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嵯峨野の月#57 咎人空海

遣唐20

咎人空海


ちょうど太陽が空の一番高いところに差し掛かろうとしている頃であった。

柔らかい陽射しが窓の格子を通り抜け、一人の貴人の顔に振りかかってその目を覚まさせる。

ざん…ざざん。

と規則的に押し寄せる穏やかな波音の中で遣唐判官けんとうほうがん高階遠成たかしなのとおなりは船室の砂まみれの床から顔を上げた。

船が、揺れていない。という事はどこぞの陸地には漂着したらしい。

ここは故国か?それとも外国とつくにの島か?後者であって欲しくないものだが。

と手元に転がっていた烏帽子を慌てて頭に乗せて外から聞こえる水夫かこたちとここの島民たちとの話し声に耳を澄ませて…

ああ…通じる。日の本の言葉だ!

と涙で顔を濡らした遣唐判官は船室に倒れ込んでいる留学生たちに
「起きよ!故国に着いたぞ!」
呼びかけて一人一人の安否を確認し、全員無事だと確認すると、

ありがたや。この遠成、国の宝である留学生たちをを連れて帰りましたぞ。

と重病の御身で「頼むぞ」と笑って自分を送り出してくれた桓武帝のお顔を思い浮かべながら、床の上に拝跪した。

明州から出航した遣唐使帰りの船は途中で秋の嵐に遭い、揺られ揉まれながらの航路であったが幸い半月ほどで五島列島福江島の大宝寺浜に漂着した。

大同元年、秋(806年9月半ば)。丸三年ぶりに第18次遣唐使団の留学生たちは船から降りてやっと故国の地を踏むことが出来たのである。


「まったく、密教の法具に何度殺されそうになったことか!」

と近くの大宝寺で身を寄せて湯を沸かしてもらい、体の垢を落として衣を着替えてくつろぎながら開口一番、たちの悪い冗談を空海に向けて飛ばしたのは碁師の伴雄勝魚とものおかつおであった。

「へえ、怖い思いさせてえろうすいませんなあ、でも全員ご無事だと言うことは佛のご加護かと」
と空海が白衣だけというこざっぱりした格好で悪びれもせず合掌したので
「まあ結果的にそういう事にしといてやるよ!」と留学生たちはどっと笑い出した。
皆、帰国できた安心感で表情がゆるんでいる。
帰りの遣唐使船は唐より持ち帰った積み荷が多いのは当たり前で船室の壁面は留学生たちが購ったり書写した文物で埋め尽くされ、

特に空海の密教関連の積み荷は船室の壁に縄でくくりつけた上に網で巻いて固定していても嵐で船が揺れる度に、ぎい、ぎい。といやな音を立て、

崩れて落ちかかってくるんじゃないか?
いや、積荷の重さで船が沈むのでは?
と乗員たちを震え上がらせる程の過重積載っぷりだったからである。

殺されそうになった、と雄堅魚が揶揄したのも無理はない。

高階遠成はじめ留学生らは大宝寺で半月ばかり身を休めた後、水と食糧を補給しながら津(港)から津へとゆるゆる船旅を続け、翌月には那ノ津(現在の博多)へと到着し、航海の無事と留学生帰国の報告と感謝のため海上の守護神が祀られている宗像大社に詣でた。

自分たち遣唐使が無事に留学を終えられたのは、出航前のあの夜、イチキ様の強いご加護を授かったからや。

と参詣を終えた空海は近くの寺で床に入りふと、あの宗像の女頭領の力強い眼差しと宝剣で行った九字切りを感謝をこめて思い出しながら深い眠りに入った。

それはまるで、ひらり、と戯れに蝶々が迷い込んで来てひとしきり舞って出ていったようなような幻惑的な秋の夜であった。

胸をくすぐる位のいい香りが鼻腔から流れ込んで、柔らかく温かい感触がまさぐるように両の頬を撫でてくる。

…ああ、この懐かしい感じ。幼い頃の自分を母、玉依たまよりが寝かしつけてくれる夢を見ているのだ。と空海は思いながらその甘い感覚に浸った。

真魚、お帰りなさい。よく無事に帰って来てくれましたね…

「はい母上」
と口にした途端、女の手がびくっ、と強張って自分の顔から離れたのを感じた空海はそこで目を覚まし…

(どうする姉様?真魚さん起きちまったじゃないか)
(ちいっ、かくなる上は…お前たち、真魚さんの両手両足を抑えな!)
(男相手に力づくは無理だってば姉様)
と自分を覗き込んでひとりは空海の上にのしかかり、あと二人は白衣の襟をはだけて僧侶にしては逞しい空海の胸板をまさぐりながら囁き合う、計三人の女の人影を認めたのであった。

なぜ寺の中に女人が!?

と慌てて飛び起きた空海が寝床から這い出て枕元の灯火を人影に近づけると、そこには比丘尼姿の女人たちがちょうど空海の寝床を囲むように座り、
「久しぶりだね、真魚さん」と一斉に帽子を外して白い歯を見せて笑った。

はて、彼女たちの顔には確かに見覚えが…あ。
「ああっ!む、宗像三姉妹!?」

と指さして叫ぶ空海に宗像三姉妹の長女、イチキはしいっ!と唇に指を立ててもう一方の手で空海の口を塞いだ。
「夜中に大声出して騒ぐんじゃないよ」

文句を言いたいのはわしの方や!
なんで宗形三姉妹は女人禁制の寺に忍んで来ているのや?
と空海は思ったが、何しろ寺の中で女人たちに囲まれているこの状況、誰かに見られたらお互いにとって非常にまずい。

ここは落ち着いて、と。イチキの手のひらの中で空海はうなずいてみせ、手を外してもらってから、

(…何故、かような夜更けにわしの所へ?)

と白衣の衿をひし、と重ね合わせて声をひそめて尋ねた。大きな瞳をした三女、タギツがあは!と笑って

(そりゃあ真魚さん、唐で偉いお坊さんに認められたんだろ?だから顔も頭もいい男の子種を貰いに来たのさ)
とあけすけに言うと空海はいっそう身を固くして、

(寝ている間にわしに夜這いに!?まさか奪ってへん?奪ってへんよね!?)

何てことだ。帰国早々に女犯《にょぽん》の破戒をやらかしてしまったらどうすればええんや…!
と、怯えた子犬みたいに震えた。30過ぎた男が真剣に焦っている様を姉妹たちは面白がり、しばらく頬を膨らませて笑いをこらえていたが、
やがて次女のタゴリが

(安心しな、赤ん坊みたいな寝顔で「母上」なんて呼ばれて興覚めしちまったよ…真魚さんはこの世で一番お母上が好きなんだねえ)
とぽんぽん、と空海の肩を叩いて宥めてあげた。空海はそこでやっとはあ~っと吐息を付いて額から脂汗を流しながら脱力してしまった。

うふふふ、ほんもののひじりは可愛いわねえ。
と妹たちが笑い合っている中で「夜襲」の失敗を認めたイチキは夜着を整えてきりっとした宗像の女頭領の顔になり、
(あんたたち、偉いお坊さんになった真魚さんをからかうのはここまでにしようか。実は真魚さん、あんたにこれだけは忠告したいんだ…

あんた、最低でも二年は都に戻っちゃいけないよ)

と何やら不穏なことを言い始めた。

「し、しかし内裏で帝に謁見するまではわしら遣唐使の任は解かれません。従うのは無理」
と抗弁する空海の口を何やら柔らかで温かいものが塞いだ。真夜中なのに目の前が真っ白になり、頭の中で甘やかな二湖の音色が響いた。

重ねていた唇を空海から離してイチキは少女のように悪戯っぽく笑い、

「そうするんじゃなくって、そうなっていくんだよ…このあたしがとが(罪)を付けておいたからね」

と身を翻し、軽やかな足取りで妹たちを連れて部屋から出ていった。

己が唇に指を触れた空海はくらくらする頭でそのまま床に仰向けに倒れて夜が明けるまで天井を見つめ自問し続けた。

…戒明さま。口づけは、罪でしょうか?

大宰府に到着した帰りの遣唐使一行は、まずは現地の長官である太宰帥、藤原縄主だざいのそちふじわらのただぬしに挨拶をし、

遣唐判官以下無事帰還

という報告と帰って来た留学生たちの名を記した文を使者に持たせてを早馬を出した。
そして鴻臚館こうろかんという外国とつくにからの賓客や唐商を接待する外交施設に留まり、そこで唐国より持ち帰った文物の検品を受けながら朝廷から帰京の許しを得るまで滞在するのが帰国した遣唐使の慣例であった。

やれやれ、これで都に帰れば自分たちの旅が終わる。
三年ぶりに我が親、兄弟、妻子に会えるのだ…と若者たちが感慨深げに荷造りをしている中で

「え、雄堅魚おまえ妻子がいたのか?」
と丸三年生活を共にしていて今更ながらに驚いて碁盤から顔を上げる橘逸勢と、

「何ですか、そのなぜ黙っていたんだ?と言いたげな目つきは…今まで聞かれなかったから言わなかっただけですよ~」

とへらへら笑った伴雄堅魚が黒い碁石を碁盤に置いて「ほらほらあと三手先で逸勢さまの負けですよ」と雑談しながら鴻濾館の広間の隅で対局していた。

「家族に別れを告げて都を出た時、息子はまだ生まれて三月みつきでした。帰ったらいきなり三才になっている息子にどんな顔して会えばいいんでしょうか?ねえ」

と、急に真剣な顔つきで同い年の学友に聞かれた逸勢は、
まだ独身の自分に聞かれても…思ったが実家で待ってくれている母や使用人たちの顔を思い浮かべて
「三年間ずっと会いたかったんだろ?素直に喜んで抱きしめてやればいいじゃないか」と答えてやると雄堅魚はがしっ!と逸勢の両手を握り締め、

「それです!そうなんですよ!よくぞ私の本心を言い当てて下さいました!…さすが橘の秀才だなあ」と握手した手を激しく上下に振ってうんうんうなずいた。

伴雄堅魚は当代随一の碁師。と呼ばれてはいるが、
家庭人としては案外普通の男なんだな。

と逸勢が学友の無邪気さを微笑ましく思った時、太宰府に勤める若い官人が息急ききって広場に走り込んできて
「朝廷からの御沙汰が下りましたぞ!つきましては唐国より帰国した皆様がた政庁(太宰府本部)に集まるようにとの大宰帥さまの仰せです」
と広間で荷物をまとめたり、書物を読んだり碁打ちをしたりして暇を潰す若者たちに触れて回った。


「沙門空海、其の方二十年間の唐留学を二年で放棄した咎により太宰府に蟄居、謹慎の身とする」


と大宰帥藤原縄主が読み上げた朝廷からの御沙汰を聞いた第18次遣唐使団帰りの一行は最初は呆気に取られて顔を見合わせ、次に困惑し、やがて怒気を抑えつつも不平の声を上げだした。

二年で引き上げた留学生はここにいる全員なのに、なぜ空海だけが処分されるんだ?

「馬鹿な!唐王朝に書類を提出し、正式に帰国の認可を得たのに…」

と直に唐王朝の役人たちに掛け合って苦労して詔書を得た高階遠成がいきり立つ若者たちを抑えて大宰帥に抗議すると、

太宰帥という九州一帯と近隣諸国との外交と防衛を一任されている要職としての威厳を髭面に漂わせて重々しく言った。

「つまりはこうだ。唐国は唐国の、日の本は日の本ののりがある。空海には今いる場所の則に従ってもらわないと示しがつかないのだ」

朝廷の決定を伝えて留学生たちから非難の眼差しを受ける縄主も辛い立場である。

「解りましたこの咎人空海、謹んでご沙汰を受け容れます」

と自ら頭を垂れてともすれば殺気立ちそうなこの場をとりなした空海に、縄主は心底感謝したのだった…


それから十日近く経ったある日のお昼の事、まだ頭の剃り跡が青々しい若い僧侶が早馬を何頭も乗り継いで太宰府に辿り着いた。

僧侶は馬を下りて門番に名を名乗るよう命じられると、

「我は大安寺の正僧智泉…ここに我が叔父、佐伯真魚こと空海がいると報せを受けて馳せ参じました!」
と中で囚われている筈の叔父に聞こえるようにありったけの大声で叫んだ。

遣唐使帰国の第一報と数日後に下された空海謹慎処分の御沙汰を知った智泉の師、勤操は真っ先に智泉を呼び出し、

「吉報ではあるが面倒なことにもなった…」
と渋い顔つきで報告の文を智泉に渡し、腕組みをして少し考え込んでから、

「智泉、わしが段取りしてやるからとっとと受戒を済ませて太宰府に行け。実の甥なら会わせてくれるやろ」

とすぐに筆を取って朝廷宛に咎人空海に面会の嘆願書の文を出し、

それから僧侶の受戒を許可する役所である僧網所と、儀式を取り仕切る律宗の総本山である唐招提寺に智泉の受戒手続きを申請し、

両方とも許可が下りて智泉が受戒を終えて正僧になるまで三日も掛からなかったのはひとえに唐長安で空海に居室を明け渡して帰国した老僧、

永忠えいちゅうが今は大僧正となって奈良仏教の頂点に立っていて、
持てる権力全てを発揮して智泉を正僧に仕立て
「わしも早く空海が丸ごと持って来た密教を見たい。あの若僧によろしくな!」とひゃっひゃっひゃ、と笑いながら早馬に乗せて送り出してくれたお陰であった。

「ああ、では貴方が空海阿闍梨の甥御どのなのですね!どうぞどうぞ」
と罪人の面会にしては役人の対応がにこやか過ぎるので智泉は面食らってしまった。

空海「阿闍梨あじゃり」とは?

叔父が起居しているという鴻臚館の三間続きの一画に通され、

「叔父上入ります」

と意を決して戸を開いたがそこに人の気配はなく、壁一面に猪、鼠、鶏と干支の動物や宝を乗せた船やよく見ると「ことぶき」という字が切り抜かれた切り絵が貼られていて智泉が開け放した途端風を受けてはためいて下地の朱色が鮮やかに視界に飛び込んだ。

なんと精巧な細工よ…!
ともすれば紙から生まれた動物たちが躍り出すのではないか?

と警戒しつつ次の間を開くとそこには夥しい数の巻物がうず高く積まれていて文机の上の書きかけの書には奇妙な書体の文字が横に流れている…
何と読むのだろう?と覗き込むと

「それは、梵語。古代の天竺の言葉や」
次の間の戸がからり、と開いて白い小さな獣を抱いて現れた僧侶はまさしく3年間待ち続けていたその人だった。

色白だった肌は日に焼け、以前の柔和な顔立ちは頬の肉が削げて引き締まり、強い眼差しを持った男らしい顔つきになってはいたが、

紅く形の良い唇が両端を上げて作り出す陽だまりのような微笑みは出立前と少しもお変わりにならない。

「…なんと読みます?」

「お前が指さしてる文字はサマンタ・バドラ。『普く賢い者』という意味の名を持つ普賢菩薩や…お前、ほんとうに智泉か?」

「はい叔父上」

感極まった智泉はそのまま空海と両手を組み合って破顔一笑し、次に押し倒すような形で叔父に抱き付いて童のように泣きじゃくった。
「…もう…囚われていると聞いて…お辛い目に遭われて…いないかと…気がふれそうな位…ずっと心配で…」

胸に顔を押しつけて泣く甥っ子の頭を撫でて空海は
「わしより背が伸びたな」と言って目を閉じた。家族に直に触れあい、その温もりを感じて初めて空海は、

ああ、やっと帰ってきたんやなあ。

と胸の奥から湧き出て来る温かい思いに任せて帰国後、初めて涙を流した。

大同元年秋(806年10月)、抱き合って泣く二人の僧の傍らで猫と呼ばれる鼠を食べて経典を守ってくれるありがたい獣がねーう、と鳴いて己が顔を洗った。

後記
「うち(日の本)はうち、よそ(唐)はよそ!」

とお母さんみたいな言い方で留学生たちの不平を押さえつける縄主(薬子の夫)









































































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