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震災から9年。当時中学生だった僕が初めて被災地を訪れて感じたこと。

人生で初めて、岩手県に行った。
2011年の東日本大震災で大きな被害のあった陸前高田市だ。

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24,246人の人口に対して、死者(行方不明者含む)が1,757人。津波によって8,069世帯のうち、4,063世帯が被災。うち3,801世帯(93.6%)が全壊。

数字だけでもかなり衝撃的なものだ。

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陸前高田市に行くことになったのは全然別の理由だったけれど、やはり人生で初めて訪れる「被災地」としての町にも興味があった。

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2011年3月11日の僕は、中学の卒業式が終わったばかりの頃。
横浜市の祖父母の家に帰っていて、家族で近所を散歩している時だった。

急に地面が揺れたのを感じた。
周りでは走っている車が次々ハザードランプをつけて停車した。

家に帰ってみるとテレビが大々的に地震の発生を報道していて、そしてそのスクリーン上であの津波を見ることとなった。

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僕にとっての震災の記憶。
それはリアルタイムで感じていたことではあるものの、スクリーン上の映像を超えなかった。当時の僕にはそれ以上のことができなかった。

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被災地を訪れてみたい。

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ずっと頭の片隅にそんな思いがありつつも、今までその機会を得ることがなかった。あれだけ主体的にフラフラしていた大学生活中ですら……。

震災から9年が経って、来年で当初政府が定めていた「復興期間」も終わりを迎える。陸前高田市では、仮設住宅がちょうどこの3月で終了するところだった。

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他にも土地の嵩上げ工事がようやく完了し、新築や店舗が建ち始めたところ。実際に歩いてみて感じたことを一言で言い表すならば、「無色」という言葉か。

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・人とすれ違わない

これは田舎ではよくあることだけれど、車は走っていても人が歩いていない。大型の工事車両が通るため、危ないから子どもに道路を歩かせたくない。そんな親の気持ちもあるようだ。

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・古い家

陸前高田市には8つの町があって、とくに高田町(中心市街地)が甚大な被害を受けた。そこは家が軒並み流されたため、今建っている家は新築。団地を歩けば、まるで大きなモデルハウス群の中にいるみたい。

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・海が遠い

せっかくなら海沿いを歩こうと、海の方へ向かう。それでも行けなかったのは、堤防の工事がまだまだ終わっていなかったから。工事中のエリアは立入禁止で、仕方なく違う道を通っていく。

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工事が完了したエリアでようやく堤防にたどり着いて、登ってみる。堤防の上からは、たくさんの牡蠣養殖筏が浮かぶ広田湾が見えた。

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「海が見えないと逆に不安だ」

そう言う地元の漁師がいると言う。
堤防建設で意見が分かれた地区が、やはり工事も長引いているらしい。

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このあたりが、僕が感じたこと。
僕みたいにふらりと旅に来て歩いてみた人からすると、陸前高田市街は不気味なくらい人気がない。町はあるけれど、文化や歴史・生活を感じる場所がない。

急に街が現れたみたいな場所だった。

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「震災が来ていなかった陸前高田市を見てみたかった」

震災後に市内に移住してきた20代の言葉が心に残っている。

震災がなかったら自分はこの町に来ることはなかったけど、それでも震災が奪い去った土地の暮らしを見てみたかったと語る彼。

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今、目の前にあるもの。それはほんの一部。

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昔そこにあったもの。
それは人々の記憶の中に残っている。

郷土の歴史・伝統・祭。
そういうものがこれから再びこの街を色づけるかもしれない。

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これからどうなっていくのかな。
この町の未来が気になった。

※前述したように、陸前高田市内には8町ある。山間部や一部の漁師町には、昔ながらの風景が残っている。今回の記事は、とくに被害の大きかった地区を歩いて感じたことだ。

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気仙沼線・大船渡線BRT
津波でなくなった鉄道を再開せず、代わりにバスが走っている。

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寄り道①高田松原津波復興祈念公園

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寄り道②スーパーマルミヤ

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寄り道③箱根神社

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寄り道④箱根山テラス

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寄り道⑤広田崎

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