しながら、市民楽団で活動している。今は音大を目指しながらも、国立大学入学を視野にいれて勉強して、偏差値は学校でも指折りの高さだった。
 誰かの前に立って発言をするわけではないが、その一言一言には重みがあった。誰かを説得するだけの力を持っていた。名越さんの声は、誰にとっても無視できないものだった。
「ただ受験のストレスを晴らしたいだけなんだろうけど、教室でうるさくするのはやめてほしいよね」
 長い髪を耳にかける。黒縁のメガネが輝いた。
 名越さんの声に教室のトーンは控えめになったものの、イレーヌの絵にまつわる会話は収束しなかった。少女たちの言葉の上で、イレーヌは弄ばれる。名越さんもそうだが、私もいくらか不愉快だった。笹川先生の微笑みも頭にちらつく。最悪の朝だった。

(続く)

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