「イレーヌと漂いつつ」(13・終)

「今日、保育園の見学に行ってくる」
「そうなんだ。家の近く?」
「うん。自転車で10分くらい。帰りは遅くなりそう?」
「そうだね。来月の企画案を今のうちに作っておかないと」
「そっか」
 私はテーブルに昨日の残りの味噌汁と、スーパーで買っておいた西京漬けの焼き鮭と、ご飯を置く。二人でする、いただきます。土曜の朝には珍しい。
「お父さんに、そっちにはいかないって言っといた」
「そっか」
「お母さんて、私にどんな人間になってほしいと思う?」
「そんなのほのかの自由じゃない。ほのかの生きたいように生きるのが一番。ほのかがどんな選択をしても、私は応援する」
「そういう言葉が、最悪だってこと、お母さんは気がついてない。自由に選べって他人に言うことほど自分の責任から逃れてる言葉はない。結局お母さんは決めさせるのが怖いだけでしょ。お母さんが私に進路を決めさせたってことになればその責任はお母さんが背負わなきゃいけなくなるから。だから、私の自由を正当化する。私が自由であればあるほど、お母さんの肩から荷物が降りていく。お母さんはそうやって私から逃げてる。お母さんとしての責任を放り投げてる。お母さんが手に入れたい自由は、私の自由じゃない。お母さんの自由だよ。私に自由にさせることで、お母さんは自分が自由になりたいだけだよ。私が専門学校に行くって決めたのも私の自由。大学に行かないのも私の自由。だから、私の責任。お母さんの責任じゃない。そうやって私から逃げてる。お母さんがしたいことって、逃げることなの? お父さんからも、私からも逃げることなの?」
 焼き鮭の味が全くしない。自分が何を言ってるのかまったくわからない。持ってる箸が柔らかいように感じる。テーブルが傾いてる。足の裏がぐっしょり濡れてる。
「私たちは、逃げることしかできないんだよ」
「たち? お母さんだけじゃなくて、私もってこと?」
「私はあの人から自由を対価にあらゆるものを奪われてきた。私は自由だったから苦しかった。私の尊厳も、命も、あの人は私の全てを握っていた。でも、あの人にはそんなつもりは一切ない。自分が私の尊厳を保障していると本気で思っていた。疑いを全く持っていなかった。その自明に私は耐えられなかった。自明を壊すためには、逃げるしかない。私があの人に何を言ってもそれは間違いでしかない。私が言葉をどれだけ尽くしても、あの人の間違いを正すことはできない。だったら、私たちには逃げるしかない」
「それはお母さんの話で、私は関係ない。お母さんは味方が欲しいだけだよ。数で勝負しようとしてるだけだ」
「じゃあ、ほのかはお父さんのところに帰ればいい」
「それじゃあ何も変えられない。お母さんは逃げたままで、お父さんはお母さんを支配したまま。その関係を変えるためには、この家から逃げるわけにはいかない。家族をつくるためには、家族を壊さなきゃいけない。家族を壊すためには、いるべき家にいなきゃいけない。たくさん勉強する。いろんな経験もする。それで、お母さんとお父さんを殺すんだ。今のお父さんとお母さんを。殺して、壊すんだ。家だって全部壊す。そうすれば、また新しい私たちになれるかもしれない。そうするために、私はここに残る。お母さんと一緒にいる」
「何言ってるの」
「わかんない。自分でわかったら苦労しない」
 お母さんは黙って朝ごはんを食べて、家を出て行った。
 家に静けさが戻る。静けさと焼き鮭の香りだけが残る。
 これでよかった。
 一番逃げていたのは私だ。
 これからも逃げることがあるかもしれない。でも、より良い姿があるはずだ。そこに近づこうとしなきゃいけない。私も、お母さんも、お父さんも。
 味噌汁をすする。鼻水の味がした。しょっぱい。
 顔もきちんと洗って、制服に袖を通して、私も家を出る。自転車を飛ばして保育園に到着する。携帯を見る。約束の時間の10分前。上出来。
 心臓の鼓動を聴きながらインターホンを押す。ほどなく返答があり、中へと入る。
「こんにちは。ようこそ、緑保育園へ。園長の香坂です」
「初めまして。御影ほのかと申します。今日はよろしくお願いいたします」
「こちらこそ。保育士を目指す人に力を貸せるのなら大歓迎。ただでさえ人手不足で困ってるからね」
 香坂さんは笑顔を浮かべる。柔らかく、優しい笑顔というよりは、自信とエネルギーに満ちた笑顔だった。
「今はちょうど朝おやつの時間で、それぞれのお部屋でおやつを食べています。もちろん、おやつの時間は子どもたちにとっては楽しい時間だけど、いただきます、ごちそうさまを言うこと、食器を使うこと、誰かと一緒に食べ物を食べること、大切なことを身に着ける時間でもある。遊びの中にこそ学びがあると私も、ここの職員もみんな思っています。全力に遊んで、全力に学ぶのは保育園の意義だと思う」
 香坂さんは教室を見渡す。視線の先では子どもたちが笑顔でおやつのドーナツを頬張っている。先生たちは子どもたちの手伝いをしながら、時には注意したり、ときにはおいしいね、と笑顔で声をかける。
「保育園は、ただの託児所じゃない。教育期間でもあり、家庭を支え、地域を支えるインフラなの」
「インフラ、ですか」
「そう。水道とか、ガスとか、電車とか、学校とかと同じ。個人を支えながら、社会を支える原動力になる。私たちが支えているのは目の前の子どもたちだけじゃなく、その保護者の方々だけでもなく、そのもっと向こうにある社会全体を支えている。思い上がりだって人は言うかもしれないけど、私は間違いなくそう思ってる。今は賃金も低いし、保育士なんて女性のやる仕事だって思われている。なり手の少ない職業だと思われてる。大変なだけで搾取される仕事だと思われてる。そんな固定観念を打破したい。私ができることは小さいかもしれないけど、そんな思いが集まれば、世界は変わっていく」
 なんの淀みもなく、香坂さんは言ってのけた。迷いがない。
「なんて、かっこつけて言ってるけど、実際はうまくいかないことばっかり。どこから手をつけていいかもわからないし、やっぱり子どもたちと向き合うことが限界だったりする。でも、その思いを捨てちゃいけない。御影さんも、保育士を目指すのなら、自分の目指す職業を誇れるようになってほしい。どんな仕事にも、誇りがあるはずだから」
 誇り、尊厳。保育士という仕事に、そんな言葉を見出したことなど一度もなかった。学費がかからない。経済的負担が少ない。でも将来は不安。そんな姿しか見ていなかった。
「ごめんね。一方的に話しちゃって。もっと詳しく見て行ってね。よかったら子どもたちと話してあげて」
 そう言って、香坂さんは事務室に戻って行った。
 朝おやつの時間が終わり、一斉にごちそうさまをする。子どもたちは各々の遊びを始める。誰もが溌剌と遊んでいる。自分が興味あるものに熱中したり、先生とひたすら話したり。香坂さんと同じように、この部屋もエネルギーに満ち溢れていた。
「ありゃりゃ。ごめんなさーい、りか先生、布巾取ってくれる? こうちゃんが吐いちゃった」
 その声に目を向けると、膝をつく先生の前で一人の男の子が大声で泣いていた。その服は嘔吐物で汚れている。
「おやつ食べ過ぎちゃったかな。はいはい、着替えちゃおっか」
 言われるがまま、汚れた上着を脱がされ、上着は別の先生に手渡される。少し時間が経ってから、酸っぱい香りが私の鼻までたどり着いた。
 上着を持った先生は部屋を出て、トイレのドアを開け、上着を水洗いする。じゃぶじゃぶと水が流れると共に嘔吐物も流れていく。
 吐いた男の子は着替え終わり、自分が吐いたことなど忘れてしまったかのようにまた遊びに戻っていく。じゃぶじゃぶと水の流れる音が聞こえる。子どもの歓声。私の喉の奥がすっぱくなる。胃にいた焼き鮭が戻ってくる感覚がする。私はごくりと唾を飲み込む。でも、饐えた味はなくならない。お母さん。飲み込む。酸っぱい。飲み込む。酸っぱい。笑い声が響く。

(終)


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