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嵯峨野の月#144 襲撃

最終章 檀林8

襲撃


五日前、都の五条のとある貴族家の主が地方任官から帰って来た。
彼は任地より沢山の特産物を持ち帰り、明日にはその殆どを朝廷に献上することになっていた。

だとすると、あの家に押し入って奪うのは今夜しかない。

と真夜中、息を潜めてその貴族の邸を狙う賊ども計十五人。

「米、干し肉、干し魚、中には干し鮑なんて俺たちが一生口に出来ない品々が保管されているそうだ」

「俺は布と衣を狙うね、何処に流しても高く売れる」

「へへ、俺は姫君が欲しいなあ…嫁居ないから」

「めいめい欲しいものを得たら口封じに皆殺すぞ」

これから行う悪事への興奮を鎮めるかのように男達は軽口を叩き合い、ひと月前から邸の下人として働かせている仲間が内側から戸を開ける押し込みの合図を待っていた。

やがて邸をぐるりと取り囲む塀の裏戸口が開き、頭目はじめ賊たちが足音も立てずに庭に滑り込んだ時…

「そこまでだ、賊ども」

と既に庭で待っていた赤狩衣に白杖を持つ異形のいでたちをした壮年の武官の、滾る怒りを宿した声が彼らを立ち止まらせた。

既に検非違使に情報が漏れていたのだ!

だが賊たちは

なあに、相手は武官ひとり、と怯む事なく懐の小刀を抜いて相手に突き込もうとした。が、

武官の直刀の抜き打ちの一振りできん!と音を立ててまとめて三人の小刀が弾き飛ばされ、宙を舞ってすとすとと刃先が地面に突き刺さる。

「我が名は賀茂志留辺、何処からでも来るが良い」

よりによって今夜は最悪の相手に出会ってしまった!

と捕縛数最多を誇る志留辺に賊たちは震え上がり、踵を返して逃げようとした手下たちの退路は既に邸の使用人たちと志留辺が雇った九条の住人たちに囲まれ断たれていた。

彼らが構える竹の梯子ごと押し戻された賊たちはさらに棍棒で殴られその場で縄打たれて衛門府に連行された。

「我が家の危機を救って下さって本当に有り難し…遠慮なく受け取って欲しい」

と邸の主は志留辺に充分すぎる褒美を贈り、衛門府への報告を終えて志留辺が九条の家に戻った頃にはもう朝になっていた。

志留辺は昨夜の捕縛を手伝ってくれた九条の住人たちに「今度もよく働いてくれたね」と貰った褒美の半分を分け与えた。それが大きな捕物をする時の志留辺のやり方だった。

平安時代初期の都の治安は最悪であちこちに盗人が横行して押し入り食糧、衣、果ては女人までも担いで奪い、被害に遭った者は泣き寝入りするしかなかった。

この事態を憂慮した嵯峨帝が設立したのが

検非違使けびいし

と呼ばれる日ノ本初の警察組織である。

設立当初は御所周りを護衛するいわゆる皇宮警察の役割だったがやがて市中の警備や賊の取り締まりや裁判業務も担うようになる。

嘉祥元年(848年秋)当時の志留辺は、

看督長かどのおさ兼、火長かちょう

と呼ばれる罪人の捕縛、収監を担当する役職で捕物の時に彼を手伝う九条の男たちは放免ほうめんと呼ばれる元罪人が殆どで刑期を終えた後志留辺の口利きで職を得て更生し、恩を返そうと働いてくれる者たちであった。

お上から与えられた役職といえどもこうした貴族家による私的な依頼の大捕物の時は自腹を切って人を雇うしかなく志留辺の暮らしは相変わらず慎ましいものであり、妻の河鹿が草鞋編みをしてやっと生計を立てているほど。

そんな一家を心配して志留辺の父、騒速と河鹿の父素軽が「孫の顔を見るついでだからな」度々炭や食糧などの物資を援助しに来てくれるのも九条の男たちが「最近は暮らしが立つようになってきたんで」と褒美を遠慮するようになったのも有り難い事だった。

「しかしですねえ、あれだけ強くて人望厚い志留辺の兄ぃがこのまま下っ端役人として終わってしまわれるのか、と思うとなんか歯痒い気もしまして…」

とこぼすのは志留辺が作った九条の住人による自警団をまとめる鹿毛かげという三十半ばの痩躯の男。

彼もかつては病に罹った息子の薬代のために盗みを働き、志留辺によって捕縛されて馬丁の仕事を与えられて更生した男である。

彼の息子は志留辺が薬代を都合してくれたお陰で快癒し、今や同い年の志留辺の息子、伊珂留の遊び相手となり毎日九条の小路こうじを走り回っている。

そのような経緯を持つ鹿毛が定期的に九条と志留辺一家の近況を報告するため訪れるのが桓武帝皇子の葛井親王ふじいしんのう邸。

志留辺の父、賀茂騒速はそこで使用人兼護衛としてして仕えていた。

「でもねえ…『弱い民のために働き続ける』と自分の生き方を決めた倅に意見できる事なんて何もないよ」

と言う騒速だが、

「本気でそう思ってらっしゃるならばすでに高野山の里にお帰りになっている筈。騒速どのもご子息が心配だから都に留まっているんでしょう?」

と間髪入れず鹿毛に本音を衝かれて笑って沈黙する他無かった…


それからひと月後、葛井親王のもとに帝の寵臣で左衛門督を務める藤原長良から七日後に息子基経と共に北野に狩に行くので武に長けた警備の者を揃えて同行して欲しい。

と打診があった。この年十二歳の世間では大人扱いされる年齢になった長良の三男、藤原基経ふじわらのもとつねは男子に恵まれなかった叔父、良房の養子になる事が確定している。

養子に出す前に実の親子水入らずで狩を楽しみたいが基経はいずれ藤原家の頭領になり朝廷を支える身。

念の為警備は厳重にしたい。という父としての心配を汲んだ葛井親王は「極秘の護衛の任務だ、依頼主は藤原の跡継ぎだから気を引き締めよ」と選抜したのが既に活躍名高い志留辺と騒速親子、そして前の修験者の頭の素軽であった。

当日、早朝から北野に狩に出かけた一行は野駆けで遠出するのも狩をするのも初めての幼い基経に革手袋を付けた左手に止まらせた鷹を獲物目掛けて放つ放鷹ほうようの技を教え、初めての獲物である兎が獲れた時には、

「父上!私にも狩りが出来ましたぞ!」

と兎の耳を掴んで父に掲げて見せる基経が興奮で顔を真っ赤にして笑うのを見ると実に少年らしい素直な笑顔だな。

と周りの大人たちも微笑ましく思った。

都に帰れば藤原の御曹司として厳格に教育される日々が始まるこの子の良き思い出になれば、と遠出したのは間違いでは無かった。

ともうじき我が子を手離す父、長良は思った。が、この親子に最大の危機が訪れたのは帰りの途上であった。

この時馬に乗る藤原親子の周りを固めていたのは葛井親王、志留辺、騒速、素軽の四人だが外側にはさらに七人もの従者が居て絶対安全だと思った。が、突然草むらの影から放たれた矢によって三人が撃たれ、さらに鉈や槍を手にした十人近くの男たちの奇襲によって残りの四人も呆気なく殺された。

こいつらは相当な手練れだ!

と直感した素軽は「止まらず、そのまま都に向けて駆けてください!」と藤原親子に言うと直ちに「親王さまと志留辺は身を挺して護衛を。騒速、お前と二人で彼奴等きゃつらに向かうぞ!」

と的確な指示を出して迫る襲撃者たちの中一番近い者に刀も抜かず突進し己が拳で相手の頬に必殺の一撃を喰らわせ、弾みで相手の首が肩の上で一回転して馬上から倒れた。

仲間の凄惨な即死に残りの襲撃者は一瞬怯み、それが仇となって立て続けに三人が素軽の拳によって撲殺された。

後の三人はわざと逃げるふりをして背後を取った騒速が投げた縄によって脚を取られた馬ごと転げ落ち、武器を取って立ち上がる前に後頸部を打たれ気絶させられた。

残り三人が標的である藤原基経に向かって白刃を晒したまま襲い来る。

恐怖で馬上に身を伏せた基経を庇いながら長良が速度を緩めず並走し、

親子を守るために直刀を抜いた葛井親王が特に手練れと思われる男に応戦し、なんとか三撃めで切り伏せたところで残り二人。

「志留辺、頼むぞ!」

と背後から追いついた父、騒速の声で

いざという時これを使って守るべきお方を守れ。の言いつけを思い出した志留辺はいつも両腰に隠しておいた蝦夷の武器、蕨手刀を両手に構えて

「はああぁぁ!!」という掛け声と共に槍を持ちて藤原親子を突き殺さんとする二人の喉笛を…まるで風が流れるような俊敏さと見事な馬捌きで仕留めて退けた。

喉笛から血飛沫が噴き出し、二人同時にどう、と落馬する敵たちを基経は庇ってくれる父の腕越しに見ていたし自分も顔に血を浴びたが、

なんて鮮やかな戦いぶりなんだ…と事の重大さを忘れて蕨手刀を咥えながら馬ごと自分に寄り添う青い目の武官に一瞬にして惹きつけられた…

こうして田村麻呂の孫と修験者の長だった男とアテルイの子孫の四人に守られて将来国政を担う藤原親子は傷一つ負わず都に帰り着いた。


七日後、九条にある屋根の下は半分地べたで半分床付きの二土間の志留辺の家に牛車が止まり、中から降りてきたのは息子の命を救われた藤原長良本人であった。

突然の貴人の来訪に一家揃って畏る志留辺たちに心から感謝を述べ、

「貴方の父の騒速どのが生け捕りにした三人の口から首謀者が割れました。藤原はほうぼうから嫌われているので背景は貴方が知らなくてもいいこと。
この度は我が三男にして藤原の後継、基経の命を守って頂き誠に有り難し。

よって、賀茂の志留辺、貴方を看督長かどのおさから従六位上、検非違使大尉に昇進させるものとする!
なあに、検非違使庁を統括する我の命だから他の武官の家に何も言わせぬよ」

そう言って長良は立ち上がり、ああ、そうそうと従者に置かせた長櫃を指して、

「近日中に朝廷の使者を迎えるための正装が一式揃っているのでこれを着て拝命するように。あなたの正装は見甲斐があるだろうなあ」

と言って軽やかに笑い、長良が去った後でわっ!と家になだれ込んで来たのは近所の住人たち。

「志留辺の兄ぃ、昇進おめでとうございます!」

「馬鹿野郎、もう官人なんだから兄ぃじゃなくて志留辺さまとお呼びしろ!」

と捕物を手伝ってくれた男たちが吠え、

「これで河鹿さんも草鞋編みの内職をしなくて済むねぇ…」
と主婦たちが涙を滲ませる。

九条の住人による志留辺昇進のお祝いはこの日の遅くまで続いた。

今の時代に例えると所轄の刑事を判事にまで一気に出世させた長良の真意は、

「近年、東国に派遣した坂上の武官、源氏の若様がたが不平を持つ民を抑えきれずに困ってらっしゃる。その問題を解決出来るのはやはり武力に長けた上に搾取の仕方も知らない清しい心を持っている言わば、

武人の鑑とも言うべき人材の派遣だ」

と近いうちに志留辺を東国に派遣させて任地の武官の教練に当たらせる本意を葛井親王と騒速にだけ告げた。

そのことを聞いた騒速は
「成程…これで我が倅がこの世に生まれてきた意味が判りました」

とシリン、シリン!と妻を探し出し、

「志留辺の官舎への引っ越しが終わったら天野へ帰るよ」

とこの人生、後顧の憂いが無くなった。

というようなすっきりした顔で告げると、持っているだけで逆賊扱いされる蕨手刀携帯を見て見ぬ振りして下さった貴人の心意気にいたく感謝し、牛車に乗って去って行く長良をいつまでも見送った。

急な昇進と官舎への引っ越し、上司への挨拶回りという慌ただしい十日間が過ぎ、やっと落ち着いた夜、騒速とシリン夫婦と志留辺一家は官舎の清潔な床に親子三代揃って並んで眠った。

寝しなに父が

「覚えてるかいシルベ、お前は小さい頃高野のお山に雷が落ちると半べそをかきながらこの父にしがみ付いたものだよ」と他愛もないお喋りを始め、

「覚えておりますよ…ってなぜいまその話を?」

「強く立派な男に成長したなあ、って事だよ」

と言ったきり寝入ってしまった時、そう鍛えて下さったのは父上、あなたのお陰ですよ。と不意に視界が霞んで涙を浮かべたまま志留辺も眠りについた。

翌朝、騒速とシリン夫妻は息子の志留辺と娘実奈、それぞれの家族と盟友である素軽夫妻、そして息子が世話になった九条の住人たちに見送られて政変以来五年間逗留していた都から本来の住処である天野の里に向けて出立した。

「具体的にお前の行いがこの国の行く末に何を及ぼすか、どうなるかは解らん、がこれからがお前の使命を果たす時だ」

新調した浅葱色の官服に身を包んだ息子に向けて騒速がそう告げると肩をぽん、と叩いて背中を向けて歩き出し決して振り返ることは無かった。

これが、いにしえの荒神に導かれた親子、騒速と志留辺の今生の別れだった。


後記
◯平か?なツッコミ上等の志留辺の大立ち回り回。文字通り風は東へ。




















































































































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