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25歳という人生の節目を迎えるにあたって、これまでの人生を振り返る。

【25歳になるまでに果たしたかったこと】

人生のフェーズがいくつかあるとするならば、25歳という年齢は僕にとって節目の歳である。もちろん法律では20歳で大人になれるのだけれど、その節目は僕にとってあまり重要ではなかった。親の同意が必要ではなくなることと、自分の人生を自由に生きることは必ずしも一致しない。

僕は25歳までに自分の人生をどのように生きるかを決断することにした。それは法律を含めた誰かの決め事ではなく、自分自身で定めたリミットだ。

7日後に25歳を迎えるにあたって、自分で定めた目標への到達度、すなわち理想の25歳を迎えることができるか否かについて考える。

【自分の人生を決断する】

人生とは自由なものであると僕が理解したのは、19歳の時だった。「人生が自由である」という言葉の意味は、人生は誰かに定められた道を歩むのではなく、自分で決めることができるということ。具体的に言うと、大学進学後は就職活動を経て企業に就職する。定年後は年金暮らしという一般的なレールを思い浮かべるのをやめたということだ。

人生初の海外ひとり旅でインドを訪れて、僕の小さな価値観は崩壊した。これまで歩んできたレールを外れたところで、たいした問題ではない。むしろあらゆる方向へ道が続いていると知った。

自由に生きていいと知ることは、決して僕を幸せにはしなかった。レールの上を歩んでいれば考えなくて済んだ様々な問題と向き合わなければならなくなったからだ。解決すべき問題は山ほどあった。

たとえば人は何のために生きて、幸せとは何であるかという人類の普遍的なテーマについて。また自分は他人と比べてどのような特徴があるかという自己分析。そしてこれからの社会に必要な仕事と、自分の役割について。

これらすべてに納得のいく答えを見つけられるまで、自分の人生をどのように生きるかを決めることなどできやしなかった。大学卒業と共に友人たちは一端の社会人を始めるなか、僕はそういった根本的な疑問から逃れられずにいた。一応は卒業後の進路を決めて働き始めたけれど、それが最終的なゴールだとは思っていなかった。

僕は次第に焦り始めた。社会で何ら役に立たない事柄をつらつらと考えているうちに、年齢だけ積み重ねてデグの棒になるような気がした。そして自分にはタイムリミットが必要なのではないかと思い至った。そしてその期限を25歳に設定したのである。

【25歳に設定した理由】

一般的に自分の将来を選択するタイミングは、学校卒業と共に訪れる。最も早い人間は中学卒業と同時に働き始める。僕は大学に通ったため卒業は22歳のときに訪れたけれど、前述の通り生き方を決めるに至らなかった。

卒業後の進路をどのように決断したかについて、若干説明しておこう。僕はこれからどのような生き方を選択するにしろ、まずは生きることの根幹を学ぶことが大切だと思うようになった。生きる根幹とは、すなわち衣食住にまつわることである。たとえば食べ物の作り方など、生きるために絶対に必要なことを知らないまま生きることに違和感を覚えた。

そのため第一次産業(農林水産業)を中心にファーストキャリアを求めて、僕は地方の水産会社に就職することが決まった。

そこでお世話になった漁師の生き方が、まずは僕の人生の指針となった。彼は大学を卒業した後、世界を放浪していた。アフリカのマラウイで泳いでいた時に自分の身体の上をカバが泳いでいった話、ハワイでイルカと一緒に泳ぐセラピーの仕事をしていた話など、彼がする話は世界がとてつもなく大きいことを教えてくれた。未知の世界が広がっていることにワクワクした。

彼が世界を放浪することを終えたのが25歳だった。故郷の漁師町に戻ったとき、潰れかけた家業を前にして自分の役割を悟った。帰る場所がなくなることは考えられなくて、自分が継ぐことを決断した。

他にもファーストリテイリングの柳井正社長が人格は25歳までに決まると言っていたこと、『深夜特急』の沢木耕太郎氏が26歳で旅に出たこと。人生の諸先輩方の生き方に触れて、自ずと僕はその年齢を意識するようになった。

【25歳までの生き方】

つまり僕は19歳でインドを訪れて以来、自分の知らない世界を旅することに飢えるようになった。果てしなく未知の世界が広がっていることを知ってしまった瞬間、僕の心は外へ外へと惹かれていった。

興味の赴くままに様々な場所を訪れ、現地で五感を研ぎ澄ませた。25歳までの僕にとって価値のあることは、未知の世界へ飛び込み、知らなかったことを知り、できるだけ多くのことを経験することだった。自分の世界をできる限り広げた上で、その中から僕は僕の生き方を決めるつもりだった。

居心地の良い環境を避けて、あえて自分にとって過酷な環境を選択した。その環境を生き抜いてこそ、あらゆる世界に適応できる力を手に入れられると信じた。これから生きるべき場所はどこか探し続けて、そして自分とひたすらに向き合って考え続けた。その軌跡はこのnoteにすべて書き記してある。

【僕が選んだ道】

生きる根幹を学ぶために第一次産業の世界でキャリアをスタートした。僕は2年間海の上で食べ物の作り方を学んだ。もちろん漁業という仕事は育てるだけでなく、海の恵みを直接いただくことでもあった。

その後僕は料理の世界に足を踏み入れた。食べ物の生産現場から、それを活かして食卓に届けるまでを学ぶためだった。最初はあくまで生きる力を養うために始めたことだった。しかしそれ自体に楽しみを見出し始めた。

もしファーストキャリアで林業を選んでいれば、いま僕は建築の世界にいたかもしれない。僕にはいろいろな可能性があったけれど、結果としていま僕は料理の世界に携わっている。それが大切なことのように思う。

【25歳で辿り着いた答え】

だから僕は“食”を突き詰めようと思う。

自分が食べているものはどのように作られているのか。素朴な疑問から食の生産現場を巡り始めた。食べる専門だった自分が、食の生産現場を経て料理の世界で働き始めた。いま目の前に、僕が作った料理を食べて“美味しかった”と言ってくれるお客さんがいる。そのことに素直な喜びを感じている。

そして僕の隣にはいま、人生を共にしていくと決めた妻がいる。期せずして彼女は林業の世界を生き抜いてきた人だった。二人三脚とはまさにこのことで、ふたりで生きていけば様々なことを乗り越えていける気がする。

まだまだ決まっていないことはたくさんある。どの場所で生きていくか。具体的に何をナリワイにするか。僕はこれからも考え続けるだろう。

しかし僕は"食"に携わりながら、妻と共に生きていくことを決めた。いまの夢は、ふたりで自分たちの生き方を体現したお店を開くことだ。

19歳の頃の自分からすれば、まだ僕は中途半端かもしれない。人生というものは計画通りには進まないもので、やり残したことがたくさんあるような気がする。しかし概ね目指していた25歳像にはなれたと思っている。なぜならいま僕は自分が大切にしたいものを知り、これからどんな風に生きるべきかについての答えを持っているからだ。やり残したことは、これからの人生の中で少しずつ拾い上げていけばよいのだ。

これからは培った経験を土台にして、自分が決めた目標に向かって一歩ずつ進んでいくだけだ。さて、次はどんな30歳を目指そうかな。


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