次郎

田舎在住の個人事業主。 思ったこと書いて来ます。

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マガジン

  • お道の雑感。

    その名の通り。 一般信者による雑念note。

最近の記事

いんねんの切り替わる瞬間。

昨年の6月までサラリーマンをしていた。 そこから 弟子入りして。 親方に騙されて 11月には独立した。 信念を以て働く。 そう思って弟子入りしたが それは その考えに共感したフリだけで 実際は その考えを利用された。 というのが本当らしい。 サラリーマンの時。 『はたはたを楽にする』という信念で 仕事に取り組み 人の嫌がる仕事は率先してこなした。 結果。 「あいつは上に媚びってる」と言われたり 嫌な仕事だけ回されるという 負のループになった。 当時を思い出すと 口癖

    • 同じ。

      1つの物。 同じ位置から覗く。 同じものを見てる。 それなのに。 この人と どうも とらえてるモノが違うみたいだ。 それ。 立場でモノ見てないか? 原点に立って 同じ人間にとして 見たなら 同じモノ 覗けてるのかも。 【昨日、息子に高校受験について叱った反省】

      • 好きになれない。

        なんの自慢にもならないが 私は子どもたちを 【こどもおぢばがえり】に 連れて行ったことがない。 こんなことを言えば お道の中では非国民と 非難を浴びそうだが。 お好きなように! と思っている。 理由もある。 昨年までサラリーマンをしていた私。 8月といえば13日あたりから連休になる。 それを目前に「有給ください」なんて言えない。 有給は権利だから!とはいえ 社会通念上、誰もそんなことはしない。 私の自宅から、おぢばまで車で7時間ほど。 会長たちは『仕事終わってから走っ

        • 3年1000日。

          理屈を抜いて話します。 年祭活動が始まると 【三年千日】というワードが まぁよく出ます。 更に10日後。 というのの引用を 年祭活動にあてて引用してると思われる。 たとえば振り返って 年祭を迎えたときに 『あっ!ご守護頂けた』と実感する者が それほど多いとは私は思わない。 よくよく探し出して 「これがご守護だったんだよね」 くらいの人が多い。 ただ。 ほとんどの信仰者に言えるのが 【明日をも見えない状況から救い出された】 そんな経験から、この道に着いたのではない

        いんねんの切り替わる瞬間。

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        • お道の雑感。
          1本

        記事

          見抜き見通し。

          朝づとめは 朝を迎えられた感謝と 今日一日のお願い。 夕づとめは 今日一日の感謝と 明日へのお願い。 感謝だけで通れれば良いのだが 人間というのは 用心深く そして 欲深い。 だから。 実際はお願いしている。 この僅かな文言。 これを朝21回 夕方に21回。 合わせて42回。 日に42回も「人間の心を入れ替えるので、一切のほこりを心から払い、どうかお救けください」 ってお願いする訳です。 いいですか。 42回お願いする訳です。 どうです?しつこいです。 日に42

          見抜き見通し。

          普請。

          仕事柄、不動産屋と取引があります。 ある時 不動産屋の担当者が 「家なんて9割は人件費ですからねぇ」 って。 世界の陽気普請も 9割が人件費であってはならない。 そう感じた日。

          おさしづから見る人間心。

          天理教の原典といえば おふでさき みかぐらうた おさしづ であるのは言わずと知れたこと。 おさしづと言えば 教祖や飯降伊蔵を通して口述された教えを筆録されたものを指す。 明治8年頃に教祖より【扇のさづけ 言上の許し】を頂き、悩める者に親神天理王命の言葉をお取次ぎされた。 その中に、親神様の神意を説いたものを【刻限】といい、人々の悩みなどの問いかけに対しこたえたものを【伺い】という。 祭典講話などで引用されることも多く、特に人々の悩みについて書かれた【伺い】に関しては、

          おさしづから見る人間心。

          人たすけたらわがみたすかる

          天理教とは、どんな信仰ですか? と聞かれたらどう答えますか。 という練合があるとします。 私の回答は 「私にとって最高の教えです」だけ。 『私を見てください』などという二代真柱氏のようなことは、とても烏滸がましくて言えません。 でね。 『人たすけたらわがみたすかる』という教えです。 という方よくいますし よく聞きます。 なんて言うか。 の引用はわかるんですが。 その…天理教のキャッチフレーズのような扱いに 最近、もやもやした気持ちでいっぱいです。 聞こえが良く。爽

          人たすけたらわがみたすかる

          事情を運ぶ。

          教会長になるのに【お運び】という 通過儀礼がある。 正式には【事情運び】というようだが。 これは、願い出てお許し頂いたが 何らかの理由により存続できなくなった 事情を運び 改めて許しを乞う。 という意味があるようだ。 たとえば 先代会長が出直した場合。 信仰的には115歳が定命で それより先は心次第でいつまでも 置いてもらえる。 加えて たいしょく天のみことの守護により 出直しのとき、息を引き取る世話を頂く。 これ、あくまで【世話】であるから 出直しというのは自ら選ぶので

          事情を運ぶ。

          こう言う奴が道を踏み外す。

          と言う奴が私である。 と言われそうなので、予め書いておく。 私は教会長でもないし。 ただ苦節しながら教人になっただけ。 専修科も出てないし。 天理の学校も出てない。 青年勤めもしてない。 理論武装で理屈っぽいだけ。 それでも 自分が経験した人生を頼りに 自分にしか出来ない【お助け】をしたい! それだけの話。 私が見てきた天理教は この【おふでさき】だった。 そこに、苦しんでいる者がいるのに マゴマゴして、或いは見て見ぬふりして 最後だけ「心配してたんだよ」なんてこと。

          こう言う奴が道を踏み外す。

          修学旅行

          長男が修学旅行から帰ってきた。 あれやら これやら お土産が出てくる。 「これは、○○と一緒に買った」が多い。 年頃の子だから 色んな人の影響を受けたんだろうな。 ときに 人は人に騙され。 ときに 人に人に助けられ。 その人の影響で 角が取れて行くのだから。 それで良い。

          修学旅行

          ひと言の命。

          言葉というのは それそのものに重量はない。 ある者の言葉は【軽く】 また、ある者の言葉は【重い】 また 同じ音に聞こえる言葉は 漢字の意味ひとつで 全く違うように捉えられてしまう。 ひと言で ある人は勇気付けられるが たった、ひと言で ある人を傷付けてしまうもの。 ひと言には 命が宿ると感じた今日の日。

          ひと言の命。

          平等ってなに?

          最近、色んな言葉が行き交う。 平等ってなに? 子どもの頃 学校や家庭で 『みんな平等なんだから』って言われて育った。 何を基準(起点)にしてなのかでは? と最近思うようになったりで。 着地点も5:5にはなってるようには思えない。 ん〜。 息子が中学にあがる頃。 LGBT問題に関心が出た教育委員会は 制服の規定を緩和し 【ブレザー着用に際し、男子はスラックス、女子はスカートまたはスラックス】という規定を盛り込んだ。 これ、どうなん? 例えば。 女子の中に性同一性障害

          平等ってなに?

          書き記す。

          書きたいコトは 山のようにあるが なぜか 頭に浮かんでは消え 浮かんでは消えのルーティンになる。 代わり映えのない毎日ではない。 たとえば 自営業なので 取り引きのない日もある。 そんなとき 営業に行けば 昨日まで知らなかった誰かと知り合いになるし 事務作業をすれば 新しい技術が身につく。 本を読めば 物事への好奇心が満たされたり 妻と話せば 己の至らぬところに気付かされる。 そうして 常に新しい何かに出会い その都度、心振るわされるのに なぜか発信するのが上手くいかな

          書き記す。

          次男の転校。

          中古住宅を購入した。 同一市内だったが通う小学校が変わる。 転校することになった次男。 私は転校ということに前向きになれない。 私自身は転校したことはないが 転校生のほとんどが笑顔ではなかったから。 今まで積み上げて来た思い出たち。 当たり前に、昨日と明日の間を繰り返し。 その中で、明日の約束をする日々が崩れて 今度、いつ会えるかわからなくなる。 もしかしたら 一生会えない友達もいるかもしれない。 そう思ったら 親として軽率だったかな…と少し悩んだ。 春休み前の修了式の

          次男の転校。