見出し画像

人は生きたように死ぬ

ある日ふとテレビを見ていて、「人は生きたように死ぬ」という言葉を聞いた。それから、その言葉が頭をめぐり、最近はまさにそういうことだなあと思うことが増えている。

その言葉を発したのは、おひとりさまの老人たちの生活援助をしているNPO団体(なのではないかと記憶)の人だった。一人暮らしの生活を援助しようと声をかけても、頑なに拒否し続ける人がいる。いろいろなものを拒否し続けて、どんどん孤独になり、結局最後はひとりで死んでいく。
でもね、それはもう仕方のないことだと思っているんですよ。
人はね、生きたように死ぬんです。


数年前から、周囲で親の介護や看取りの話が激増した。
それぞれの家族に、それぞれの形があって、どれとして同じものはないのだけれど、介護や葬儀や墓の問題は家族のエネルギーとお金を奪っていくので、情報交換をしながらみな乗り越えている。

いま、一人娘で法律上はシングルという私にその役目が回ってきているのだけれど、父の死後一人暮らしとなり認知を発症しはじめている母の処遇をめぐるハードな案件にアップアップしながら、よくタイトルの言葉を思い出しているんだった。

人は、生きたように死ぬ


物心ついたころからほぼ、不仲な夫婦のケアラーとしての役割を担わされてきた一人娘長女の自分に、母は最後まで、ケアラーとして生きろと突きつけている。もううんざりだ、と遠い目になるのだけれど

この人は生きたように死のうとしているのだな、と思うと

ああ、もう致し方ないことなのだろうな、と思うのだ。


「両親にはもっと長生きしてもらいたかったけれど、さほど長くない闘病生活ののち、財産を残して亡くなったことで、子供たちはそれぞれ家を建てることができた。本当にありがたいと思う」
「両親とも、介護も認知も無縁の状態で亡くなった。残念だけれど私たちは苦労しなくて済んだ」
「私の父は、ある日荷物をまとめて家を畳んで自分で施設に入っていったよ。自分のお金で、最後まで気ままに過ごして亡くなった」

そうだ、人は、生きたように死ぬんだと、周囲の話を聞くとしみじみ思う。

生き様が死に方につながるのなら、今日一日をどう生きるかというのは、どう死ぬかにつながっていく。私は子どもに負担をかけないように、余分なエネルギーやお金を使わせないように。
しっかり生きよう、と思う。


あ、母のことはもう、自分が娘であると思うのをやめて、どこかの可哀想なおばあさんの処遇を淡々と考えるというスタンスにすることにした。
自分自身が傷んでしまわないように、壊れてしまわないように。

さて、今日はこれから実家に出向いて、母を病院に。
割り切ってやってきます。
いってきます。

この記事が参加している募集

この経験に学べ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?