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キリスト教徒は、神を信じない僕が「地獄に行く」と思っているのか。

「ぼくはキリスト教を信じてる。
でも、他の神様を信じている人も否定しないよ」

以前アメリカ人の友達が僕に言った一言だ。

とても寛容な印象を与える言葉ではあるけれど、僕の心の中ではむくむくと疑問が膨らんでいた。

他の神様の存在を許している時点で、そもそもキリスト教という一神教は成立することができないからだ。

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例として、聖書の冒頭部分を取り上げよう。

「初めに、神は天地を創造された。血は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(創世記1:1〜2)

ここから神様は七日で世界を創り上げた。初めに光を灯し、天地を分け、さらに地を陸と海に分けた。陸には動植物を住まわせ、自分のかたちに創造した人にそれらを治めさせた…。

自分が信じる神様は、この世界を創造した全知全能なる存在だと、キリスト教徒は言う。もしそうであるならば……。

それ以外の神様の存在を認めることは、その世界観を崩壊させることになる。キリスト教(一神教)とは、その他の宗教を否定することによって成立するものなのだ。

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僕は大学生の時に洗礼を受けた。

その数日前に、子どもの頃からお世話になっていた牧師に尋ねたことがある。キリスト教の教えの中で納得できなかったことについて。

「イエスキリストを信じた人が、天国に行ける。それならば、人生においてイエス様に出会う機会すらなかった人はどうすればいいんですか」

不平等だと思った。実際僕の身の回りには、教会に行ったことのない人がたくさんいたのだ。

「だからこそ、偶然出会えた私たちには布教をする義務がある」

牧師はそう答えた。

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他にも疑問は浮かぶ。

どうして神様は「神様を信じられない人間」を創り出したのか。新約聖書にたびたび登場する「悪魔」に関しても同じことが言える。

人を悪の道へ誘惑する存在をわざわざ創り出し、まんまと引っかかった者は地獄に落とすという。

「神様は自由意思を私たちに与えてくれたのだ」と、多くのキリスト教徒は考える。天国とは、自分の意思で自分たちを創造した神様を信じることを決めたご褒美のようなものだ。

そのために神様は、あえて「悪」をこの世界に登場させた。

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「悪」は往々にして、神様を信じる善い人すら危険に晒す。病気・災害・犯罪と言った大きな不幸から、仕事や恋愛に至るまで、人生の多くの場面でそういう状況が起こる。

「神様は私たちに試練を与える。そして神様は、乗り越えられない試練は私たちに与えない」と、キリスト教徒は言う。

けれども人は、死ぬ時は簡単に死ぬ。彼らは天国で幸せになれるのだろうか。それとも信仰心が足りなかったのだろうか。

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神様を信じる人間の信仰心は、「どうやって私たちは生まれてきたのか」という疑問と深い関わりがある。神様という存在はその絶対的な答えとなり、宗教はその答えに基づいた生き方を示してくれる。

しかし、ここで再び大きな疑問が浮かぶ。「神の神」という言葉で、宗教学にもよく登場するものだ。すなわち、世界は神様によって創られたけど、それでは神様は誰が作ったのかということ。

それは果たして、偶然なのか。それとも神様もやはり、信じる神様がいるのだろうか。

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キリスト教に対する疑問をつらつらと書いてきたけれど、キリスト教を信じている人を否定しているわけではない。

神様はそれを信じる人の心の支えになれるし、宗教とは人を救う力があることを知っている。僕自身、子どもの頃は素直に信じていた。

けれどもキリスト教徒にとって、キリスト教を信じられなくなった僕は否定される存在で、このままだと地獄に行く人間だということも知っている。

だからキリスト教徒に、「キリスト教を信じない君も受け入れるよ」と言われても、どうしても複雑な気持ちになってしまう。

やはり僕も、キリスト教を否定しなければならないのだろうか。

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