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小説「武光と懐良(たけみつとかねなが)敗れざる者」61



第十二章    落日




武光に今川了俊がすでに豊前に侵入していると報告があがったのは、一三七二年、文中元年、正月のことだった。
武光は武政の応援に駆け付け、共に豊後高崎城を攻めている最中だったが、その陣中へ猿谷坊からの報告が届いたのだ。
「今川了俊はすでに関門海峡を渡っており申す、それ以前に、中国筋の諸将がそれぞれの軍勢を率いて展開し、互いの連携を取りながら続々と九州入りしてきており」
「しもうた、間に合わなんだか」
正月三日、武光は高崎城の攻囲を解いて筑前松本城に進んだ。
今川軍の豊後、筑前間の連絡網を寸断しようと図ったのだが、今川了俊の操る北朝勢の圧力に抗しきれず、武光は武政ともども他地域で戦っていた牧の宮や城隆顕ほか、征西府首脳陣を大宰府に呼び戻し集合させた。
 
正月の菊池正観寺では大勢の人々がいくさの勝利を祈っていた。
観音経の合唱がすさまじい地鳴りのようになって境内中に、いや、菊池中に響き渡っていく。一〇〇〇人の坊主と二〇〇〇人の里人たちが集まっている。
正観寺の一庵の庵主となった美夜受が導師を務める。慈春尼はすでにこの世にない。
 
「世尊妙相具、我今重問彼、仏子何因縁、名為観世音、具足妙相尊、偈答無尽意、汝聴観音行、善応諸方所、弘誓深如海、歴劫不思議、侍多千億仏、発大清浄感、云々」
 
この時の祈りの会は、かつて大保原の時の祈りの会とは全く趣が違っていた。
あの時は勝機をつかんで上り詰めたいという熱気がみなぎっていた。
だが、今は裏側に恐怖と敗北の予感が充満している。
戦況は刻刻と菊池の衆に伝えられている。
筑前麻生山の多良倉、鷹見岳の城が今川勢に落とされたという。
今川勢は太宰府の北方、佐野山に進軍して陣を敷いたとも。
肥前、筑後でもいくさが行われ、南軍は押されて退いているらしい。
酒見城でも押されて撤退している。
予想外の速さで敵が、何かおぞましい黒い怪物が進行してきていた。
すべてを奈落へ叩きこもうとする巨大な運命という怪物が。
その予感に怖気て、菊池の人々は必死に祈る。
ただ、美夜受だけは強い願望のもとに観音経を唱え続けている。
美夜受の心に菊池を発展させ、日本統一の母体となすという武光の言葉が聞こえていた。
菊池から全国に号令をかけるとの言葉が。
美夜受は結末を予想などしていない。
意志そのものとなって勝利を祈願している。
 
一三七二年、文中元年、八月十二日、太宰府征西府政庁。
城隆顕(じょうたけあき・五〇)が一人で征西府政庁大広間に面壁の座禅をしながら敵を待っている。その夏も暑く、隆顕の額から汗がしたたり落ちている。
御殿内は静まり返っている。書類や食器なぞが転がっているばかりだ。
城隆顕があとを引き受け、懐良親王や武光たちを詰めの城有智山城へ移動させた。
その騒ぎの後の静けさの中、城隆顕は太刀を脇に置いて持参の丸座布団の上にいる。
城隆顕は若いころから聖護寺で大智禅師の指導を受けていた。
大智禅師を武光が追い払ったために以後は独自に座禅を組んで生とは何か、死とは何かを追及してきていた。そして一定の境涯にたどり着いていた。
木庭一族に生まれ、早くから菊池一族に臣従、中国古典に由来する軍略に通じ、城郭の縄張りを得意としてきた。その一方で禅を学び、生と死を解釈して不動の信を打ち立てようとしてきた。そして菊池武光と出会い、武光の力量と男気にほれ込み、生涯を通して尽くしてきた。赤星武貫とは互いにタイプ違いながら、それぞれの個性を認め合い、菊池一族を支えてきた。その人生が残りわずかなものになっていることを潜在意識は認識しているようだが、本人としては昨日を戦い抜いたように、今日をも戦い抜くだけのことだった。
乱暴に言ってしまえば、禅の要諦は万理が一空に帰結することをわきまえ、その表現が即今只今(そっこんただいま)にあることを身をもって観じ、刹那に生ききることを得ることにある。禅を会得したものはやがて余分なものをそぎ落とし、おのれの生のテーマを絞ることが可能となる。城隆顕には菊池一族を支えるに足る働きができるか否かだけが問題だった。その時が迫っている。果たせるならば、一人でも多くの敵武将と刺し違えたかった。
城隆顕は口の中で、赤星武貫、じきに会えるばいな、とつぶやいていた。
そこへ物見の兵が駆け込んできた。
「敵軍が姿を現しよりましたばい、途方もなか数でござる」
と、震えている。
「そうか」
城隆顕は腰を上げた。
御殿内を通り抜け、征西府御殿敷地の外れにあるやぐらに上っていく。
物見台の上からすさまじいまでの軍勢が迫りくるのが見えた。
最初、城隆顕は茫然となった。
これだけの軍勢というものを城隆顕は生まれて初めて見た。大保原(おおおばる)のいくさの時は平野が広すぎたためか、そんな実感はなかった。だが、今はわりに狭い範囲に太宰府の町や周辺が広がり、そこ一杯に雲霞(うんか)のごとき軍勢が押し寄せつつあって、あふれかえっている感じがした。撥ね返すの返さないのという段ではない。
城隆顕は笑うしかなかった。おそらく人生最後のいくさとして不足はない。
今川了俊は麻生山の多良倉、鷹見岳の両城を落とし、太宰府に迫って小倉、宗像、高宮を経て太宰府北方佐野山に陣を敷いていた。
そこへ全軍が集合してきての今日だった。大内弘世、大内義弘、周布士心、山内通忠、毛利元春、吉川経見、永井貞弘たちの軍勢であった。それが大宰府政庁に押し寄せてきたのだった。その軍勢がゆっくりと進み来ていたが、ある瞬間から一気に突撃が始まった!
城隆顕は物見やぐらからその軍勢の勢いのすさまじさを見た。
死を覚悟して城隆顕の心は静まり返っていった。
 
有智山城。
大宰府の守り、八六八メートルの宝満山、奇岩怪石の山の中腹に築かれた砦だ。
武政たちが軍勢を率いて迎え撃ちに出たものの、かく乱することはできたが大勢は変わらず逃げ帰ってきていた。敵はあまりに強大で、なすすべがなかったのだ。
太宰府には圧倒的な大軍が迫っており、武光は懐良を奉じて一〇年の栄華を誇った征西府政庁を捨て、詰めの城たる有智山城に上ってきていた。
その城内広間で懐良親王、菊池武光を中心に軍議が開かれているが、誰にも活発な意見はない。打つ手はないと、誰の目にも明らかだった。
噴き出す汗に悩まされながら、武光に言葉はない。
武政も腕組みをして考え詰めている。
「誰か、何か申せ、奴らを追い散らす手立てを!」
懐良が焦って叫ぶが、声を放つ者はいない。
そこへ猿谷坊が駆け込んできた。
「ご報告申し上げます、敵が太宰府に押し入り、征西府政庁が蹂躙され申した、敵軍が次々に政庁に押し入りおる次第にて!」
政庁を固めさせておいた兵の生き残りが、現在次々に山を登ってこの有智山城へ落ち延びてきているという。城隆顕が指揮していたが、その消息は不明だ。
全員が青ざめた。
武光は初めて撤退を考えた。菊池を統合して以来、攻め続けてここまで来た武光だった。
だが、初めて手も足も出ない状況にぶつかり、苦渋の中で「末路にどう処するか」という命題を突き付けられていた。
菊池武光もまた禅の神髄に迫りつつある禅者だった。死に処する工夫はすでについている。
「…親王をお落としする」
ついにその言葉が発せられて、一同ははっと武光を見やった。
「武政、城の背後に用意しておいた抜け道から親王を守って落ちよ、賀ヶ丸、良成親王さまと共に行け、猿谷坊、皆を案内して行け」
猿谷坊が、はっ、とかしこまった。
「親父様は⁉」
「武政、…あとはお前たちの仕事じゃ、…菊池には惣構えがあり、豊かな土地がある、こもって敵を迎え撃てばめったに突き破られはせぬ、九州南朝に牧の宮様ある限り、巻き返しの機会はいずれ必ず来る、あきらめるな、…おいはそれを果たさせる、…ここがおいの死に場所たい、行け、ただちにじゃ」
「そいはいかん、親父様のうて何の征西府か、菊池には親父様がおってくれねば!」
「ぐずぐずぬかすな!いそげ!菊池の明日はぬしに託したのぞ」
怒鳴りつけられて、武政は背筋を伸ばした。
武政は親王の前に行き、逃走にかかることを促した。
「宮様、お聞き及びのごとくであります、お支度を」
懐良は武光を見つめた。
武光も懐良を見つめた。
懐良は身を翻した。そのまま館の背後にある厩に向かった。
「賀ヶ丸!良成親王さまを!」
武政が叫び、賀ヶ丸と猿谷坊が良成親王を促して厩に向かった。
武光はいまだに座りこんで動かぬ中院義定に近寄って行った。
「中院義定様、あなたも牧の宮様とお早く」
中院義定は酒を飲んでいたが、やおら杯を置き、膝を立てた。
「もはやわしに宮様をお守りする力はない、最後のあだ花を咲かせるにしくはなし、良き散りどころをいただいたわ、武光殿、中院義定、公卿の身で武辺一筋に生きたよ、思い残すことはない、共に散ろうではないか、貴殿と共に討ち死にできるなら身は本望じゃ」
老いさらばえたはずの中院義定が鎧をまとっているが、立ち上がれない。
「おおっと」
鎧の重さによろめいてたたらを踏む。
武光が笑い、若手の武士へ合図した。
「ご無礼致します」
中院義定へ駆け寄った若武者たちが抵抗する中院義定を無理やり引きずって戦線から離脱させる。
「待て、武光殿」
若武者たちは中院義定を担ぎ上げて去った。
そのころ、城門や櫓には城兵が防備の配置につこうと右往左往している。
攻め来るであろう敵に備えている。
「開門せよ!わしじゃ、城隆顕じゃ!」
そのさなかへわずかな手勢で逃げ込んできたのは城隆顕(じょうたけあき)だった。
最後まで政庁で敵を迎え撃とうとしたが、圧倒的な敵勢力を見て、有智山城にこもらんとする武光たちが心配となって、有智山城での籠城戦には希望がないと伝え、懐良や武光を逃がそうと駆けつけてきたものだ。汗を拭きださせながら、隆顕が叫ぶ。
「この城では無理じゃわ、せめて高良山までは退却すべし、そこへ南朝全軍を終結させる以外になし、武光の棟梁にもお立ち退き頂く、誰かそれを棟梁に伝えよ!」
親衛隊士数名に言伝けて走らせ、城隆顕は城内に自分の持ち場を探そうとして動き回り、厩に今しも脱出のための馬の準備をしている武政や牧の宮の姿を発見した。
「おお、よかった、親王さま、逃れてくだはりませ!少しも早くお立ち退きを!みなもな、あとはおいにお任せを!」
そう叫ぶや、城壁の方へ駆け戻っていった。
「城隆顕!」
懐良が叫ぶが、もうその声は城隆顕には聞こえていない。
その直後に有智山城に敵が攻撃を仕掛けてきた。
「城門を打ち破れ!塀を乗り越えよ!」
征西府政庁を完全に掌握した北朝勢が逃れる南軍兵士たちを追い立てながら宝満山を登ってきたのだった。すさまじいまでの兵力が有智山城にとりついた。
「城門を守れ!塀から敵を射倒せ!」
衛士達を指揮していた少弐頼澄が叫んだ。
山自体が人で盛り上がっているかのごとき殺到であった。
場内からは塀や櫓の上から矢が雨あられと射られた。
敵はバタバタと倒されたが、その死骸を乗り越えて城門突破に群がってくる。
「越えろ!死んだ者の体を踏み台にせよ!」
「鍵縄を放て!塀を引き倒せ!」
大混戦となる。
城隆顕は城門を見下ろす櫓の上に駆け上った。
「来いこいこい!わしが弓矢の的どもよ!」
城隆顕は射て射て射まくった。
その時、城隆顕は同じ櫓の上に武光が姿を現したのを見た。
「棟梁⁉」
武光がいつものように明るく笑って城隆顕に手を振った。
「なぜ落ちられぬ!?親王様といかれよ!」
「よか、城隆顕、敵を食い止めて一歩も入れぬぞ!どちらが多く敵を倒せるか、腕比べじゃ!」
そう言って強弓を引き絞った。
ひょうと放たれた矢は見事に敵兵の兜を射抜いた。
「棟梁」
城隆顕は喉の奥でつぶやくが、もはや武光を落とさせることはできないと覚悟を固めた。
城隆顕は武光が大方元恢の指導の下に臨済禅に励んできたことは知っている。
大智禅師の只管打坐とは違い、観話禅での修行であって入り方は違うが、釈迦の確立した宇宙観に沿って死生観を確立し、即今只今の生に対応しようとする点では何の違いもない。
城隆顕は武光の横顔を見ただけで、今ははっきりとその境涯が察しられた。
城隆顕は嬉しくなった。共に死するに不足なし。
「であるならば、よか、棟梁、その腕比べ、乗り申した!」
と、矢を放った。
武光もにやりと笑った。
灼熱の陽光の下、武光と城隆顕は競い合って矢を敵に放った。
二人の矢に敵が次々に射倒されていく。
だが、敵兵が塀を乗り越えて城内に進入してきた。
城兵が討ちかかっていき、敵味方が入り乱れ、太刀での乱戦となる。
守備隊を率いている少弐頼澄が獅子奮迅の戦いを見せた。
血がしぶき、肉が飛んで、凄惨な情景が現れたが、城隆顕にはなじんだ光景だった。
城隆顕は弓矢を捨て、太刀を抜いた。
「うおおおりゃあああーっ」
やぐらを滑り降りた城隆顕がおめいて太刀を振るい、次々に敵を斬り伏せていく。
親王、良成親王、そして賀ヶ丸を逃がすべく盾になって奮戦する城隆顕だった。
だが、少弐頼澄が敵の槍に貫かれて絶命した。
城隆顕が視界の端にそれを認めた。
「少弐頼澄!おまんだけをいかせはせんぞ!」
城隆顕はさらに暴れた。力を振り絞り、斬りたてる。
城隆顕の脳が回転している。
明国との国交さえ整えば、九州王朝は実現したはず、と頭が勝手に考えていた。
(夢へはあと一歩だった、そうであろう、赤星武貫!)
先に逝った親友へ呼びかけた。
明からの使者はついに間に合わなかった、と城隆顕の心が叫ぶ。
とはいえ、面白い夢を見た、とてつもない奔流に乗って世を押し渡った。
菊池武光という男と出会ったからだ、と城隆顕は思った。
おいな本望ばい、と、城隆顕は討ち死にしていく。
「棟梁様、後をお頼み申す!」
矢が飛来した。城隆顕の体にずぶずぶと突き立った。
意識を失いかけながら、城隆顕は敵の前に立ちはだかった。
最後に飛来した矢が城隆顕の額に突き立った。
大きく腕を広げて立ちはだかりながら、城隆顕は戦死していた。
「城隆顕!」
武光がそれを見て、やぐらを駆け下りようとした。
駆け下りながら、武光の目は城の背後をちらりと見やった。
賀ヶ丸が良成親王をかばい、武将たちに守られ、馬で逃走していく。
中院義定も馬に押し上げられる。
逃れてくだされ!と城兵に見送られ、逃走部隊に引かれて駆け去った。
それを見届けてさらにやぐらを降りようとした時、その武光を背後から吹き筒で狙うものがあった。武光は大鎧を着用しておらず、胴巻きに脚絆という軽装で敵にあたっていた。
その背中には十分な隙があった。
吹き筒を口に構えているのはやえだった。
ぷっ!と矢が放たれた。


《今回の登場人物》

〇菊池武光(豊田の十郎)
菊池武時の息子ながら身分の低い女の子供であったために飛び地をあてがわれて無視されて育つ。しかし父への思慕の思いを胸に秘め、菊池ピンチの時救世主として登場、菊池十五代棟梁として懐良親王を戴き、九州統一、皇統統一という道筋に菊池の未来を切り開こうとする。
 
〇懐良親王(かねながしんのう)
後醍醐帝の末子。南朝巻き返しの最後の希望となって征西将軍とされるも流浪の果てに菊池武光に迎えられ、やっと希望を見出す。武光の支えで九州を統一、やがて東征して皇統を統一するか、九州王朝を開くかの岐路に立たされる。
 
〇中院義定(なかのいんよしさだ)、持房親子
公卿武士、侍従。
 
〇美夜受・みよず(後の美夜受の尼)
恵良惟澄の娘で武光の幼い頃からの恋人。懐良親王に見初められ、武光から親王にかしづけと命じられて一身を捧げるが、後に尼となって武光に意見をする。
 
〇城隆顕(じょうたかあき)
菊池一族の別れで城一族棟梁。抜群の軍略家で有能。最後まで武光に夢をかける。
知的な武将。
 
〇菊池武政
武光の息子。武光の後を受けて菊池の指導者となる。
 
〇菊池武安
征西府幹部。
 
〇賀ヶ丸(ががまる)
武政の子で武光の孫。のちに菊池武朝となって活躍する。
 
〇良成親王(よしなりしんのう)
後小松天皇の皇子で、九州が南朝最後の希望となって新たな征西将軍として派遣され、懐良親王の後を継ぐ予定の幼い皇子。
 
〇少弐頼澄(しょうによりすみ)
征西府の官僚。
 
〇やえ
流人から野伏せりになった一家の娘。大保原の戦いに巻き込まれ、懐良親王を救ったことから従者に取り上げられ、一身に親王を信奉、その度が過ぎて親王と武光の葛藤を見て勘違いし、武光を狙う。
 
〇猿谷坊(さるたにぼう)
筑紫坊の相方で、鬼面党の首領の座を引き継ぎ、武光の為に諜報活動にあたる。
 
 

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