小説「武光と懐良(たけみつとかねなが)敗れざる者」65・最終回
第十二章 落日
一〇
陣営の自室へ引き上げてきた武光は、そこまでが体力の限界で、どっと崩れ落ちた。
胴丸を辛うじて脱ぎ捨てると、がっくりと力尽きた姿を見せる武光だった。
悪寒が走り、体が震えた。武光は自分の体の異常をいぶかしんだ。
口から血が滴っていた。手のひらを見ると青ざめて震えている。
朝が近いが、それまでもつのだろうかと思った。
そこへそっと人影が忍び入ってきた。
やえだった。
蒼白な顔で武光を見つめる。
「武光様、お薬をお持ちしました、これを欠かされてはなりませぬ」
やえは介抱のふりして武光を抱え起こし、椀を口に当てがった。
そうやって毒を仕込んだ薬湯を飲ませる。
武光は飲もうとするが、もはや体が受け付けず、げっと吐いてしまった。
やえは帯の背後に短剣を隠しており、そっと抜いて構えた。
「!」
そして一気に武光の胸を刺そうとした。
だが、武光の武人としての反射神経がそれを食い止めた。
辛うじてその腕をつかみ、やえを見やった。
「…おいの体は、毒で?」
武光は自分が毒で徐々に弱らされて来ていたことにうすうす気づいていた。
「やはりな、…きさんじゃったつか、やえ」
「覚えたか、父の敵!」
武光の腕を振り払い、やえは一気に短刀を武光の胸に突き立てていた。
もはやそれを交わす力は残っておらず、それが致命傷となった。
やえを突きのけ、武光は這って逃げて寝台に寄りかかって体を持ちこたえた。
やえが強張りきった凄愴な顔で睨み付けている。
虚ろな目でやえを探した武光。
「…父?」
「矢敷宗十!」
しばらくぼんやりしていたが、やがて思い当たった。
「矢敷、宗十じゃと?…そうか、そなたは矢敷宗十の」
矢敷宗十とのあれこれや、やえが現れてからのことどもがつながってきた。
そこにしみじみとした感慨を持った。
「…ふふふ、因果は巡るじゃな」
武光は人の世の因果の不思議さを思って笑った。
「それだけではない、お前は懐良親王さまの行く手をめちゃくちゃにしおった」
「なに?」
その言い分には驚かされた。
「お前さえいなければ、親王さまは皇統統一を果たし、京へお戻りになられたのに、お前が邪魔をした!」
武光は呆然となってやえを見つめた。
「お前はみんなを不幸にする、お前は悪魔じゃ!」
武光はがっくりと気力を失った。そうなのかもしれぬと思った。
自分が何もかもを台無しにしたのか、と。哀しみが込み上げた。
もはや生き延びる力は残されていない、と感じた。いや、生き延びる意思を失ったというべきか。今、この場で自分は息絶える、そう思った。
「…やえ、行け、人に見つかる前に」
「え?」
武光がやえに手ぶりでいけと示し、やえは逃げ出そうとする。
そこに親王が現れた。懐良はその場の状況を見て愕然となる。
「なに!?」
武光の胸には短刀が突き立てられてある。
やえが懐良に駆け寄ろうとする。手柄をほめてほしかった。
「宮様」
「やえ!?貴様!」
懐良は驚き、瞬間抜刀してやえを一刀両断した。
「親王さま?」
やえは懐良にすがろうとするが、懐良は激怒して理性を失っていた。
「痴れ者!」
さらに太刀で貫かれ、やえはくずおれていく。
なぜ?と思いながら、息絶えた。
「武光!」
懐良が武光を胸に抱え上げ、短刀を引き抜こうとするが、武光がその手を押さえた。
二人の手が握り合わされた。
「しっかりしろ!今医者を呼ぶ!」
駆けだそうとする懐良の体を武光が掴んでいかせない。
「…もう十分じゃ、あとは若いものに任せ申す」
「情けなきことを言うな!お前は私と最後まで!」
武光は懐の奥深くから包みを取り出し、親王に差し出した。
懐良が包みを開いてみると、それはあの紙人形だった。
「これは…」
「…宇土の津でお捨てになりましたろう、…あなたの大切なものではなかろうかと拾い、…肌身離さず持っており申した、…お返しいたします、…母君から頂いたものでは?」
懐良は茫然と紙人形を見つめた。擦り切れて傷んでしまった紙人形。
それをずっと武光は保持してきていたのか、と思った。
これを懐に呑みながら、武光は自分のために戦い続けてきたのかと。
幼くして京を出立して以来三〇数年、人への疑いをどうしてもぬぐい切れない懐良だったが、この時こそ初めて疑念も孤独もすべてが拭い去られた瞬間だった。
武光の心情は本物だと知った。武光はいつも、ずっとこのわしを、と。
涙があふれだした。
「武光」
「…申し訳ありませなんだ、…あなたを引きずり回してしもうた」
「何を言う、武光、…夢のように生きたが、わしはそなたに巡り合えて、初めてわし自身となった、共に戦ったことが生きた証となろうよ…」
「…わたくしこそ」
「…わしたちは未だ進める、菊池へ帰ろう、体勢を立て直し、もう一度始めよう、敗れはせぬ、我らは必ず勝てる、そうであろう!?」
誰に勝てるのか。北朝ではなかったろう。二人でなら何に勝てるのか。
おぼろな瞳のままで武光が笑って見せようとしたが、それが最後になった。
「…敗れはいたしませぬとも」
それはもう言葉にならず、息となって口から漏れ出た。
「…皇統統一、…なしとげましょう、…あなたとおいとで」
懐良は武光の頬を撫でることしかできない。
「やりとげるとも、武光よ…」
その呼びかけだけで武光は満足できた。
大きな息が吐き出され、力が抜けて、武光は親王の腕の中で絶命していく。
「大智さま、元恢和尚、…えにしの先端で舞う、…おりゃあ、舞うだけは舞い切れた気がするのじゃが、…違いますろうか?」
意識を失う最後の瞬間、武光の脳裏にそんな言葉が浮かんでいた。
どたどたと足音が近づいてくる。
異変を感じてその部屋へ駆けこんできた武政や武安、良成親王たちだった。
賀ヶ丸も駆け込んできた。そして息をのんだ。
部屋は血にまみれており、やえが斬り殺されて転がっている。
武政たちは武光の胸に刺さった短刀を見た。
「親父殿!これはいったい!?」
「宮様!何があったとですか⁉」
懐良にその声は虚しく、答えもせず、ただ武光を抱きしめながら見つめている。
「棟梁、しっかりなされませ!」
駆け寄った武安が脈を診て、武政たちはその顔から武光の無事を確かめようとした。
武安はすでに武光が息を引き取っていることを知り、皆に目でそれを知らせた。
全員が呆然となって声を失った。
「なんちゅうこつかい、…武光様が、我が棟梁が!」
一同に衝撃が走っていた。
武政たちは事態を受け入れようと頭を整理した。
いくさ神、菊池武光は死んだ。伝説は去った。
この絶体絶命の土壇場に自分たちを置き去りにして逝ってしまった。
武政は目の前が真っ暗になり、立ち尽くした。
その時、賀ヶ丸が武光を睨み付けるように立って傲然とうそぶいた。
「死んでしもうたものは仕方なかばい、…騒がいでよか、爺様、…あとはおいが引き受けるったい、往生しなっせ、…菊池は負けぬ、見てござれや」
賀ヶ丸のあまりな物言いに武政は唖然と見返ったが言葉はない。
武光の短くも激しい四十四年の生涯は終わった。
誰もが呆然となって立ち尽くしたが、やがて武政も腹をくくった。
武政は悲嘆に暮れる皆に、武光の死を秘せと命ずる。
伝説のいくさ神は死んではならない。
「敵に気取られるな。棟梁は死んではおらんばい、みなと共に永遠に戦い続けるばいた」
伝説となって、武光は菊池を守り続けてくれるだろう。
武政がそう言い、皆が武光を見やり、そしてはっとなった。
懐良は武光を抱きしめて泣いていた。
それはかけがえのない想い人を失っていこうとする者の哀しみの姿だった。
誰もが立ち尽くして言葉を失っていた。
やがて懐良は声を放って泣いた。
その後、高良山の征西府は文中三年九月までの一年半を、武光の死を秘して持ちこたえた。軍記から武光の最後に関する記載は消え、武光の死の真相は今でも謎とされている。
ともあれ、その後戦傷が元で武政も死亡、高良山の征西府もついに陥落、賀ヶ丸は良成親王、幹部たちと共に懐良親王を守って共に落ち延び、菊池へ戻った。
菊池は今川了俊率いる北朝軍に二年間攻め立てられたが、良成親王を立てて良く抗戦し、賀ヶ丸は菊池武朝(きくちたけとも)と改名し、水島の戦いに名を上げた。
今川了俊は九州経営を狙ってさまざまに画策したが失敗して更迭された。
親王は星野村へ引退され、穏やかに暮らしたのち、数年後に亡くなられた。
武光を失ってからの牧の宮懐良親王は抜け殻に等しかったろう。
武光の逝ったあの日に懐良親王も終わっていたのだ。
一三九二年、元中九年、南北朝は北朝の申し出で合体、皇統統一はなされた。
南北朝の争いは終焉し、菊池は後に許されて肥後守護の地位を安堵された。
九州の南朝勢の抵抗から、再び九州の武士団を敵に回せば先が見えないと北朝側が恐れたためかもしれない。
南北朝の争いを終焉させたものは九州武士たちの不屈の魂だったとはいえないか。
菊池は肥後の都として繁栄した。
博多、太宰府に並ぶ九州三大都市であったという。
さらに何年の後だろう。
初夏の青い空に大きな雲が浮かび、陽がさんさんと降り注いでいる。
草原の草が風になびいて揺れる。
子供たちの嬌声が聞こえる。
平和な菊池の野で子供たちと遊ぶ緒方太郎太夫夫婦の姿がある。
今は初老となった美夜受(みよず)の尼と子供たちが竹馬でいくさごっこをしてはしゃぐ。
若い日のように、子供たちをつっ転ばして嬌声を上げる美夜受の笑顔が輝いている。
太郎太夫と嫁のぬいが笑い、美夜受が舌を出しておどけた。
菊池に平和な時代が訪れている。
ほんのひと時のことかもしれないが、菊池に笑い声が満ちている。
と、美夜受の視界の端で何かが光った。
見やると彼方に遠く八方が岳を背景にした丘が見えている。
その丘で陽光を受け、何かが光っている。
美夜受が目を凝らすと、それはどうやら光る縅に飾られた鎧兜をまとった騎馬武者のようであった。二騎いる。美夜受の胸が騒いだ。
一騎は前立てに並び鷹の羽をあしらった大甲をかぶり、青糸縅の鎧をまとってさらに青い母衣をなびかせた武者だ。芦毛の馬にまたがってこちらを見下ろしている。
もう一騎は黄金色の大鎧をまとっているようだ。
そんな風に見えた。
その騎馬武者二人はしばらくこちらを眺めた後、たずなを引いた。
芦毛の馬は大きく首を引いて後ろ足で立ち上がり、くるりと向きを変え、彼方に駆け去っていく。もう一騎もすぐにそれを追って駆けた。
美夜受は茫然とそれを見送った。
かの騎士たちはかつてこの肥後の大地を自在に駆け回った。
そして今も駆け回っている。
そんな気がした。
美夜受はいつまでも見送って立ち続けた。
青い騎士は一個の閃光となって駆けてゆく。
それを黄金色の騎士が追う。
二騎は永遠の時がたゆたう菊池の丘を駆け続けている。
そんな菊池の野を八方が岳と鞍岳が見おろしている。
《今回の登場人物》
〇菊池武光(豊田の十郎)
菊池武時の息子ながら身分の低い女の子供であったために飛び地をあてがわれて無視されて育つ。しかし父への思慕の思いを胸に秘め、菊池ピンチの時救世主として登場、菊池十五代棟梁として懐良親王を戴き、九州統一、皇統統一という道筋に菊池の未来を切り開こうとする。
〇懐良親王(かねながしんのう)
後醍醐帝の末子。南朝巻き返しの最後の希望となって征西将軍とされるも流浪の果てに菊池武光に迎えられ、やっと希望を見出す。武光の支えで九州を統一、やがて東征して皇統を統一するか、九州王朝を開くかの岐路に立たされる。
〇中院義定(なかのいんよしさだ)、持房親子
公卿武士、侍従。
〇慈春尼(じしゅんに)
武重の妻、息子の武隆を一五代棟梁に望み、様々に画策する。
〇緒方太郎太夫(おがたたろうだゆう)
幼名は太郎。武光の郎党。長じては腹心の部下、親友として生涯を仕える。
〇ぬい
穴川の里の娘。太郎太夫の嫁となる。
〇菊池武政
武光の息子。武光の後を受けて菊池の指導者となる。
〇菊池武安
征西府幹部。
〇賀ヶ丸(ががまる)
武政の子で武光の孫。のちに菊池武朝となって活躍する。
〇良成親王(よしなりしんのう)
後小松天皇の皇子で、九州が南朝最後の希望となって新たな征西将軍として派遣され、懐良親王の後を継ぐ予定の幼い皇子。
〇やえ
流人から野伏せりになった一家の娘。大保原の戦いに巻き込まれ、懐良親王を救ったことから従者に取り上げられ、一身に親王を信奉、その度が過ぎて親王と武光の葛藤を見て勘違いし、武光を狙う。
【参考文献】
九州南北朝戦乱 天本孝志
九州南北朝戦乱 懐良親王と九州征西府 近藤靖文
今川了俊 川添昭二
懐良親王 森茂暁
九州太平記 下津浦忠海
菊池氏一族 荒木精之
菊池武光 川添昭二
菊池氏三代 杉本尚雄
菊池一族の興亡 荒木栄司
郷土史譚 堤克彦
菊池川流域 熊本日日新聞社
探求 菊池一族 渋谷龍
中世の阿蘇社と阿蘇氏 柳田快明
菊池征西府史 懐良親王と菊池郡 村上圓次
懐良親王と三井郡 大保原合戦六百五十周年実行委員会発行
大宰府小史 西高辻信貞発行
菊池木庭城と木庭一族 木庭實治
南朝の真実 亀田俊和
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吉野の嵐 動乱の炎 責任編集 佐藤和彦
豊後の武将と合戦デジタル版 渡辺克己、大分合同新聞社
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「茂賀の浦」と「狗奴国」菊池 中原英
太平記 物語僧たち
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