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随想 #2

庭の譲葉の木の脇に生えたクチナシに白い花が咲いた。この二三日は梅雨の晴れ間で梅干を漬けたり、庭の草をかったりした。梅干しは庭の梅の木から取ったものを約1キロ、梅干しの漬け方を教わっている八百屋さんで分けてもらった小梅を2キロ、塩漬けにした。石の重しを置き四五日置くと水が上がってくる。紫蘇の葉を洗って干し、千切って。揉んだものを加えると少しずつ色が濃くなってくる。後一月もすると梅干しの色になるという。窓の前の譲葉の洞に今朝はシジュウカラが来た。ここのところ姿を見せているが、洞で子育てをしているようだ。

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 家居が続き、あいかわらず、水害で乱雑に詰め込んだ本の片づけをしているが、押し入れから筑摩の昭和29年刊の一葉全集の3巻と4巻が出てきた。日記の巻で、総ルビが振ってあり、校訂は和田芳恵である。同じ場所に和田芳恵全集の端本の第4巻一葉研究と、講談社文芸文庫版「一葉の日記」、森まゆみ著「かしこ一葉」も見つけた。文芸文庫の「一葉の日記」に収められている和田芳恵の年譜を初めて読んだ。和田は、明治39年北海道の長万部で生まれ、同胞は8人、父が出奔したため、弟と新聞配達で家計を支えたが生家が破産、その苦しい時期にスペイン風邪、腹膜炎などを病んでいる。一家は札幌に出て暮らしをつないだが、北海中学を受験資格を取って退学。育英資金と家庭教師で学資を稼ぎ中央大学を卒業。25歳の時に父の縁者の朝日新聞学芸部長石川六郎のつてで新潮社に入社した。34歳の頃、三田文学に「樋口一葉」の連載を開始。少年から社会に出るまでの和田芳恵に文学が日々の生きる力を与えてくれたのだと思う。日清戦争から日露戦争にかけて日本が富国強兵の近代化で西欧の国々に目障りになりはじめた時期である。食べることもままならならいのになぜ和田は文学に向ったのかと目を瞠る思いがした。

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話は逸れる。1920年に初めて大学で「ロシア文学」を修めることができる早稲田の露文科がつくられたが、その一期生4人の生涯を研究している若い研究者のことを思い出した。彼女は西日本豪雨災害の後、僻遠の伊予吉田のわが家を訪ねてくれたのだが、それは平岡雅英という露文科一期生の一人が丸亀の近くの山村に生まれてから早稲田の露文科に入学するまでを調べる旅の帰りのことだった。平岡雅英の一般に知られた業績は「維新前後の日本とロシア」という幕末あたりの日露交渉史を記した本である。先駆的な、というか類書のない仕事で、中村光夫の編集担当で1944年に筑摩書房から「日露交渉史話」という題にかえて再刊されている。平岡の略歴はほとんど知られておらず、彼女は平岡が四十七歳で急逝した1943年に刊行された「ソ聯の最新科学」(天然社)という本にたどりつき、そこに平岡最後の勤務先の東亜研究所統計班の理事が書いた墓碑の「碑銘」が巻末にあるのを読み、平岡の二男や、生地を訪ね史料を調査したのであった。彼女は大学の紀要論文「平岡雅英の早稲田大学高等予科入学までをたどる」に、坪内逍遥が゜早稲田文学」の創刊にあたり「和漢洋3文学の調和」をかかげ、早稲田大学において外国文学を専門的に学び、発展させることのできる人材を育て、日本文学の成長と充実を果たすという長期的、壮大な目的をもった文学教育をはじめたことに注目し、そして、平岡が、なぜ早稲田の露文科を選んだのかを考える前提として、平岡の早稲田大学にたどり着くまでの経歴を丹念に調べたのである。彼女の論文に目を通すと、平岡は係累が死に絶え、13歳で戸主になり、その2年後には母も死に、母の兄弟が後見人となって観音寺の小学校に通うことになる。平岡は琴平尋常小学校を卒業し、高等小学校に進んだ。明治41年からは、金毘羅宮の職員になって働き12歳から18歳まで勤めた。最初の月額の俸給が1円25銭。当時の香川県の下男の1ヶ月の俸給2円50銭の記録があり、下男の半額ほどの俸給である。当時、米1石が13円50銭で、平岡は米代と養家に治める金をおさめれば手元には小遣いがほとんど残らなかっただろうと彼女は推測している。生活費と学資を得るために、金比羅さんの850段の石段を毎日通った平岡は、退職時には俸給月額8円50銭となり、勤務の誠実さにたいして、特別に14円87銭が加算支給され総額23円37銭が払われたそうだ。平岡は高等小学校から中学に進学せず、香川県出身の山下谷次という人が小卒者に自活の道を与える目的で東京に創設した私立東京商工学校に進む。金毘羅宮の縁で紹介されての進学だという。平岡はその学校を優秀な成績で1916年(19歳)に卒業後、その学校の職員として働き始める。1922年からは教員としても働いた。卒業後その学校で1年半働いて貯めた金を元手にして平岡は1918年に早稲田の高等予科に入学し、入学後も、商工学校で教壇に立ちながら高等予科を1920年に卒業し、露文科に進学した。そして、露文科に入ってからも同じ暮らを続けていたという。東京商工学校を卒業すると平岡のような成績優秀者にはしっかりした就職先を紹介してくれるから、平岡がそのまま紹介されたであろう会社に入れば豊ではなくとも安定した収入の道を得ることは出来た。ところが、平岡は敢えて他の同級生とは全く異なるロシア文学という全く異質な道を選んでいる。頼る係累も、帰る場所もない小学校卒で苦学してきたのにである。なぜか、それを問うのが彼女の研究である。私は和田芳恵の少年時代から一葉への道を知り、すぐに彼女の書いた平岡のことを思い出し、時代閉塞の現状を書いた啄木のことを思わぬでもなかった。押し入れに頭を突っ込んで本を積み直しながら文学が生きていた時代を思い少し胸が熱くなった。

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