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何かを殺すことでしか、僕たちは生きられない。狩猟の現場で感じたこと。

2017.09

人と自然がうまく関わり合って生きていくために必要なことは何だろう。自然界のなかですっかり悪者になってしまった人類が直面している問題であり、持続可能社会(SDGS)のテーマとなっていること。

京都の北部には、人口70人の限界集落がある。今年の2月に僕は、村留学を通してこの村を訪れた。村留学とは持続可能性をテーマに社会のこれからを考える、大学生を対象とした教育プロジェクトである。

僕が行った時の久多の風景。集落が雪で埋もれていた。笑

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↑宿舎からみた風景。

この雪国での滞在中、鹿の狩猟・解体に立ち会わせていただいた。今回は狩猟現場を通して感じたことを言葉にしようと思う。

【生きるために殺すということ】

鹿を殺して、食べる。一連の光景を見学して疑問に思ったこと。

それは、どうして人間は鹿を殺していいのかということ。人を殺せば殺人罪で罰せられるのに、鹿は殺しても許される。そのことが自分の中で矛盾したことのように思えてならなかった。生命を大切にしようという教育を受けてきたからこそ、生き物を殺すということに強い抵抗を感じたわけだ。

同じ生命なのに、どうして別の扱いになるのだろう。

この疑問を突き詰めた先にあるのは、僕たちは生きるために食べなければならないという事実である。それは人間に限らず、あらゆる動物たちに当てはまることだ。食べるということは、すなわち殺すということ。

僕たち動物は自分でエネルギーを創り出すことができないから、なにかを犠牲にしなければ生き続けることができない呪われた存在なのだ。だからこそ何かを食べるとき、僕たちは手を合わせてお礼を言う。

僕は狩猟現場を通して、食べることの本当の意味を知った。

【人間は自然をコントロールできない】

鹿を殺す理由で、食べるということ以外に印象に残っている話がある。それは、個数の管理だ。鹿の個数が増大すると、食べ物になる植物が枯れる。食べ尽くした鹿は山から下り、田畑を荒らすようになる。そもそも、植物が枯れて森の保水力が低下すれば、田畑に水が注がれなくなって作物が育たない。だから、一定数の鹿を殺す必要があるという話だった。

ここで考えなければならないことは、人間には自然をコントロールする義務があるのかということ。この問題に関して僕は、人間も自然であることを自覚することが大事だと思っている。

人間を含めたすべての生物は自然に脅かされながら、自然の摂理のなかで生きている。だから人間がそのすべてをコントロールすることはできない。

【自然の摂理が狂う理由】

しかし現実問題として鹿は増えていて、農作物や森の生態系に悪影響を及ぼしている。このこととどう向き合えばいいだろう。

鹿の増大を含めた様々な環境問題は、人間が引き起こした問題であると同時に人間を苦しめる問題である。つまり解決することができなければ、人間は自分自身が引き起こした問題によって滅ぶことになる。

しかし一体その問題は地球にとってどれくらい問題となるだろう。というのも、自然の摂理はそれを上回るコントロール能力を秘めているからだ。人間が現在の生態系を崩壊させたとしても、地球は新たな生態系を築いてその後始末をする力があると僕は信じている。

つまり人類は人類を頂点とした現在の生態系を守るために、環境問題を解決する必要がある。それができなければ地球は人間が住める環境ではなくなるだろう。その代わりに人間が生み出した環境に適応した新たな地球の主役生物が登場する。地球上ではそんな営みが繰り返されてきたのだ。

それでは人間はこれからどうやって自分自身を救えばいいだろう。

僕は人間が必要以上のものを生産・消費していることが環境問題の根本的な原因だと考えている。つまり自分たちが生きるために必要な量をはるかに上回るレベルで、人間は自然を搾取している。

これまで長い時間をかけて地球が築いてきた循環のバランスが人間によって急速に壊されている。この問題を解決するためには、ふたたび人間は自然界の一部にならなければならない。人間が自然をコントロールするのではなく、人間は自然のなかで自分たちの役割を適正に果たす。そういう考え方が必要になってくるのではないだろうか。

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