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もし自給自足に憧れる若者が、「足るを知る」暮らしを目指したら。

2018年3月

近頃、「田舎に移住して仕事をする」ライフスタイルを選択する人が増加している。なぜ田舎がこれまで以上にクローズアップされるようになったのか。

その理由のひとつとして「足るを知る」「自給自足」という言葉をキーワードに考えていこう。なぜこれらの言葉は魅力的な光を放つのだろう。

【モノで溢れた社会】

僕たちが暮らす社会は資本主義という仕組みで成り立っている。この資本主義は大量生産・大量消費という構造を生んでいる。お金を払えば欲しいモノがすぐに手に入れられる状況は、たしかに便利なものだ。

でもすぐに手に入れられる状況を維持するために、モノを売る側は必要以上のモノを用意しなければならない。いつお客さんが買いに来てもいいように、商品棚に空きを作ってはならない。

さて、実際に買ったモノのなかで利用される商品は一体全体の何分の一だろう。便利にあやかる消費者が多数派として存在する限り、モノの廃棄はなくならない。大量のモノで囲まれて生活する現代人は「こんなにモノ、いらないんじゃない?」とさすがに感じ始めている。

【震災で気づいたこと】

2011年の東日本大震災。僕はその時中学生で、生き方に直接影響は受けていない。しかしこの出来事に人生を左右されたと語る先輩方とよく出会う。

「蛇口をひねっても水が出なかった」
「スーパーに行っても水と食料がなかった」

普段はお金を払うことで当たり前に享受してきた日常が実は脆弱で、いつだってなくなる危険があること。自分の暮らしの根本部分が、自分のコントロールできないところで成立している(流通の末端にいる)ことに気づくきっかけとなった。

田舎はモノが少なく不便に見えるけど、都会ほどモノは必要ではない。そして一見都会はお金を払うことで簡単にモノが手に入れらる環境だけど、生産手段をもち、生きるために必要なモノを生産する力があるのは田舎だ。

このような視点で世の中を観察すると、都会よりも田舎、自分の暮らしに必要な分だけ自分の力で生産する自給自足的暮らしを志すようになっていく。

【足るを知るために、若者に足りてないもの】

さて、以上のような背景を考えてみたうえで、実際に若者が「足るを知る」暮らしを求めたら、それは実現しうるだろうか。このことを検証する際に、高知県の田舎で出会ったおばあちゃんの言葉を引用する。

私は若い頃、いろいろなことを経験してきた。自分の夢を叶えるために挑戦して、失敗をした。海外にも行った。そういう時代を過ごしてきて今思うことは、ガイドブックに載ってる有名な世界遺産も、今営んでいるこの暮らしも同じだってこと。同じように素敵で、感動できる。でも、もし若い頃挑戦していなかったら、あれをしていればよかったとか、未練を引きずっていたんじゃないかな。

このおばあちゃんの哲学に沿って考えてみると、足るを知る暮らしを営むためには、世の中を見尽くすほどの経験が必要になる。そうじゃないないと、あとで後悔することになるからだ。

うーん。とてもじゃないけど、人生経験の浅い若者がこの境地に辿り着くことはできないな……。

【足るを知ることは老人の得意分野】

社会学者の古市憲寿さんが、著書『絶望の国の幸福な若者たち』のなかで大澤真幸さんという方のおもしろい見解を紹介している。

将来の可能性が残されている人や、これからの人生に「希望」がある人にとって、「今は不幸」だと言っても自分を全否定したことにはならない。逆に言えば、もはや自分がこれ以上は幸せになるとは思えない時、人は「今の生活が幸せだ」と答えるしかない。つまり、人はもはや将来に希望を描けない時に「今は幸せだ」「今の生活が満足だ」と回答する……。

少し挑戦的であまり平和的なニュアンスではありませんが、人を納得させる力のある文言だ。つまり、年齢を問わず可能性のある人というのは総じて、知足(足るを知る)の念を持ち合わせることができないということになる。

【若者という生き物の性質】

自分の実力を試したくてウズウズする。何か新しい・おもしろいことがしてみたいとワクワクする。それは「若者」であるなによりの証拠だ。もちろんそこに年齢は関係ない。

たしかにいま社会が抱えている大きな問題を解決するためには「足るを知る」という心構えが必要だ。でもそれを実現するために「挑戦」している段階では、本当の意味で「足るを知る」ことができていない。

足るを知ることに挑戦するという矛盾。これに気づくと、物質的な意味の知足と精神的な意味での知足は違うということがわかってくる。

【精神的に満足する難しさ】

オフグリッド・田んぼ・家庭菜園・DIY……。いわゆる田舎暮らしの醍醐味と思われるものたち。お店でお金を払って手に入れるのではなく、自分が食べているモノを自分の力で手に入れる。僕の「田舎暮らし」も、本質的な目標はここにあります。生きる力を身につけたいのだ。

しかし僕のなかで、「田舎おばあちゃん」は違う次元に存在している。

『西の魔女が死んだ』に登場するおばあちゃんのような、置かれた環境を受け入れて満足して暮らすこと。もしそういう暮らしがしたいなら、精神的に満足して生きる必要がある。

精神的な知足に至るということ。

それは世の中を自分の目で見て回り、自分の可能性に挑戦して、自分の心が満足する時を受動的に待つことしかできない。

「足るを知る」という「目標」が孕む矛盾。「田舎暮らし」のような曖昧な言葉こそ、深く考える余地がある。


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