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本当に価値があるものはなにかを考える。

人類はいつから、
共通のものに価値を見出すようになったのだろう。

「缶コーヒーが一本130円」

この価格設定に出会ったとき、
文句を言う人間はほとんどいない。

モノやサービスに対して、
これくらいの対価を支払おうと考える動機について。

自分の頭で価値を判断していることが少なくて、
世の中の価値判断に身を委ねすぎていることが多すぎて、

そして怖くなった。

果たして自分は、
正当な評価をすることができているのだろうか?

僕はそうは思わない。

生産現場を深く見つめて、
そのモノの価値基準を自分自身の内なるものから作り直すこと。

それが目下、僕の課題なのだ。

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なぜ「ゴールド」は、全世界で崇拝されているのか?

金なんてそもそも食べられないし、
武器にするには柔らかすぎる。

それが装飾品としての価値を持ち、
西欧の美学に適合した。

世界を行き来する行商人は考える。

金の価値が低いイスラム地域で金を安く買って、
西欧で高く売ろうと。

結果的にイスラム社会でも金の需要が増え、
西欧では供給量が増えたことによってその価値が下がる。

そして世界は平均的に「ゴールド」を崇拝するようになった。

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価値の共通基軸である「貨幣」のおかげで、
地球全体で平均的な価値判断基準が形成された。

しかし、世の中の需要と供給のバランスによる資本主義的な価値形成から抜け出さないと、自分自身の内からなる価値判断はできない。

つまり、モノやサービスに対して、
自分はどれほどの対価を見出すか。

自分にとって、
どれくらいの価値があるか?

それは決して「同じ」じゃない。

僕は自分にとって価値のあるモノの生産者を強く求めている。
自分自身が、価値のある生産者になることを志している。

そしてそれらの価値が、
正当に評価されるコミュニティの在り方を探しているのだ。

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