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せいかつのなかに佇む 書くこと、読むこと

生活をするなかで、「書くこと」と「読むこと」がそれぞれ自分の中でどのような役割がしているのかわかったように思うのでまとめようと思う。

つい最近、仕事に行けなくなった。
立派な理由はなく、ただ朝に目を覚ますと身体が重く、起きる気持ちになれない。好きだった、本を読むことも、文章を書くことも「したい」という気力が失われたように感じた。

職場に『お疲れ様です。本日体調不良でお休みします。』という連絡を何日か続けて連絡した。3日目くらいで、まだ仕事に行くのは難しいように感じたので、1週間半ほど、休みをいただくことを連絡した。

依然として身体は重く、12時くらいに目を覚まし、スマートフォンを眺めたり、眠ったりして、気づくと夜になっている生活を1週間ほど続けた。なぜこうなっているのかを考えることも、なんだか無理やり前に進もうとしているような感覚になり、どこか気持ち悪く、受け入れがたく、考えることを放棄するというよりは、仮説を受け入れることに抵抗を覚え、思考は深い闇に向かって進んでいき、気づくと深海の光が届かない場所にいるような気持ちになった。ところで海への光は深さ200mくらいでほとんど消えて、暗闇の世界になるらしい。僕らの世界は光が満ち溢れているように見えて、実はすぐ近くに、ひょんなことがきっかけで暗がりに足を踏み入れることは誰でもあるように思う。

ある日、このままの生活を続けると腐ると思った僕は、理由もなく、海に行こうと思った。江ノ島に向かう。17時くらい、あたりが薄暗くなる頃に海に着いた。人はそれほど多くないが、少なくもなく、ひとりで来ている人もいくらかいて、勝手に親近感が湧いた。
少し散歩したいと思い、江ノ島から七里ヶ浜のあたりまで、江ノ島電鉄沿いを歩いた。そこで考えた。
『以前、問題なく、生活を送れていたときと、今は何が違うのだろう。』
答えを出すことにそれほど時間はかからなかった。
答えは、「書くこと」と「読むこと」だった。

日常的に生活を送るなかで、考え事をすることは多いように思う。自分の事柄について考えることもあれば、電車で綺麗な女性が隣の席にが勢いよく座る現場を目撃して、なぜこの人はこんなに勢いよく座るのかと思うこともあれば、社会全体についてぼんやりと考えることもある。
そういう「考える」ことが増えると起きることがある。「正しさ」がないこと、あるいは「分かり合えない」ということがわかっていく。するとこれまで正しいと思ってきたこと、当たり前に受け入れてきた概念が当たり前として受け入れることが日々困難になっていく。

僕は習慣にしていることがふたつある。
ひとつは、読書、ふたつ目は、日記を書くこと、あるいは思ったことを書き出すことをしている。
後者は、朝起きて、会社に出社したタイミング、休日であればカフェなど作業スペースについたタイミングで行う。具体的には、思っていることをひたすら抜き出す。この行為をすることで、日常で出会う考え事やモヤモヤなどが整理されていく。整理されていくと、客観的な問いに姿を変えることが多い。例えば、自分の事柄であれば、同じように考える人は今の社会の中にどれだけいるのか、当たり前に受け入れてきた概念がわからなくなれば、今の「当たり前」はなんなのだろうという問いになる。
そしてこれらを本を読むことで受け入れていくというのが自分の中での重要な生活のリズムである。
だからある日、目を覚まし、「書くこと」と「読むこと」が困難になることで、自分の中で自然のリズムとして、消化されてきた、考え事やモヤモヤが無限に蓄積されていく。吐き出すことも、整理することもままなら無くなり、パンクしたというわけである。

ではなぜ、ある日突然、「書くこと」と「読むこと」をしたい気持ちがなくなったのかと言えばよくわからないのが現状である。でも仮説はある。
ひとつは、直近の環境の変化である。仕事内容を一気に変えて、かつ関わる人も大きく変わった。変化というものはポジティブなものも、ネガティブなものもストレスになると、ある精神科医が言っていた。体感としてもその通りであると思う。
もうひとつは、生活の中で「決めごと=ルール」に近いことを多く設けすぎた。例えば、なるべく自炊しようとか、朝は早起きしようとか。
なぜそれをやっているのかを問う前に身体だけを動かし続けた。それがよくなかったように思う。そして、「決め事=ルール」をうまくこなせないとなんだか失敗しているような気持ちになることがあった。

休みはじめて、1週間半くらい経った頃、家でぼーっとして過ごしていた。そんな時に友人からの着信があった。出てみると、励ましの言葉をもらった。その友人の言葉には「頑張れ」のようなニュアンスを含んだ言葉はなく、ただ心地よく生活できるように、無理せず過ごしてくださいとのことだった。テキストでなく、電話という方法をとったのも、テキストだと解釈に齟齬が生じる可能性があるからということだった。またある別な人からは、『最近はどうですか?私はうまく生活ができない、体調を崩したりしている。』でもお互い無理せず過ごしそうというような文章をもらった。

背中を押すよりも、斜め後ろに座って見つめてくれるくらいの距離でいてくれる人が周りに多くいることは嬉しく思う。
翌日から会社に行くことができた。今こうして文章を書いているということは、「書くこと」と「読むこと」もうまく機能し始めている。
これから「せいかつ」を大事にして、生きていきたい。

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