ドーナツ

ドーナツ

高校時代、進路指導の先生から質問された。


ドーナツには『穴』がある。『穴』は存在する。
ただし、その『穴』を取り出して提示しろ、と言われても、『穴』を取り出すことはできない。
何故か。


俺は当時、勉強に身が入らなかった。言い訳がましいが、学校の授業を面白いと感じることができなかった。
単純にやる気がなかったのだと思う。

代わりに部活動は努力した。全精力を注ぎこんだと言っても過言ではないかもしれない。
部活動の成績が良かった訳ではないが。

学校の授業は好きではなかったが、科学という学問は好きだった。
大学に進学して生命科学を学びたいと考えていた。

内申点はある程度良かったため、地方の私立大学に推薦で入学が決まった。

センター試験前に進学先を決め、周りの友人が勉強で忙しい中、俺は独学で生命科学の勉強をしていた。


当時は時代の影響か、地方に在住していた影響か、インターネットを使う機会があまりなかった。
通学していた高校にはインターネットを使用できる環境が整っていたため、俺は授業が終了した後、インターネットで生命科学について調べるため、進路指導室に入り浸っていた。

進路指導の先生は日本史の先生であったが、当時、日本史、世界史、地理の歴史科目は選択性であり、俺は地理を選択していた。
進路指導の先生の顔は知っていたが、親しい訳ではなかった。

親しい訳ではなかったが、何度も顔を合わせるとそれなりに親しくなるもので、お互いの話をするようになっていった。

驚いたことは、進路指導の先生が、教師という職を第一選択として希望して「いなかった」ことだ。

自分の周りには、友人を含め「教師」という職を自ら希望して目指している人が沢山いた。就職浪人を選択して、教師を目指す人もいた。

俺が住んでいた地方にとって、教師という職種は一定の名声があるように思う。
俺自身は、教師になるということを希望していなかったが、教師という職種を勝ち取ることは困難なことだと理解していた。

ところが、進路指導の先生はもともと教師を希望していなかったと言う。

大学では歴史を学び、歴史学者になりたかったのだそうだ。

先生に対して興味を持った俺は、歴史についての研究を継続されていれば、歴史学者になれたのではないのですか、と軽い気持ちで聞いた。



研究者、学者になるということはそんなに甘いものではない。
それができていれば私はこんな所にはいないよ。



先生はそう回答した。

俺には新鮮だった。
少なくとも、俺の周囲には、自身の職業について、批判的、悲観的な言動をする大人はいなかった。

教師は大人たちから尊敬され、親でさえ頭の上がらない存在。そのように認識していた。

自身の職業には卑屈であるが、一般的には地位が高いとされる、その先生が、俺にドーナツの質問をした。

穴を示すことができないのは当然だ。俺はそう考え、説明しようとした。

だが、上手く説明することができない。

「当然だと頭では理解しているのに、言語化して説明をすることができない」という経験。

不思議だった。
質問を受けた当日、俺は先生を納得させる答えを提示することができなかった。
先生は心なしか満足そうな顔をしていた。

3日間、俺は真剣に考えた。
真剣に考えていたが故、正直、授業は全然聞いていなかった。
帰宅後も真剣に考えていた。元々口数が少なく、無表情な人間なので、外見上はわからなかったに違いない。

3日後には考えすぎて疲れてしまった。
だが更に3日間、真剣にではないにせよ、考え続けていた。
正解を、求めていた。

質問を受けてから7日目、全然頭に入ってこない授業を終え、帰宅した。

閃きはシャワーを浴びている時に突然訪れた。



『穴』は概念だ。概念に『穴』という固有名詞を付けたものだ。
物質ではない。物質でないため、提示することができないのだ。



答えだと確信した。

翌日の放課後、先生に俺の答えを伝え、正解を知るために、職員室へ向かった。

俺は夢中で説明した。
先生は、ただ黙って聞いていた。

説明を終え、俺は質問した。

先生、正解は何ですか?






わからん。私には答えはわからんよ。
ドーナツの質問自体は他の人から聞いて知ったが、答えがどのようなものであるか、私は知らない。






想定していない回答だった。




「正解」がもらえるものだと思い込んでいた。
「正解」が存在するものだと思い込んでいた。




考えた時間を返してほしい。
今まで考えたことが無駄になってしまったではないか。



そのような気持ちは皆無であった。
先生に対しての失望、不審や不信の気持ちは全く発生しなかった。



解放と希望だった。



私は高校時代まで、「大人の言うことを聞く優等生」を無意識のうちに演じていたように思う。

「大人」は必ずしも正しくはないけれど、「大人」の求めに応じていれば、ある程度の待遇は認められる。
当時はその環境が楽だったのだろう。


大人は全てを理解しているわけじゃない。
大人から答えを、正解を、もらえるわけじゃない。


薄々感づいていたことは、確信に変わった。


正解のない問題に対する姿勢として、必ずしも「誰か」にお伺いを立てる必要はないのだ。


お墨付きだって必要ない。


自分が真剣に考えた末に出した答えであれば、それが自分にとっての正解でいい。


高校生から見れば「大人」と呼ばれる存在に成り、私が至った確信は、社会では当然の、無言の事実なのだと認識している。
答え合わせをしてくれる「誰か」が私の人生の責任を取ってくれる訳では、ない。

今まで出会った人から、私は色々な言葉をいただいた。

気持ちの良い言葉も、悪い言葉も、ある。

自分の琴線に触れる、または逆鱗に触れる言葉には、自分が成長するために必要な可能性のある「何か」があるのだと私は考え、いただいた言葉を大切にする。考える。そして私なりの答えを模索する。

先生から贈っていただいた回答があったからこそ、私は、私が考え抜いて出した結論には自信を持つことができます。

辿り着いた答えが間違いであったことを私自身が理解できれば、即座に、心から、謝ることができます。

先生は気に留めていなかったかもしれないけれど、私は当時、社会で生きていく心構えをいただきました。


有難う存じます。

ご興味を持っていただき、そしてここまでご高覧いただき、感謝致します。