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嵯峨野の月#104 高津退場

第4章 凌雲2

高津退場


「三論宗の開祖は龍樹りゅうじゅさまなるぞ!

龍樹さまは大乗仏教の大成者にて法相宗をはじめとする南都の宗派及び天台宗と真言密教でも開祖とされている。

それに比べて法相の教えは龍樹さま没後二百年を経て遺された論考から派生した宗派ではないか。
よって、三論は君親、法相は臣子なり!」

弘仁四(816)年五月、
張りのある声を響かせて論敵を退けたはこの年五十九になる三論宗の僧侶、勤操ごんぞう

彼はこの年、嵯峨帝の勅命により僧の最高位である伝燈大法師でんとうだいほうし(貴族の三位に相当する)に就き、
大極殿にて聖武朝より続く金光明最勝王経こんこうみょうさいしょうおうきょう全十巻を朝夕二座、1巻ずつ講じさせて、天下太平・国家安穏を祈る国家祈祷行事である最勝会さいしょうえを律師として執り行い、

その後完成したばかりの紫宸殿で天皇の御前で行われた宗派対決の論争で見事他宗派全てを論破したことにより、

「勤操の言やよし、実に見事なり」

とその場で嵯峨帝にお褒めの言葉を賜り、少僧都、西寺長者、さらには建設中の東寺長者にも任ぜられこの時期、最澄や空海よりもめざましい出世を遂げた。

「さすがは勤操さま。周囲を圧倒する音声おんじょうは健在ですな」
ぞろぞろと宮中を後にする高僧たちの列の中、空海が勤操に話し掛けると勤操は「当たり前や」と帽子もうすの下でにやり、と笑い、

「三論の教えを守るために今まで何百の他宗派の坊さんを口でぼてぐりくさってきた思うてんねん?『この』勤操の前に論で敵無し!」

わっはっはっは!と胸そびやかす勤操に空海は、

このおっさんの喧嘩好きの童みたいな気質、出会った時から全然変わってへんな…と会う度に思うのだが、どんなに位が高くなっても決して偉ぶらないのが彼の美点なのだ。

大学寮を出奔してすぐに出会った僧侶がこの型破りの勤操さまで本当に良かった。でなければ自分は仏教にも失望して行き場を無くしていただろう。

と空海は初夏の空の下、彼の後ろ姿に合掌しるのであった。

この年の夏に嵯峨帝の正妻で妃の高津内親王が初めての子を出産。

帝側近の貴族や後宮の女たちは

皇子みこ
皇女ひめみこ

と高津の母の実家である坂上家からの報せを今か今かと待ち「お妃さま無事にご出産…皇女さまであらせられます!」と坂上家からの使者の報告を聞いた時、皆一様に、

ああ、良かった。と胸撫で下ろしたものである。

嵯峨帝生まれた皇女に業子なりこと名付け、ひと月後に後宮に戻った高津から赤子を受け取ると黒々とした艶のある眼、透けるように白い肌に「こんなに小さいのになんて美しい子なんだ…」と感動なさり、結婚以来仲があまり良くなかった正妻を殊の外ご寵愛した。

そして翌年の初冬、その寵愛の内に高津は第二子を懐妊して出産に臨んだもののこれが難産であり生まれた子がなかなか産声を上げない。

まさか死産なの?

産屋に居た女たちがしん…と黙り込み高津が両手で顔を覆って泣き出す中、
高津づきの命婦で叔母でもある三善高子が赤子の両足を掴んで逆さ吊りにし、もう片方の手で体を叩いて何度か気付けをすると赤子は弱々しい産声を上げた。

お妃さまに皇子誕生。

の報を受けた嵯峨帝は
「そうか、めでたい」
とほっとしていたがその表情には複雑なものがある事を藤原冬嗣は見逃さなかった…

七日後、皇子は業良なりよしと名付けられた。

「母子ともども大変なお産で弱っておいでなので回復には三月みつきほどかかるそうだ」

「よりによってご正妻に皇子とは…これはまずい事になったぞ」

「めでたい事なのに一体何がまずいのです?」

と火鉢から顔を上げたのは橘逸勢。閉めきった部屋で共に火鉢を囲んでいた藤原冬嗣と橘氏公たちばなのうじきみは、

こいつは宮仕えしてもう五年にもなるというのに、帝の外戚という自分の立場がまったく解っていない。

まあ、帝の侍講扱いで直接の政に関わっていない逸勢だから…

仕方がないか。

と小さなため息を付いた。

「あのですね、正良親王まさらしんのうは側室の橘の夫人さまのお子で業良さまは正室のお妃さまのお子です。ならば後継の皇子として格上になるのはどちらですか?」

と冬嗣が噛み砕いて説明すると逸勢は

「そ、それでは嘉智子さまのお立場が脅かされるではないか!」

とやっと状況を理解した。

「そうです逸勢どの。皇太弟大伴さまの次の天皇には、橘の夫人さまのお子である正良さまに即位していただき橘家から皇后を出すという十何年も掛けた我々外戚の計画が、正妻の皇子一人の存在で危ぶまれるのです」

困ったものだ、と嘉智子の兄の氏公は重ね着した単衣の中で大きなため息をついた。

「なれど正良親王を後継になさりたい帝の御真意は少しも揺るぎませぬ。帝の近臣である我が言うのですからそうご心配なさりますな」

つとめて柔らかな口調で冬嗣は名族橘家の男たちを慰めた。

何を根拠にそう言いきるのだ?
と橘家の男たちは怪訝な目で冬嗣を見るのだが野心を抱き帝と同じく猛禽の眼をした冬嗣には、解るのだ。

最も愛する女を皇后に立て、彼女が産んだ皇子を天皇にする我儘ぐらい自分には許されていい筈だ。

という我欲は帝王の座に就いた男なら必ず抱くものだから。

僭越ながら俺が帝のお立場なら必ず美都子を皇后にし、長良か良房を後継に据えるさ。帝が困ってらっしゃるのは…今後のお妃さまと業良さまのお取り扱いについてなのだ。

男とはそういうものだ。

火鉢の中で白く崩れた隅から継ぎ足した黒い炭に火が紅く燃え移り、冬嗣の瞳の中で勢いよく火花が散った。

皇子誕生から五月経ち年も弘仁六年に改まった。

が、妃の高津内親王は一向に後宮に帰る様子を見せないし帝からの再三の呼び出しにも「お産が重かったのでまだ床上げできません」とか「陰陽師にしばらく動かぬ方が良いと言われましたので」と返事の文でそう言い訳して後宮に戻るのを引き延ばしていた。

その間、坂上家に頻繁に通う医僧がいるという噂が立ったががひときわ警備が厳重な坂上家の者が隠すものだからそれが誰なのか解らない。

医僧らしき者が入る度に生まれて以来病弱と言われてきた業良に急変でもあったのか?と気を揉む嵯峨帝が都に勤める正僧一人一人に聞き込み調査をしようか?

いや、それでは都に住む僧侶たちの反感を買ってしまう…と思い悩んでいる中彼の最愛の妻、嘉智子も三人目の子を産むために実家に帰りやすやすと皇女を産んだ。

七日後に皇女は芳子よしこ(芳子内親王)と名付けられ産後の経過もよく母子とも産屋から橘家の母屋に移って間もなく、嘉智子づきの宮女明鏡に、

高津内親王、廃妃。

の報せが届いた。

「廃妃って…それは本当ですの?」

あの帝が女人に対してその様な酷な沙汰を下すなんてとても信じられない。

「帝の勅だから事実だ。なんでもお妃さまが後宮にお戻りなられてすぐに乱心なさり、帝に無礼を働いたそうな。その日の内に廃妃、二人のお子ともども実家の坂上家に帰された」

と後宮の一大事を語る橘弟氏たちばなのおとうじは神妙な顔はしているもののその口元は緩みっぱなしで、こんなあけすけなお方に宮中の要職務まりますまい。と明鏡は思った。

「とにかく、姉上にはこの件絶対にお耳に入れないでくれよ」

「まずは弟氏どのから距離を置かれるのがよろしいかと」

弟氏は明鏡の嫌味にも気づかずそれもそうだな、と立ち上がり廊下の向こうに去った。

高津さまがご乱心?そんな筈は無い。明鏡はかぶりを振った。

幼少の頃から高津さまにお仕えしてきて確かに神経質なところはおありだけれ誇り高く決して乱心などなさるお方ではない。

きっと深い理由わけがおありなのだ。

正子と正良に囲まれて芳子にお乳を含ませる嘉智子の笑顔を見守る明鏡は、
ここにいる間は決してお妃さまのことは嘉智子さまのお耳には入れるまいと決心した。

それから三日後、内裏からのお祝いの品の中に後宮の女御、貴命手縫いの産着を見付けた明鏡はまあなんて丁寧な縫製なんでしょう!と感嘆しながらいつも通りに検品しているとわざと縫われていない襟口の中に結び文を見付けた。

これは私への密書に違いないと確信した明鏡は周りに誰も居ないのを確かめると結び文を解き、素早くそれを読んだ。

明鏡さまへ

あなたが後宮に戻るまでに私が見た事の仔細をお伝えします。
あれは吉日を選んだ業良さまお披露目の場で起こりました。
高津さまは皇子さまを随分と慎重に帝にお渡しになり、
「…うむ、いい子だ。我が子業良である」と宣言なさり周囲の女御や御簾の外にいた近臣たちからお祝いの言葉を受けている時でした。

突然高津さまが己が手で前髪のかんざしを引き抜き、帝に襲いかかる狼藉を起こされたのです。

幸い間に入っていた女御が帝を庇ったので事なきを得ましたが帝は「長年あなたを正妻として遇して来たのにこの仕打ちは何だ!」と激怒なさりその場で廃妃と後宮からの追放を言い渡されました。

皇子さまを己が手に奪い取った高津さまが飾りを取った長い髪を垂らして廊下で激しく泣き叫ぶお姿、まだ瞼に焼き付いております。

元々ご繊細であられた高津さまはお産により心気の病を悪化されたのでしょう。

あれをご乱心と云わずして何と云いましょうや。

長年お仕えしてきた高津さまとこのような突然の別れに胸を痛めております。

貴命

夜の事だったので細かく裂いた文を少しずつ灯火にくべて燃やした明鏡の手は震えていた…

なんということだ。そのような大事が仁寿殿の廊下で起こっていただなんて!

心に落ち着きを取り戻すまでしばらくの間胸を押さえて深呼吸する必要があった。

もうどう当て推量しても事は起こり全て過ぎ去ってしまったのだ。これで我が主、嘉智子さまは実質帝のご正妻になる。

これはあなたも覚悟しておくように。という貴命さまからの助言の文なのだ。

とにかく事の真相は後宮に戻って確かめてみるまでは解らない。それまで密書の内容は考えるまい。

と気持ちを切り替える明鏡だった。


遡ってひと月前、やっと坂上家に通う僧侶の正体を突き止めた嵯峨帝は彼の者を夜御殿に呼び出した。

「成る程な、坂上家が唯一信用している僧とはお前だったか、僧都」と帝の御前で形だけ神妙にしている少僧都勤操の…

たとえ相手が天皇であろうと何を言われても患者を守り通す。という覚悟をその面構えに見てお怒りになるどころか、

さすがは奈良仏教にこの男あり、だ。とむしろ頼もしく思い、笑みをこぼした。

「どこから秘密が漏れたか、と訝っているのだろう?智泉だ」

と自分から情報元を告げると勤操はあ、智泉なら仕方ないか。とかつて自分の秘密の庵で困窮した妊産婦の世話係をさせていた元弟子、智泉の全く邪気の無い笑顔を思い浮かべてすとん、と肩を落とした。

「智泉のことだから自分から『皇子さまのご容態がご心配なら赤子の療治に長けた医僧を知っています』と我の名を出したのでしょうな…」

「全くその通りだ」と嵯峨帝が苦笑なさるのを見た勤操は「悪意より善意の方がより人をお喋りにする。この年でようやく思い知りましたわ」と帽子ごしに頭を掻いた。

そこでようやく心の構えを解いて改めて膝を揃えた勤操は「申し上げます、お妃さまと皇子さまお体はご健康そのものであります。が…」その先言いにくそうにしているので帝が「業良の生性うまれじょうを隠しているのだろう?」と自ら代弁なさった。

「そこまで察しておいでだったとは…」

「血族結婚が当たり前な皇族には時々起こることだ。ましてや朕と高津は母は違えど兄妹、血の濃さゆえの生性を持つことは何処かで覚悟はしていた」

「皇子さまは生後半年近くになりますが人よりご成長が遅うございます。樹々が何年もかけてやっと苗になるようにゆっくりとお育ちになられますか、と」

「つまりは体が大人になっても心はわらべのままということか」

「…その通りでございます」

畏まる勤操に嵯峨帝は「やっぱり妃は宮女による分けを恐れているのだな」と後宮で古くから秘密裏に行われてきた…

先天的に身体や精神に疾患を持って生まれて来た赤子や幼児の口と鼻を押さえて息を止める。あるいは微量の丹の毒を飲ませて殺すいわゆる「間引き」が行われていたのを蚕の繭から良質な絹糸とそうでない糸に選り分ける作業になぞらえて蚕(子)分けという隠語を用いて、

後宮に帰ったら業良が殺される可能性を示唆なさった。

「なれど皇子として認知するには公衆の面前で業良を抱いてお披露目をしなければならない。
一度だけ…一度だけでいいからあの子を腕に抱きたい!父親としての朕の本音、妃に伝えてくれるか?」

心の底からの帝の本音を聞いた勤操は「心得ました」と深く頭を下げてから退出するとその足で坂上家に赴き、高津内親王に業良の今後を保障するために後宮に戻るのはお披露目の一度だけでいい。という約束を告げた。

半月後の吉日、高津は叔母で田村麻呂の未亡人、三善高子と長女の業子と共に御車に乗りお披露目の場には勤操も立ち会わせて帝による認知の場に臨んだ。

思えばお兄さまと私の婚約が決まったのは母(田村麻呂の妹、坂上又子)が亡くなった五歳の時。お兄さまは一つ年上の六歳だった。

初めての面会で緊張してうつむく私に向かってお兄さまはおもむろに芍薬の花を差し出して面食らっている私に「私は神野、花は好きですか?」と尋ねたので思わず花を受け取り「ああ良かった…これからは仲良くやってゆきましょう」と笑って下さったので、つい私も笑い返して打ち解ける事ができた。

十二と十三で結婚してからお兄さまの度を過ぎた浮気に苦しめられて来たがそれでも正妻として私を大切にして下さったし、嘉智子への並々ならぬご執心も藤原北家と橘家からのやんわりとした外圧も無視して過ごしてきた。

業子さまが生まれて一年、本当に幸せだった…なれど。

仁寿殿の廊下で待ってくださった嵯峨帝は「体は大丈夫かい?」と高津を労ってから白いおくるみに包まれた業良を受け取った。

生後半年だというのに首がまだ座っておらず、目の焦点が定まらない我が子に向かって「うむ、いい子だ。我が子業良である」

と宣言した。

と御簾の外に控えていた三位以上の公卿たちにおめでとうございます。とことほぎを受けている時だった。

嵯峨帝から業良を抱き取ろうとする女御がいた。

高津は咄嗟に業良を嵯峨帝から奪い取り、簪を引き抜いてその女御に切りかかった。

あ!と声を上げて女御の手の平が付け根から先端に向かって裂け、鮮血が迸る。

機会はこの時しか無いと思って予定に無い行動をする者がいたら、それが蚕分けの女だ。

嵯峨帝と高津は本能的に分かっていたのだ。だって自分たちも業良のように生性に障りあれば間引かれていたかもしれない皇族の命なのだから。

廊下の内と外はお妃さまご乱心、ご乱心!帝に狼藉あり!と一斉にざわめく。

業良の体が高津から勤操の腕にしっかりと抱き取られると高津は血の付いた簪を落とし、張りつめていた緊張の糸が切れて泣き叫んだ。

「長年正妻として大切にしてきたのにこの仕打ちは何か!?高津内親王に廃妃を申し付ける」

業良と高津を無事に坂上家に帰すためには、
母子が二度と後宮に参内しなくて済むには、離婚するしかなかった。

高津と業良は来たそのまま引き返して御車に乗り実家の坂上家に戻って行った。これが十三年連れ添った夫婦の別れであった。

「蚕分けの風習はそんなことをしたら皇族が減るから、と桓武帝が廃止なさったではないですか。なのにあなたはなんてことを!」

桓武帝妃、酒人内親王さかひとないしんのうは怪我した女御に怒りを露わにして格子ごしに言葉をぶつけた。左手に布をぐるぐる巻いた女御は悪びれた様子もなく酒人を見返す。

「何とか言ったらどうなの?橘御井子たちばなのみいこ

桓武帝女御で橘嘉智子の従姉妹、橘御井子は針の刺さった蚕の繭を酒人に突きつけられても狼狽するでもなく「その中には丹の毒が入っております。ええ、私の意思で確かに皇子さまに手をかけようとしました」

次にふふっ!と笑った御井子は「橘の男たちがだらしないから私一人で邪魔者を排除しようとしたまでのこと。お怒りならば今この場で死んでもよろしいですが?」
とふてぶてしく言い放った。

「…即刻宮中から出ていきなさい、さすれば今までの働きに相応しい扱いをする」

これは自分の振る舞いが嘉智子に障り無し、という事なのだ。と察した御井子は「ではそうさせていただきますね」と僅かに笑うと荷物をまとめて長年仕えた宮中から去った。

橘御井子、弘仁6年(815年)7月従四位下に叙され、仁明天皇の代になった嘉祥2年(849年)閏12月に従三位となった。

高津さまはかわいそうに、橘の夫人の外戚の圧力に負けてしまったのだ。
皇女であらせられる妃を宮中から追い出す帝はなんて冷たいお方なのだろう。

という世間の同情の声も聞こえないところにいる高津は、かつてないくらい安らぎの中にいた。

幼い子二人の育児は共に宮中から辞した叔母の高子と弟の葛井親王(田村麻呂の孫)が協力してくれるし帝から業良さま親王号の確約をしていただき将来の保障も得た。

今では嵯峨帝との結婚生活も時々遠く思い返すくらい。

所詮、私たちは兄妹だったのだ。帝が私を正妻として立てて下すっても私の方が夫を愛せなかったのだ。

だって、いつも私の心にいた殿方は…

高津さま、お健やかでいらっしゃいますか?

と生きている間ずっと私を気遣って下さった叔父の田村麻呂なのだもの。

このこと決して秘めて言うまい。

「見て!高子。業良さまがこちらを見て笑っておいでよ!」

二十六年後の薨去まで高津内親王は心穏やかに余生を過ごした。

廃妃の理由については良有以也まことにゆえあるなりと薨伝に記されているだけで詳しいことは一切不明である。

後記
とある夫婦が離婚した背景。









































































































































































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