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「鍋」 この、こころおどる料理。あるいは、ちょっとだけ気落ちする料理

はじめに
「G式過剰neo」は99年〜03年にかけて断続的に発表していたWEBコラム「G式過剰」のリブート版です。今回再開するにあたり、初出時期からの時代の変化をふまえて追記改稿などを行っています。
では、G式過剰neo第2回をお送りします。

冬ともなれば暖かい料理が恋しくなるものだ。となれば鍋。鍋が身も心も暖かくしてくれる。これこそ世の必然であろう。

さて。ざっくり「鍋、サイコー!」というの容易いが、しかし鍋料理とは料理の個別名詞ではない。料理のジャンル。つまり鍋の種類は星の数ほどあるよね、ということで。
で、数が多くなればそこに優劣が生まれたりもするのも、また世の必然である。

十人十色という言葉もあるとおり、誰しもそれぞれに「これがこそが最高の鍋」があって、そこにはその鍋に対する熱い想いがあろうかと思う。もちろん自分にもある。基本的に自分は好き嫌いもなく、だからどんな鍋もしっかり美味しくいただいている。
そのうえで、自分にとっての3大最高鍋といえば、『フグ』『スッポン』『アンコウ』をあげたい。

別にこの3つが味覚的な意味において最高鍋ということではない。ほかにも美味しい鍋は当然あるし、先に書いたとおり、そもそも鍋好き奉行なのでどんな鍋も大好きだ。しかし、この3つはオレの中では“特別”な存在なのである。それは「好きだ」という気持ちでも「美味い」というものでもなく、こころおどる、そう特別としかいいようのない不思議な感情である。

そんな気持ちを抱く理由を考えるうえで、逆に3大普通鍋はなにか? ということからアプローチしてみたい。
自分にとっての3大普通鍋は、これ。『寄せ鍋』『ちゃんこ鍋』『湯豆腐』である。もちろん美味しくないとか嫌いとかそういう理由ではない。なんとなく「普通」。そういう感じ。
ここにあげた以外の鍋も含めて、どの鍋も美味さはそれぞれ甲乙つけがたいものだし、調理法も基本的にはどれも「食材を鍋で煮る」というフォーマットである。にもかかわらずこの気持ちの差はどこからくるのか。

つらつら考えてみるに、これは子供時代の食卓に起因しているのではないか。ぶっちゃけていえば「お家の夕食に出てきたかどうか」ということだ。

どこのうちでもそうだと思うが、寄せ鍋やちゃんこ鍋は、誕生日であるとか親戚が遊びに来たとかのような特別のイベントがなくても結構頻繁に食卓をにぎわしていた、日頃から出会うことの多い鍋であった。その次にすき焼きやしゃぶしゃぶ、牡蠣鍋、蟹鍋といった、たまに会える鍋があった。
つまり普通鍋の正体は、普段着の鍋、日常の鍋ということだ。

で、肝心の3大最高鍋。こいつらには幼少時に出会ったことはなかったのだった。家庭でなかなか扱うことの少ない食材ということもあるだろうし、住んでいるところの食習慣という要素もあるかもしれない。
このような出会いの有無が、ハレとケの意識につながり、結果、感情のありように結びついていたのだと思うわけである。

そんな3大最高鍋だが、初体験はオトナになってから。
実際に食べてみたときの感想は「鍋は鍋だなあ」と。確かに美味しかったけれども、他に較べようもないほどの至上極上の味覚というほどの大きな差があるわけでもないのだなあと思ったものである。オトナになるってことは、憧れが普通に変わることなのかもしれない。いやそれは違うか。

ちなみに現時点でのオレの至高極上の鍋は厳冬の富士五湖キャンプで作った茸たっぷり鍋なのだが、食材コスト的には3大鍋にも及びもしない廉価であったと記憶している。鍋の美味しさは価格ではないとそのときあらためて思ったものである。
しかしそれでも、やはり目の前に登場したときのこころの沸き立ち感において、自分の中では『フグ、スッポン、アンコウ』が、今でも燦然と輝く鍋の星である。

※補足

  • 普通鍋のひとつ「湯豆腐」は、実は昔は「水炊き」でした。でも博多で本場の水炊きを食べて以来、自分の中では順位変更があり、このような感じになりました。

  • 寄せ鍋とちゃんこ鍋ってどう違うの? いや、わかってるから。本来の意味も知ってっから。そのうえで書いてるから!

初出タイトル「鍋でこの世はこともなし」99年12月20日 初出
24年1月8日 改稿

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