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見えないから、見てきたもの【インドア目線】

薄々自分の中でわかっていたことでも、
いざ現実に突き付けられると、改まって怯んでしまうものがあります。

大学生活のために地元を離れていた時にはあまり行くことの無かった眼科に、
ここ数ヶ月の間通っていました。

主な目的は、
自動車免許を取る・取らないに関して、
お医者様的な裏付けを取るためです。

●黒に近いグレー

端的に言いますと、当分の間、
自動車免許の取得自体を諦める方針になりました。

私の目には、
物心つく前から、先天性の眼振というものがあり、

・眼球が横(人によっては縦)に揺れる、他人から見てもそれがわかる場合もある。

・眼球が揺れるため、距離感や物によってはピントが合わない

・色々な要因が総合して、動くもの、動いている時に反応が遅れる一因となる

・揺れが常時なのか突発的なのか、揺れの幅の大小にも個人差がある。

以上はあくまで自分の解釈ではありますが、

眼振持ちの人は以上の理由から、
タクシーやバス、その他送迎車両、
運送関係の車の運転など、

業務上運転をするような仕事はお医者様的に止められるようです。

(運転が出来ないわけではないので、通勤で車で通うぶんにはOKになったりします)

黒に近いグレー、といった表現が当てはまるのかなと思います。

●自覚

僕がアートと出会う前は、
親の影響で野球が好きだったのですが、

好きなことなのに、球場に試合を観に行っても
打球をよく見失う

体育のソフトボール程度のことでも、
飛んでくるフライの距離感が掴めない。

それでも、競技のルールを教えるぶんには問題ないので、
女子にそれを教える時、野球部だけでは手が回らない時に、
役を買って出たりはしましたが、

教えた子が打球の目測を誤ることなくフライを捕った時、
ハイタッチで喜びを分かち合いつつも、
フライを捕れない僕は内心ズタボロになっていたこともありました

(…これは症状関係ないですね!)

親の好みとは裏腹に、
僕が落書きや美術というものに出会うと、
体育と違って、動くものに反応する場面は少ないのですが、

眼球が横揺れするため、
縦描きをするときには無意識にでも神経を使う、

ピントが合わないからついつい絵と目が近くなり、
作品を作るときに全体像を見ないクセがある
といったこともありました。

元々アート畑の人間でなかった僕なのですが、
その手の部活に所属しておきながら、
ある学期の美術の評価がほかのどの教科よりも低く、たまらずショックを受けてしまいました。

この美術の評定の一件以来、

時には絵から大きく離れて、美術室の端っこから絵を見る、

あえてメガネを外して、遠くから見た自分の絵を仮想して見てみる、などの
制作自体に工夫をするキッカケにもなりました。

それを知ってか知らずか、
母が、僕がペーパードライバーになる期間ができるだけ無いように配慮したかったこと、

また僕も、大学生が大体どの時期に、
免許を取るのかを前もって気付く機会がなく、

また大学から半行方不明になったり、
僕のなかで、免許のことが頭のどこにも入らないくらいになった時期も重なり、

取得のタイミングが遅れていたのです。

そして小さい頃にお世話になっていた先生が、
僕が地元を留守にしている間に亡くなってしまっていたため、

改めて、26歳になった僕と新しい先生
(カルテ等は前の先生から引き継がれている)とで、

別の視点から、
今の自分の眼を検査してもらった結果、

冒頭のとおり、
運転免許自体見合わせる…となりました。

僕の場合、特に点滅するものに対する反応が良くないようです。

●回想

先生と話している時も、
色々なことが頭を過りました。

「いや、免許取ります!」と
多少見栄を張っていうことも出来たかもしれないと思ったり、

「取りません」と言うことが、単に自分の性格の問題なのでは…と思ったりしました。

車社会である鳥取で、車を運転できないとなると、
周囲の目
(親しい人に対してというよりは隣近所に対して)も、気にならないとは言えません。

しかし、この判断で、もしかしたら、

これからを生きる小さな命、
自分の血が繋がった命じゃなくても友人知人のそれを、
自分の防げた過ちのせいで奪ってしまうかもしれない。

また僕自身が車に弾かれた経験があるから、

車自体への恐怖というより、

目が覚めた時に目前に病院の天井と親と当時の担任の先生がいた光景
なによりの教訓。

そして、なによりも一番悔しかったのは、


学生時代、足が無いときに、

多くの人生の先輩方の助手席に乗せて頂いたのに、

今度は僕がそれをしてあげる側には
なれない…ということでした。

●“見えない”からこそ

しかし、この眼だからこそ、
僕が学べたことや今の自分の糧になってきたものもあるんだなと、いくつか気付けるようになりました。

相変わらず野球を見ていても、母校の応援に行くことがあっても、打球を見失うのですから、

グラウンドに立っている野手の
走る方向や視線に注意を払うことで、

打球を見失っていても、どこに飛んだのかをおおよそは把握することができます。

時には、近くの席に座っている他の観客の視線を追うことで、それを把握することもできます。

また、選手の守る位置の変化に気を配ることで、
これからどこに打球が飛ぶのかに見当をつけることもできます。

見えないからこそ、見るポイントを工夫する。
これは今でも、

イベントの裏方などをする時に活かされているんだなと思います。

またソフトボールをする時、
フライが捕れないんだから、それが滅多に飛んでくることのない、
キャッチャーのポジションをやることが次第に多くなりました。
親が草野球でやっていたポジションでもありました。

このスポーツにおいてキャッチャーは、
他の選手がホームベースの方向を向いている中、
チームの中で一人だけ、真逆の方向からグラウンドを見ています。

見ている視点が他の選手と違うことは、
野球やソフトボールをご存知の方ならお分かりかと思います。

人と違う視点を、
僕の場合は持ちたくて持ったわけでは無いのかもしれません。
こういうルーツがあったんだなと、今は感じていま


また、大学の講義を受けるときは、
どれだけメガネの度を上げても、ピントが合わないために、実質視力0.5以上が見えず、


よく一緒に行動していた同期と近い席に座っているだけでは、
どうしても板書やスクリーンの文字が見えない
ことがありました。

受験生時代に希望していた分野とは
全く違う世界に入った中、

大学生活を安定させる要因の1つである同期と別行動になるのは、
少なくない不安がありました。
(後に、そうでもなくなってしまいましたが)

いろいろなモノを天秤にはかりながら、
独り身になって、講義を中央から前の席で聞くこともありましたが、

そのぶん、この眼のお陰で、

自分の周りだけでは思い付かないタイプの学生の考えや、
近くに座っていた他の学部・学科の人間模様を見ることができ、

インドアな僕が、
色んな人の考えに触れてみたいと行動を起こすことにも
繋がっていったんだと思います。

~終~

読んでいただきありがとうございます。いただいたサポートは、鳥取のアートシーンで活動されている方々を応援する際に使わせていただきます。