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罹災日録

 子供が小学生のころ帰郷した。既に父母はこの世になかった。大正初めに建った古びた生家の水まわりを新しくし、一階の北側の14畳の部屋を本箱と箪笥で仕切り、納戸をつくった。 子供たちは小学生から高校まで自分の部屋もない、この家で暮らした。今は都会で働いている。私は処々居を移して帰郷したが、それぞれ暮らした年を足して見ると、伊予吉田に今迄の人生でいちばん長く住んだことになった。

帰郷後を振り返ってみる。2001年に芸予地震が起き、吉田は震度5の強震にみまわれた。地震発生時は、小学校で子供たちとソフトボールをしていた。校庭の背後の犬尾城山がドーンと鳴って、グランドの表面がざわざわと揺れた。しかし、親たちも子供たちも、さほど気にかけずに、ゲームを続けていた。すると、親たちの携帯電話が次々と鳴りはじめ、たいへんだ、様子を見に家に帰ろうということになった。春休みの前の土曜日の午後で、家に帰ってみると娘が二階で泣いていた。柴犬のシロは落ちた瓦の側でしっぽを振っており、猫のモモは床下に隠れて出てこなかった。母屋の屋根の棟瓦が2ヶ所ほど飛び、そこそこの瓦が割れて落ちていた。中は二階の土壁が少しはげ落ちたり、トイレの脇に大きなひびが入っていたりした。しかし、すぐに倒壊するおそれはなさそうに感じた。食器や花瓶など、割れたり壊れたりしたものも見えなかった。

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翌日からの春休みに、地震当日の夜行バスで大阪に行き、翌朝、関西空港からフィリッピンのセブ島に出かける予定だった。格安ツアーで支払いも済み、東京の友人の家族とマニラで落ち合う約束で、今さら中止にもできない。とりあえず、明るいうちに、近所の大工さんを呼び、瓦が飛んだ屋根にブルーシートをかけてもらった。 旅立ちの頃には、しとしとと雨が降り出したが、大洲の友人に犬と猫を預け、「帰ったら家はないよ」という笑い声を後に、構わずでかけた。一週間後にそれなりに楽しんで無事に帰宅したが、家はそのままに建っていた。それが最初の罹災である。その時に、母屋の瓦を全部替え、特にひどい壁のひび割れは塗り直してもらった。細かいひびなどは、元々築百年をいいことに、そのままにした。その後は、小さい地震や少し離れたところでの火事、台風も来たが、庭の木が倒れたり、雨が少し漏ったりしたくらいで無事に過ごした。

やがて子供たちが学校で県外に出て、就職し、猫のモモと柴犬のシロがともに19歳で永眠した後は、水害の前年に生後3ヶ月でうちに来た柴犬のクロと私たち夫婦だけの暮らしになった。

そして、平成30年の7月8日が来た。西日本豪雨災害である。吉田では土砂災害で亡くなる方もあり、陣屋町の橋上が浸水した。幸い干潮であったにもかかわらず、宇和島市が管理を委託している業者が御殿内ポンプ場の前の水路に建設廃材を不法投棄していたため、ポンプ場が一気に水没して多くの浸水被害が出た。わが家も昭和19年以来の床上浸水で、一階が全滅、台所、茶の間、電気製品、納戸の家内の箪笥すべてと書斎の本箱、一段目と床に置いていた書籍がすべて、亡母の遺品の大正時代のピアノ、多くのSPレコード、新しいピアノも浸かった。ただ、ただ家族にも犬にも怪我はなかった。本来は水没してもおかしくない橋下の三丁三町、埋め立で四百年前につくられた格子状の町は、幸い干潮のために床下浸水にとどまった所が多かった。玉津地区や立間の奥ライダに白井谷など、蜜柑を栽培している急傾斜の園地には大きな被害が出た。危険を自ら指摘していながら、現実的な対策を講じていなかった浄水場も壊滅し、水道も止った。飲み水の復旧には数ヶ月かかり、何軒かの親しまれた商店、魚屋が店を閉じて転出した。行政の形骸化、無責任な管理については言うも愚かなことで、まさに命あってのものだねとしかいうほかない。わが家は自転車仲間の八幡浜の防災士の資格を持つ蜜柑農家の友人が駆けつけてくれ、タンクに積んだ水を放水して泥を洗い落としてくれた。松山から危ないからと断ったのに親子で駆けつけてくれた旧知の大工さんは井戸水や、池の泥水で流れ込んだ土砂を洗い出してくれ、床板を丁寧にはがしてれた。多くの友人たちのおかげで、築百年の家を住めるようになったことはほんとうにありがたく思う。被害はそれぞれで、うちは今暮らせているので幸いと思っている。しかし過疎高齢化した地域の課題に向きあっているはずの宇和島市役所の防災対策がここまで形骸化していることには落胆もし、驚いた。これだけの被害が地域に出た現在も宇和島市役所の行政の形骸化はイベントの実施と復興予算のばらまきと補助金だよりのみ。被災後2年間、行政の管理者と何度か話をしたが、無意味だった。天災といってすますのが無難であることが身にしみている。これが2度目の罹災だ。

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そして、昨年一月の風害。お向かいの宇和島市立吉田愛児園の屋根が割れて飛んできた。うちの門扉と、茶の間の屋根もおおきくずれた。庭は水害の後、泥を出し、松とイブキを減らし、折れそうな木は剪定してもらっていたため無事にすんだ。結局、門扉も屋根も新しくした。これが3度目の罹災である。

温暖化とグローバリゼーションの進展に地域の行政はどっぷりつかり、消費社会の手先になって、イベントと補助金行政に走ることしかできない。関わりにならぬことが精神衛生にはよい。コロナについは三密が発生しにくい地域だから、自分でマスクや消毒、外出を控えておけばある程度は安心できる。

さて、次はいつ来るか。今年大雪が二度降った。水害の年も同じだった。ただただ地震や異常な風水害にお手柔らかにと願うばかりである。

今、荷風の「罹災日録」を読んでいる。戦争が続く中で町からものがなくなり、賑わいが消え、やかましく下品な宣伝ばかりが大きな音を立てる。戦争と軍人が続ける、図々しく、傲慢で恥知らずな政治を憎悪する荷風。今の宇和島市役所はソフトな外貌で、仲間内の田舎芝居に終始しているが、市民を危険にさらしていることは軍人たちの政治とかわらない。国民の多くが死地に追いやられ空襲で多くの人が殺されているときに、自分たちだけが安穏として過ごし、「立派で正しいこと」を国民にがなり立て国を滅ぼした彼らを矮小化しただけで、粗末で野蛮な構造は変わらない。ドレフュース事件の時に、ゾラはうそつきで恥知らずの役人や政治家たちに「まっとうなやつらはなんて悪党なのだ」と言っているが、悪党ならまだいいという気がしてくるくらい今のこの国はひどい気がする。

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