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忘れられない本【10冊目:錦繍】

忘れられない本がある。

前略
蔵王のダリア園から、ドッコ沼へ登るゴンドラ・リフトの中で、まさかあなたと再会するなんて、本当に想像すら出来ないことでした。

錦繍


この一文で始まる本の題名は『錦繍』。
心中事件をきっかけに離婚した元夫婦が十年ぶりに蔵王のゴンドラの中で再会し、元妻は元夫に向けて手紙をしたためる。
手紙を通じて、過去と向き合い、現在、未来に思いを馳せる様が、往復書簡という形式で静かに綴られる。


本には、紙で読むのが相応しいものと、電子書籍でも良いものがあると思う。
幾度となく繰り返しているので先日電子書籍で買ったけれど、私の中でこの本は紙で読むのが相応しい気がする。


この本は、短期大学入学時の課題図書だった。
当時の私が読む本といえば、『伊達政宗』や『宮本武蔵』といった時代小説が主だったので、課題図書とされても正直なところ興味を惹かれなかった。
課題図書ではあったけれど特に講義で使うものでもなく、かといって課題図書に対するレポート提出等もなかったため、結局ただ手元に残しているだけだった。
れからしばらくして、本を処分する前にと読んだのが最初。


書き出しの一文を読んで、私は衝撃を受けた。
再会?
文中に出てくる「あなた」とは何があった?
そして手紙の差し出し人は誰?

そして往復書簡という文体にも、強い印象を与えた。
第三者視点でもなく、一人称でもない。
ためらい、激情、不安、喜び、悲嘆、怒り、迷い、別離、希望。
人が持つ様々な感情を、元夫婦それぞれの視点を通じて、穏やかな文面の手紙から垣間見えるのだ。
メールでも140文字の短文でもなく、個人に向けた手紙。
読み進めるたびに、ページを捲るたびに物語としてではなく、誰か知らない人の、とても私的な手紙を読んでいる錯覚にもなる。
そして綴られる日本語の文体の柔らかさ。
生と死を通じて、人を思い、自分と向き合い、未来に向かってそれぞれ歩み始める過程が、とても丁寧に紡がれているのだ。


この本を、何度も手放した。
けれどまた読みたくなって、その度に買い直した。
きっとこれからも、なんだかんだ手元に残しておくのだろう。


[引用]
書名: 錦繍(電子書籍版)
著者: 宮本 輝
発行: 株式会社新潮社
ISBN:978-4-10-130702-2
              (敬称略)


これまでお読みいただき、ありがとうございます。
皆様が素敵な本や言葉に出会えますように。
良い時間をお過ごしくださいませ。

Izumi

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