いんねんの切り替わる瞬間。
昨年の6月までサラリーマンをしていた。
そこから
弟子入りして。
親方に騙されて
11月には独立した。
信念を以て働く。
そう思って弟子入りしたが
それは
その考えに共感したフリだけで
実際は
その考えを利用された。
というのが本当らしい。
サラリーマンの時。
『はたはたを楽にする』という信念で
仕事に取り組み
人の嫌がる仕事は率先してこなした。
結果。
「あいつは上に媚びってる」と言われたり
嫌な仕事だけ回されるという
負のループになった。
当時を思い出すと
口癖は『すみません』だった。
事務所に入るなり
『すみませんが……なんですけど』が多い。
何も自分が悪いことしてなくても
常に【すみません】という言葉。
今思えば。
これは、前生のいんねんへの懺悔。
前生のいんねんというのは記憶にないから
謝って通れば良いという。
私は記憶にないことを
ひたすら謝る日々だった。
で。
サラリーマンを辞めたとき。
疲れがどっと出て発熱。
40℃越えと激痛の頭痛を1週間。
病院をたらい回しされ
原因不明で本気で死ぬかと思った。
弟子入りして。
ここから【たんのう】という言葉が出てくる。
【たんのう】というは堪能。
よく、教内では我慢に似た扱いをされる。
ごめんなさい。
はい、させていただきます。
そんなことを素直というが
はたして、どうだろうか。
自分の心に嘘をつき
悶々と過ごすことが【素直】や【たんのう】になるものか。
堪能するといえば
分かりやすく【食事を堪能する】というが
たとえば
フキノトウを食べる。
「どう?」聞かれ
子どもなら「苦い」という。
大人なら「おいしいです」という。
私が思う【たんのう】は
苦味の中に青臭さを感じながらも、なぜかそれが美味く感じる。食べていると「あ~春だなぁ」そんな気がする。
そんな奥の深い感じまでもが【たんのう】というのでは?と思う。
勿論
苦手な方は「……その苦味が苦手なんだけど」と続く訳だが。
得意とか苦手ということが【たんのう】という言葉に対する重要性はないと考えている。
その溜まった水に投じた一石が
底に着いたときに湧き上がった気持ちが『たんのう』であろうと思う。
そこで
弟子入りした際は
案外、自己主張して自分の心に正直にした。
結果、いち早く騙されたことに気がついた。
この【騙される】ということに焦点を置きたくなるが、そこではなく【回避した】または【立ち回れた】という御守護が本来の焦点である。
で。
独立した訳であるが。
今まで
【懺悔】→【たんのう】と来て。
ここから
いんねんが切り替わる。
それが【感謝】なのです。
今、仕事をお客様から頂くたびに
『ありがとうございます』が口癖になった。
電話をもらっても
訪問しても
決済のときも
見送られるときも。
『ありがとうございます』
って言うのが口癖になった私。
いんねんは
確実に切り替わったのだろうと
感じている。