見出し画像

桜の嵐の中で

桜舞う吉野山へ行ってきました。

昨年、桜嵐記を観てからずっと、次の春には必ず吉野へ行こうと決めていた。

駅に着いてすぐ、中千本までのバスを待っていると、風が吹き、花びらが降ってきた。街中で見かけるようなものとは比べ物にならない桜吹雪。舞台の画を思い出して、早速泣きそうになった。

訪れたのは、如意輪寺と吉水神社。

如意輪寺は山の中にぽつんと立っていて、人も少なく、静かな場所だった。ひっそりと、後醍醐天皇陵を守るように。
宝物殿で、正行公の肖像画や、出陣の前に名前を刻んだという辞世の扉を前にして、本当に、ここに史実の楠木正行がいたのだと感じた。同時に、舞台とは結びつくようで結びつかなくて、あくまで私が知っているのは物語の中のその人なのだということも理解した。ただ一人の武士がそこにいた。それだけのことだと。
現代に生きる私に理解できることは本当に少なくて、正行が負け戦に出た理由もその一つ。舞台で言われたように”流れ”のためかもしれないし、それとも他に選択肢がなかったのかもしれない。はたまた、父の背中を追うことに対してひたすら素直に育っていただけのことかもしれない。なんにせよ、その場所に立って、そこにいた証を前にして、私に残ったのは疑問だけだった。

吉水神社は、正直なところ人がごった返していて、何かを考えるような余裕はあまりなかったけれど、とても狭い境内と社に、ここを皇居にしていたというのか、と驚くしかなかった。元は京にいた貴族たちが、山奥まで逃げて、あんなにも侘しい場所で生きていたというのはにわかには信じ難い。
私が感じたのはエゴだった。後醍醐天皇の権力欲や怨念は舞台でも描かれていたけれど、それ以上に強い執念。当時の天皇や貴族が足で歩いてあそこまで逃げたとはあまり思えないし、生きていくからにはそれ相応の衣食住が必要だったはず。さらには政権奪還のための兵力まで要した。それまで暮らしていた人たちはどうしていたのだろう。楠木をはじめとした武士たちは?付き従ってやってきた山深い場所で、どう過ごしていたのだろう。

でも、吉水神社から見えた桜の景色は、確かに美しかった。向こう側の山の桜が一望できて、こんなにも素晴らしい景色は見たことがないと思った。

吉水神社にて

「これだけは京の屏風や襖絵よりも美しい」

宝塚歌劇月組公演「桜嵐記」後村上天皇の台詞より

これだけは偽りのないものだと、心を慰めてくれるものだと、そう感じられたのは今も昔も同じだったのではないだろうか。

それはたくさんの花が咲く吉野山。きっと全てが散った時には雪のように地面を埋めるだろう。史実の四條畷への出陣は冬だったということから、桜嵐記で散っていた花は雪の暗喩だったのではないかという話を聞くが、実際そこには共通するものがあるのかもしれない。雪に閉ざされる冬と、花の舞う春。世界が白く染まる時に生きた物語なのだと。


もうすぐ桜嵐記の大劇場初日から1年が経つ。
初めて観たその時から、どうにも言葉にできなかった。千秋楽から半年経っても、”舞台の感想”は書けずにいた。でも、物語と史実の、境界線とつながりを感じることができて、やっと今、自分の中で何かが見えたような気がする。

あの舞台は、去りゆく人と残される人の、過去と未来のためのものだった。残される人が未練を断ち切れるように、去りゆく人が後悔を残さないように、過去に意味を見出し、未来への望みを託して、別れを告げる。
あくまで私の解釈だけど、退団公演として満点だった。

長く続いた喪失感も、いよいよ終わりかな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?