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伊豆修験の研究者・深澤太郎先生を訪ねる

2021年1月12日 本日は渋谷にある國學院大学へ。

ひょんなところから伊豆半島を一周する修験道「伊豆辺路(いずへじ)」と出会い、その第一歩は2021年6月、まずはインターネット検索から始まった。

ところが「伊豆辺路」に関する情報はほぼヒットせず。唯一と言っていい学術的情報は、考古学・宗教考古学を研究分野とされている國學院大学の深澤太郎先生の『伊豆修験の考古学的研究』だった。

丁度その頃、伊豆半島ジオパーク推進協議会と静岡県温泉協会が共催してるイベント・ジオカフェ「おんせんはたいへん」の様子がYoutubeにアップされた。毎回、伊豆半島をテーマにした温泉のあれこれを題材にしたイベントなのだが、今回のテーマはなんと伊豆半島と修験道のお話!

当然、イベントには深澤太郎先生が登壇されていたが、当時の私にはベースとなる知識もなく、理解を進めるのがとても難しかった事を覚えている。

その後、熱海伊豆山、富士山村山古道、東浦路と呼ばれる熱海(厳密には湯河原)から下田を結ぶ古道の存在を知り踏破する。

あれから半年。伊豆修験について多少は身体に馴染んできたかな。ということで伊豆半島ジオパーク推進協議会の専任研究員・遠藤大介さんのご紹介で、深澤太郎先生にお会いすることになった。

PROFILE 深澤 太郎

考古学的見解

そもそも圧倒的に情報は少ないのですが、伊豆修験を調べていくとwebと現地の案内板はもちろん、それぞれの案内板を比べても違う情報があったりするんです。どのように考えたら良いのでしょうか?

中世の*縁起物語なんかでは走湯山、今で言う熱海の伊豆山神社、あそこの信仰のはじまりについては色んなバリエーションの物語があるんです。要するに物語だから、どれが嘘でどれが本当かということはなく、一つ一つの物語としては破綻してないんですけど、複数の物語を並べてしまうと言ってることが全然違うということになってしまうんです。

そうなんです。整合性がつかないんです。

「一番最初に遠くからやって来た神様や仙人からはじまるんだ。」という話があったり、「役行者さんから始まるんだ。」という話があったりで、そこは難しいんですけど、超絶ドライに歴史的なことだけ言ってしまうと、おそらく鎌倉時代くらいですね。13世紀から14世紀くらいに。もっと厳密に言うと、伊豆辺路というのは、熱海の伊豆山から時計回りにぐるっと一周するルート。なので富士山までは行ってない。当然、富士山は関係あるんですけど。

*伊豆峯次第ですね。

そうです。そこかしこにある*拝所は、それこそ古墳時代からはじまり神社になってることもあれば、あるいは平安時代に作られた山寺であったり、あるいは地域でお祀りしている小さなお社であったり、あるいは修験者が修行する洞窟であったりとか色んなバリエーションがあるんです。

なので、同時多発的に、あるいは時間を追いながら少しずつそれぞれの文脈で拝所が出来ているんです。12世紀くらいに伊豆山を中心として走湯山の信仰が大きく注目されて、伊豆半島各地でも*経塚ができました。要するに*末法の世が近づいて来て、仏さんの教えが失われてしまう。それでは困るということで、お経を書いた巻物を筒に入れて埋めてしまうのです。

56億7千万年後に弥勒菩薩が再びやって来るまで保管するという。

はい。そういったものが伊豆半島の各所でムーブメントになったり。それを核としながら今度は、伊豆修験者達が活動を始めていく。というのがまた一つバックグラウンドになっていたりするんです。

調査方法

調査方法について教えてください。

四国のお遍路さんは早いうちから民衆に開かれてました。富士山もそうですよね。*講という形で一般の人たちに信仰の登山ができるよう山を開いていたわけです。ところが、伊豆修験の場合はプロフェッショナル向けだったので、明治維新による*神仏分離の途端、真っ先に廃絶になってしまい実態がわからなくなってしまったんです。

豊臣秀吉の小田原攻めで文書がかなり燃えてしまってるんですよね。だからここ(伊豆山神社)ではなくて例えば、神奈川県の*金沢文庫とか称名寺とかに残されている文書によって中世の実態はある程度わかるんです。唯一残されてる「*伊豆峯次第」や「*修験古実書上」といった僅かな資料から、18世紀あるいは19世紀段階で拝所がどれだけあったのか、いつどこにお参りするかがわかるんです。

なので、まずは対応関係を知るために一覧を作りました。例えば、「稲取村の八幡宮」と言ってるのは現在のどこなんだ、どこに位置するのか。これだとマッピングだけになってしまうので、一箇所一箇所拝所へ行きました。どの段階から修験が始まったのかわからないけれど、そこを歩くと例えば古墳時代の遺物が転がっていたり、中世の焼き物が転がっていたり。

下田・美穂ヶ崎の洞窟内には「文明十五年」と15世紀を遡るような年号が書いてあったりするんです。いつ頃から人間が注目するような、あるいは利用するような空間になったのか。一つずつ拾ってきて調べるという仕事をして来ました。

洞窟内に名前が書いてあるんですよね。

そうそう。実際歩いたのは3人だけど、役行者さんを合わせて4人の名前が書いてあるんです。実は、京都大学の図書館が持っている「伊豆峯次第」の別バージョンがあって、拝所が出入りしたりしてるんです。

時期によってお参りする拝所が増えたり減ったりしてるんです。まあまあ、概ねのエッセンスはこの調査書にあるので、ご覧いただければ良いと思います。最新バージョンも後ほどデータでお送りします。

ただ問題は、ここで出てきた拝所というのは、点なんですよね。点をどういう風に繋ぐのか、要するに伊豆峯次第に書いてある順番通りに巡るんだとすると、繋ぐ道がどうなってるのかというのは、やはり古道の調査を参照しないと追いかけていくことはできません。古道には石碑等が点々としているので、それを辿っていくと本来の道を復元できると思います。ただし、現在は生活道路と被ってるところが多いので、アスファルトになっているところが多いんです。

富士山と伊豆半島の関係

最後に、富士山との関係をどういうふうに結びつけるか。実際、伊豆修験者は富士山と結びつきはあるんだけど、伊豆峯次第としては富士山には行っていないんです。但し、富士の修験というのは伊豆修験者が開いてるのです。

ーー末代上人ですよね。

そうです。*村山は*走湯の支配下にあったと考えても良いです。北口からも南口からも、かなり早い段階から伊豆の修験者達が富士山を登っていますし、「修験古実書上」の世界観・胎蔵界と金剛界と言われているような、まさに*両界曼荼羅の世界を伊豆半島が体現している。その中心にあるというのが、胎蔵界曼荼羅の中心である*中台八葉院たる富士山。というような位置付けになっていたり。

富士山とは浅間(あさま)で浅間(せんげん)じゃないですか。走湯山の*本地仏は千手千眼観音で、千眼(せんげん)が富士の浅間(せんげん)に通じるとう言説を用いたり、伊豆と富士の関わりは理論武装できるということになります。

伊豆半島はフィリピン海プレートでやって来て、本州にぶつかり富士山が出来上がったという地学的背景からも関係性を語れますが、あくまで富士山と伊豆半島は霊的な関係である、つまり祈りの道。また、必ずしも当時の道を繋げる事は出来ないと考えています。

そうそう。わからないですよ。但し、点(拝所)は押さえてあるので、これ(深澤先生の学術資料)を参照して線(古道)を繋げて、ぜひ現代の伊豆辺路をつくってください。

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この後、さらに深掘りされ、伊豆諸島、箱根へと発展していったが、今回の記録はここまでとする。

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