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宿毛へ その2

宿毛に通じる県道から左の山裾の脇道に入り、前方に見える譲葉山などの山並み、右手の小山の連なり、岩松川の流れなどを眺めながら走る。左の山裾には獅子文六の「てんゆわんや」や随筆「田舎の句会」に書かれた、蘇鉄が山道に並ぶ寺、高田八幡などがある。清満の小学校に近づくと桜並木のある川に沿った堤の上の道を走り、小学校を過ぎ、集落の中の道に下ってゆっくり走る。しばらくして、一度県道に出て川沿いに走ると、馬淵あたりから道がつづら折れになって7パーセントくらいの勾配の坂道となる。登るにつれ谷が深くなる。ゆっくり上がって行くと4キロほど登ると、左右に屏風のように山が広がる御槙に着く。上がり切った右手に湿原が山裾まで広がり、そこから緩く下る県道のまわりの平地には美しい田圃が広がり、左手は山裾まで畑や棚田がつくられている。番所があったという家の先から左に入ると昔の県道で宇和島自動車のバス停の跡や郵便局、役場の跡の公民館がある集落である。この村で生まれ、宇和島中学から一高、東京帝国大学に進み、倉敷紡績に電気技師として入り、大原孫三郎の篤い信頼のもと、倉敷中央病院の建設工事の統括と理事長、大原美術館の初代館長を長く務めた武内潔真の生家は造り酒屋で、この山間の集落にあった。今は太陽光パネルの発電所になっている。また倉敷の大原家のホームドクターのような存在で、倉敷の社会衛生や文化活動に大きな役割を担った三橋玉見は、明治初期に無医の僻村の医療に尽した父の漢方医三橋杏庵が診療所を武内の生家の近くに開いたため、幼少年期を御槙で武内と共に過ごし、それぞれの進路を交錯させ、倉敷で合流して後は、生涯、肉親以上とも言える交際を続けた。まさに、武内の兄のような存在であり続けたのである。なぜこのようなことを書くかというと、この岩松から宿毛への道には、岩渕に藤岡蔵六という芥川龍之介の一高東大の親友である新カント学派の哲学者が生まれるなど、今の宇和島市ではたいせつに記憶されているとは言えない人々を輩出していることを覚えておきたいからである。

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閑話休題。今この旧県道の中のバス停跡に大正時代くらいの二階建ての商店の跡に「福田百貨店」という雑貨屋と喫茶店が開かれている。営業しているのは移住してきた黒田さんというご夫婦だ。かわいいお子さんがこの地で3人生まれ、元気に育っている。公民館の先から県道に出ると道は下り始め、松 田川は出井のあたりからすぐ道の側に美しい流れを見せてくれる。(つづく)

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