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第6話 エディとレオ

「エディ、エディ」

どこからか自分を呼ぶ声が聞こえる。

あれは学生たちだろうか?

いや違う、子供の声ではない。それに彼らはわたしのことをエディとは言わない。
私をエディと呼んでいたのは彼だ。

彼の名はレオナルド・ヤマグチ。ブラジル生まれの日系五世。彼が言うには実のところ五世か六世かはよくわからないと言っていたっけ。

 私は目を閉じている、その声を探す。声は、まるで遠い未来から聞こえてきたかのように、かすかだ。それがどこから来ているのかはわからない。しかし、その声が彼、レオからのものであることは間違いない。

「エディ、エディ、ここにいるよ」

 声は、心地よく、そしてほんの少し寂しげに響く。彼の声はいつも私を落ち着かせてくれる。わたしは彼の声を追いかけるように、深呼吸をして、心を落ち着ける。

 私は目を開いた。だがなにも変わらない。何も見えない。目を開いたつもりだったのだが、周りの風景は変わらなかった。そこは真っ白な空間で、明るくなにもない場所だった。

 ここはどこなのだろうか?

 「エディ」また呼ぶ声がする。

 レオのことを思い浮かべる。彼と初めて会ったときのことを。

  

 2031年6月、SIDニューラリンク社が生体侵襲型BMIのSIDユーザーの第一期ユーザー登録を開始。接続を希望する人数は3000万とも5000万とも言われた。しかし、物理的な制限もあり、1年目の募集定員は50万人に制限されていた。2年後、アメリカ、カナダ、フランス、ドイツ、イタリア、イギリス、日本、韓国、スウェーデン、オーストラリア、シンガポール、ノルウェー、ニュージーランド、アイルランド、それぞれの国で合計300万人を超える人間の頭脳が直接ネットに接続された。

 いわゆる第一期プラグドとか初期プラグドとよばれる人たちが登場したのがこの時期だった。

 わたしは、SIDにはそれほどの関心はなかったし、何よりも抽選しても無駄だろうなという気持ちも強かったので、申込みをすることすらしていなかった。

 実際のところは「頭脳に直接アクセスするインプラントを施す」というその先進性からなのか想定されていたよりも少ない申込みしかなかったようだ。また初期費用に39000ドル、月額料金が680ドルという設定価格もあり3ヶ月目までの利用者数は30万人に届かなかったと言われていた。

 それは、その金額の高さ、高級自動車帰るくらいの価格設定もあったし、新しいテクノロジーに対する懸念が人々の心をにあったからだったのかもしれない。直接脳にインターフェイスを設けるということは、人間の本質に触れることであり、そのリスクや不確実性は高かった。高額な代金を負担できる人は、同時に保守的でありリスクに対して厳格な判断基準をもっていたのだろう。

 ただ、SIDニューラリンク社はそのリスクを織り込み済みだった。彼らは常に未知への挑戦を続け、その革新性は全世界に衝撃を与えた。そして、最初のユーザーたちは、革新的なテクノロジーを自らの体に実装することで、一種のアーリーアダプターとなった。

 半年が過ぎ、その年の暮に第一期プラグド達の影響が広がっていった。

 最初にその影響が顕著になったのはエンターテイメント業界だった。映画、音楽、ビデオゲームなどの分野でクリエイターたちは、この新しいテクノロジーを利用して前例のない作品を生み出していった。直接脳に接続することで、視覚、聴覚、さらには感情までを操作する新しい形式の芸術が誕生した。ただそれを芸術と言っていいのかどうかは、まだよくわからない。

 芸術といわれるものが、表現者が自己の感情、考え、視点を具現化し、それを通じて受け手に深い印象を与える手段なのだとしたら、それはどういう形をとってもかまわないのだろう。そして、その真髄は、単なる情報の伝達以上にあるのかもしれない。

 言葉が届かない場所へ感情やメッセージを運んだり、私たちの内側に響く「共感」の声を生み出す。これこそが芸術の本質なはずだ。

 今日では、芸術作品の感動は、SNSを通じて瞬時に広がっている。一部の人々が作品に触れ、その感動をシェアすることで、それは世界中の人々に届くようになった。この共有された感動が、新たな創造の源泉となり、芸術の無限の連鎖を生むと期待されている。

 芸術は視覚、聴覚、触覚といった感覚を通じて、人間の内面世界と直接的につながる。それは絵画であれ、音楽であれ、舞台であれ、映画であれ、あるいはその他の形であれ、その本質は常に人間の魂に訴えることにある。そしてそのメッセージは、作り手が何を伝えようとしたかではなく、受け手がどのように受け取ったかによって決まるのだ。だからこそ、一つの芸術作品からは、無数の解釈や感動が生まれる。まさに、芸術が人間の生活において非常に重要な役割を果たしている理由がそこにある。

 芸術は、私たちが自分自身を理解し、他人とつながり、そして世界と関わる方法を提供する。私たちが感じる喜び、悲しみ、怒り、恐怖といった全ての感情を表現するのに、芸術は絶えず私たちの隣にある。それは一種の魔法であり、同時に一種の言語でもあるのだろう。

そして、その全てがSNSというプラットフォームを通じて、一瞬で世界中の人々に共有される。芸術は、その無尽蔵な表現力と共感力によって、個々の感動を集積し、人々を一つにつなげる。その結果、芸術は私たちが共有する感情の海を深く、広く、そして豊かにする。

 そう、深く、広く、そして豊かにするはずだった。

 芸術は、それが発生する文化や時代を超えて通じ、私たち一人ひとりの体験や感情を普遍的なものに昇華させるはずだった。その力はまさに無限で、人々が経験する全ての人間性を包み込むことができるはずだった。

 けれども実際はどうだろう。SNSの存在により、私たちは芸術作品に対する直接的なフィードバックや反応を即座に共有することが可能になったが、それはどこか表層的で薄っぺらい共感によって、かろうじて結びついているだけのようになってしまった。

 作品に感じた感動、思考、そしてインスピレーションが、一瞬で世界中に広がる。けれどもこれは、私たち一人ひとりが芸術とその感動を広める担い手であり、同時に新たな芸術の創造者でもあることを示しているといえるのだろうか。

 さまざまな要素が組み合わさることで、芸術は深遠な存在となり、人間の心と魂の奥底にまで触れる力を持つのではないかと思えた。それこそが芸術が持つ素晴らしさであり、またそれが私たちの生活に対して持つ強大な影響力の源になるはずだった。

 いまのところ、芸術は単に感動を共有するだけのものになってしまっている。それは感動を通じて私たちに何かを教え、新たな視点を提供し、時には社会に対する問題提起を行うこともる。

 でもただそれだけなのだ。芸術は、ときに私たちの心を揺さぶり、思考を刺激し、世界を見る新たなレンズを提供する。そしてそれがSNSを通じて瞬時に広がることで、芸術はより多くの人々に影響を与え、世界をより良いものにするための力を持つはずだが、だれもが発信することで、アートが増えすぎてインフレを起こしているようにも思えたし、それはさらに加速されるように感じられた。

 一方、ビジネスの世界では、この新しいテクノロジーはすぐには普及しなかった。会議の時間を大幅に削減したり、従業員間のコミュニケーションを円滑にしたりすることができるようになることが期待されたが、その反面、情報漏洩のリスクや、従業員のプライバシー侵害といった問題が生じる可能性があったため、多くの企業は慎重な態度を取っていた。

 また、従業員たち自身も新しい技術への不安や抵抗感を抱く者が多く、一部の前向きな企業が試験的に導入を進める中、大半の企業は観望姿勢を崩さなかったのだ。

 さらに教育業界に影響が現れるのはまだ先のことだった。学習内容を直接脳に送り込むことで、情報の習得が飛躍的に効率化されると期待されたものの、現場からの猛烈な反対があった。
 いわく「そんなもので得られた知識は役に立たない」「教育とはそういうものではない」というような意見によって導入にたいしては後ろ向きであり、特に公教育の場では一向に取り入れられることはなかった。

 実際は、学習の過程で生じる困難や疑問をリアルタイムで解決できるようになったため、SIDを利用することで個々の学習能力も大幅に向上していくのだが。個人個人の脳の状態に合わせて最適な学習の進め方ができるのは、本当に一部の人間達に限られていた。

 ニューラリンク技術は一部の特定分野で革命をもたらした。その一つが医療分野だ。直接脳と繋がるこの技術は、神経科学者たちに前例のない研究機会を提供し、新たな治療法の開発につながった。また、障害者支援の分野でも大きな進歩が見られ、身体的制約を持つ人々がより自由に行動できるようになっていった。

 しかし、この革新的な技術が広く社会に受け入れられるためには、まだ克服すべき課題が多く残っていたように思う。その中でも最も重要なのが、技術の安全性とプライバシーに関する問題だった。人々の脳に直接アクセスするという性質上、新しい形のサイバー犯罪が出現し、それに対応するための新たな法律や規制が求められるようになった。プライバシーや情報セキュリティに関する新たな問題も浮上した。直接脳に接続する技術がもたらす新たなリスクについて、社会全体がどのように対応すべきかという議論を始めるためには人類はまだ稚すぎたのかもしれない。

 そんなわけで、私は結局SIDを装着することはなかった。その理由は様々だ。初めは単純に怖かったからだ。脳に何かを埋め込むという発想自体が、完全に未知の領域だった。その上、 私は新技術に対する懐疑心が強かった。新しいものに対しては慎重で、必ずリスクとリターンを比較するタイプだった。そして常にリスクを重く評価するタイプでもあった。

 そして第一に、そんなお金を持っていなかった。

 レオとの出会いは2033年の11月ごろだった。サンフランシスコのミッション地区にあるサンセット・ブリューワリーという小さなカフェでのことだった。
 彼はそのカフェで働きながら彫刻家としての収入を得ていた。ある日わたしはカフェに置かれていたチラシを見つけた。チラシにはこう書いていた。

 「BMIとインスピレーション」というタイトルそして「頭脳が直接作り出すアートの世界」というありふれた平凡でなんのひねりもないコピー文。このイベントは、BMIであるSIDを導入したアーティストが23人集められたもので、案内によると「新進気鋭の芸術家(アーティスト)たちによる、新しいアートの夜明け)ということでだった。

 その中のひとりがレオナルドだった。

 15世紀から16世紀にかけて活躍したイタリアの芸術家、科学者と同じ名前を持つ彼は、一人年配の彼はその中でも一番目立っていた。

 他のアーティストはみな20代か、実際の年齢は30代前半なのだが、レオだけが50代だったのだ。最初彼を見た時私はアーティストの関係者(親であるとか、出資者)なのだと思っていた。私が最初に声をかけたキッカケも、自分に年齢が近そうな、ただそれだけの理由でアートについてのあれこれを話しかけたのだった。

 よく話を聞くと彼は脳に繋いだイメージを直接3Dプリンタに出力するとか、立体的な映像スカルプチャーの作成をしていた、前衛的でどんなものなのか、そういう世界にうとかった自分にはよくわからなかったけれども、市場的にはそこそこの評価を得ていたようだ。

 私が、その年令でまったく新しいことにチャレンジしているレオに心を引かれるのに、そう時間はかからなかった。

 自分はこのときには64歳になっていていろいろな新しいことに対して興味が薄れていくことを感じていた。一昔前、自分が子供のころの64歳という年齢は、かなりの高齢でおじいちゃんとか、そういう年齢だったが、この頃の60代は老人として扱われることはなかったし世の中では公務員の定年は実質78歳まで延長されていたのだけれど、肉体的に衰えるより先に考え方や価値観が古くなってしまうのは仕方がないことだったのかもしれない。

 2030年代になって「定年」という言葉は使われなくなっていた。「年齢によって雇用契約を終了する」ということが法律によって禁じられていたからだ。企業はいわゆる雇用契約条項に「定年」という言葉を使用することはできなくなっていた。「年齢差別禁止事項」によって人は「望む限り何歳までも」務めることができたし雇用側は「本人が望む限り」年齢を理由で雇用契約を打ち切ることはできなくなっていた。とはいえ考え方や指向性はどうしても古い時代のものを引き継いでしまうので年をとると働くことから遠ざかってしまうようになっていた。

 このごろでは年金制度もさらなる高齢化に対応するためその支給時期は毎年のように延長された。今や満額の年金がもらえるようになるのは85歳を過ぎてからだ。

 誰もが90歳近くまで労働し、幾ばくかの賃金を稼ぐことが当たり前の世の中になっていた。

 だからこそ54歳のレオナルドは働き盛りというか、一番油ののった年齢だったとも言えなくもない。長寿であることは一般的な男子にとっては、いろいろと有利な点が多かったように思う。

 一方、人々の平均寿命が伸びたとはいえ、女性の出産年齢には変化がなかった。女性の卵子は出生時にすべて作られていて、一生のうちで新たに卵子を生成する能力も持たないからだ。出生時におよそ100万あった卵胞は、その人生の中で現象していき思春期には半分くらいに減ってしまう。
 女性の卵子の数は年齢と共に減少し、品質も下がっていく。特に35歳以降に顕著となり、女性が自然に妊娠する能力も減少する。これは医療の力ではどうにもならなかった。平均的には、45歳から55歳の間に閉経(最後の月経)が起こり、それ以降は卵子は排卵されなくなる、その現実は変わることはなかった。

 もちろん医療技術の進歩により、凍結保存した卵子を使って高齢でも妊娠することが可能とはなっていたが、これは特に遅くまで子どもを望む女性や、病気等で早くに卵子の機能を失う可能性がある女性にとって必要とされた選択肢となっていた。ただ、卵子の年齢が高いと、染色体異常のリスクが高まるというデータもあり、メインストリームとなることはなかった。

 一方、健康な男性は毎日数百万もの新しい精子を生成し続けることができたが、男性も年齢とともに精子の質が下がるという現実があった。40歳以上の男性では、精子のDNAに異常が生じやすくなるとされ(精子を作るための細胞分裂が何度も繰り返されることでエラーが生じやすくなるため)高齢の男性が子どもをもうけると、自閉症や統合失調症などの精神的疾患、あるいはダウン症などの遺伝的疾患のリスクが高まる可能性があった。しかし、これらのリスクは全ての高齢の男性に当てはまるわけではなく、個々の健康状態や生活習慣などによる影響も大きいとされていた。いずれにせよ、人間の寿命は伸びたが、女性であれ男性であれ「子供をさずかる」には年齢的な壁が相変わらず高くそびえていた。

 世界の大部分、特に先進国と呼ばれる国々では超高齢化社会がますます進み少子化もそれに合わせて進行していった。

 2060年にはアメリカの人口の25%が65歳以上になると言われていた。日本に比べれば全然マシ(なんでも半数以上が65歳という話だ)だが人口の4分の1が高齢者になると社会保障や年金制度に歪みが出てくるのは致し方なかった。

 2030年代も後半になりベーシックインカムもいくつかの州では採用されていた。うまくいっている州もあるし、あまりうまく行っていない州もある。今の世の中は本当に働かなくても食べていけるのだ。食べてはいける。働かなくても最低限の生活をしていくだけの場所と食べ物は無料で手に入れることができた。ただ、無料で食事ができるからといって、貧困がなくなるかといえばそうは思えなかった。  

 Supplemental Nutrition Assistance Program (SNAP): SNAP(以前のFood Stamps Program)(連邦政府が運営するプログラムで、低所得者に対して食料購入のための援助を提供する。資格があれば、一定の金額を電子的なベネフィットカードに月々チャージされ、対象となる食品の購入に利用できる)。National School Lunch Program (NSLP): (低所得の学生に対して学校での昼食を無料あるいは割引価格で提供。朝食を提供するSchool Breakfast Programもある)。Women, Infants, and Children (WIC):(妊娠中や産後の女性、乳幼児に対して栄養補助食品や栄養教育、そして保健サービスへの参照を提供するプログラム)そしてFood Banks:(地域社会の支援によって運営される食糧銀行)など税金や寄付による食料品を無料または非常に低価格で提供し、必要な人々に食料を提供するシステムはそれなりに有効に機能していた。

 道徳的危険を唱える政治家やジャーナリズムも少なくはなかった。

 この時代背景が、アーティストや芸術家にとっては幸せな時期だったのか、それとも不幸せな時期だったのかはわからない。ただ、多くの芸術家たちは良い作品を作り出すことと、作品を売ることの違いについてうまく説明することができなかった。自動化された表現はそれはアートと呼んでいい品物なのだろうか。SIDの力を借りた表現は「芸術」に値するものなのだろうか?それについては意見が別れていた。

 レオがSIDの手術を受けたのは2年前の第一期募集時のことだった。

 そのころには彼は、そこそこの評価を受けていたし、個人名での個展も何度か開催するようになっていた。つまりは作品を売って生活することができていた。

 彼は言っていた。
「芸術の世界で、なにか新しいことをしてみたいというよりは、単に興味があったからだよ」と。
 SIDについては、単純に人間の可能性についてもっと違うアプローチの仕方があるのではないか、そんな考えがあって。その手段としてSIDを利用するのは彼にとって自然なことだったらしい。

 新しいインクや表現方法によって芸術には大きな幅が生まれてきた。それと同じようにSIDは新しい表現を確かに生み出していると考えていたのかもしれない。

 そのことが多少の解釈の誇張に過ぎなかったとしても。レオはSIDがアートに与える影響を肯定的に捉えていた。

 それぞれのSIDユーザーにはファミリア(ファミリ)と呼ばれるAIアシスタントが設定されていた。ファミリアは好きな姿に設定することができた、老若男女を問わず、動物や無生物、モノリスのような無機質なキャラクターを設定する人もすくなからずいた。
 レオは彼のファミリアのことをアンドレアと呼んでいた。マエストロ・アンドレア。彼と同じ名を持つルネサンス期の芸術家レオナルド・ダ・ビンチの師匠であるアンドレア・デル・ヴェロッキオと同じ名前をつけて呼んでいた。

 彼はSIDの視界のなかで「アンドレア」とか「マエストロ・アンドレア」とファミリアに話しかけていた。アンプラグドの自分にはファミリアを認識することはできなかったが、何度か、ビジョンリンクグラス(VLGS)(SID利用者の視覚体験を他の人と共有するための眼鏡型デバイス)を利用してアンドレアと対峙したり会話をかわしたことがある。
 VLGsをかける。それはただのメガネとしての役割を超え、視界がデジタルな異次元に広がり、人間の感覚を手にとるような未知の体験が訪れる。(ただ、レオが言うには、SIDによる視界体験に比べればぜんぜん大したこともないという話だった。)

 VLGSをとお押して見える現実世界に重ねられる彼の姿は、AR画像というよりは実像として現れる感じに近い。ヴェロッキオという名の古代の画家、私の眼前に広がるのは、彼の描いた生き生きとした情景によって再構成された世界だった。

 彼の描いたイエス・キリストの肖像が、目の前で息を吹き返す。その慈悲深い瞳は、静かにそして深く私を見つめている。彼の顔は、その表情から滲み出る人間の優しさと神性を体現している。そこにある絵が圧倒的な現実感をもって存在している実感を持たらす。

 そしてその周りに広がる風景、それはまるで古代イタリアの風景が現れているかのようだ。緑豊かな丘、遠くに見える街並み、彼の時代の人々の生活が感じられる。

 メガネ越しに見るヴェロッキオの絵画とヴェロッキオ自身の存在感は、まるで時間を超えて彼の世界に飛び込んだかのような感覚世界に没入するような体験だった。この驚異的なテクノロジーによって、芸術への接触が一段と深まり、認識と感動が新たな次元へと引き上げられていくのだということはなんとなく理解できそうな気がした。
 例えばヴェロッキオ以外の芸術家をファミリアとして設定すれば、そのファミリアの世界観や視界感覚を共有することができるのだろうということがわかる。パブロ・ピカソやセザンヌのファミリアが見たであろう視界感覚を共有できるのだろう。
 「そうは言っても、それは所詮コピーや、蓄積されたデータによる擬似的な経験ではないのか?」という異議を唱える人も多かったし、その理屈もわかななくはなかった。
 だが、SIDを装着したアーティストの多くはSIDが見せる視界体験、そしてファミリアとのコミュニケーションや対話体験、実在しているようにしか思えないヴェロッキオやピカソの姿。このSIDによる認識の変革は「時空を超える扉」だと誰しもが形容した。それは過去と未来、そして現在を繋ぎ、私たちが体験できる世界を無限に広げるように感じられる。SIDによる視覚体験はそんなすばらしいという一言で言い表せるものではないらしい。ただ、アンプラグドの自分にはまったく想像の付かない世界を見ている、体験しているのだろうということはVLDSを利用して彼らの視界を少し体験しただけでもわかる気がしていた。

 レオは言う

「アンドレアはすごいんだ。僕にインスピレーションだけでなく勇気のようなものを与えてくれる。」

 SID手術を受けてから2年、つまり、2年をアンドレアと一緒に過ごしたという体験はレオナルドの身体感覚にも大きな影響を与えていた。

 2032年9月26日、この日ニューロリンク社はSIDの利用者数が2000万人を超えたと発表した。そしてその数値は伸び続け2035年には10億人を超えると予想していた。

 レオがSIDの施術を受けたのはそれよりも少し早い2032年6月のことだった。本来なら高い金額を必要なSIDの手術だったのだが、特殊な才能を持つ人にはモニターとして無償でその利用ができる仕組みがあった。「アーティスト枠」と呼ばれるものだ。ある程度の芸術の市場に置いて、結果を出していたレオが当選したのは当然のことだったのだろう。

 ファミリアを得ることで多くの芸術家はその生活や創作活動をより創造的で効率的な支援を得ることができるようになった。

 制作活動に集中するあまり日常生活を破綻しがちな芸術家にとってファミリアはとても重要な存在となった。
 ファミリアが日常生活のの煩雑なタスクや管理業務・雑用を引き受けることで、アーティストは自分の創造的なエネルギーを芸術に注ぐことができるようになった。これには食事の準備やスケジュールの管理、財務管理なども含まれていた。

 アンドレアと過ごすことでレオの生活は劇的に改善されたということだ。以前は全くできなかった貯蓄や投資も行うようになって、生活は随分楽になったそうだ。

 さらに、ファミリアは、芸術家の創造的なプロセスをサポートするためのアイデアやフィードバックを提供することもあった。むしろそっちがメインの効果だったとも言える。ファミリアはアーティストの作品スタイルや嗜好を学び、それに基づいて建設的て創造的なな提案を行うことができた。これにより、アーティストは新たな視点を得て、さらに創造的で独創的なアプローチを広げることができるようになった。

 彼はその頃、新しい技術とその可能性に興奮し、それを私と共有しようとしてくれた。そして、彼が発した一つ一つの言葉と、彼が私に抱いてくれた信頼感が、私たちの間に深い絆を生み出すようになっていた。ほとんどの場合私はアンドレアの存在を認知することはできなかったが、アンドレアが常にレオナルドの傍らにいることを感じるようになっていた。

 わたしたちが一緒に暮らすようになって1年がすぎる頃アメリカではネオ・フェデラリストと呼ばれる活動家たちが目立つようになっていた。

 ネオフェデラリスト、旧アメリカ合衆国憲法至上主義を唱えるかれらの活動は2030年代に入って主に西部の州で盛り上がりを見せていた。

 アメリカ合衆国憲法が作られた1787年、18世紀こそ至高の時代であり、建国したての国はまさに理想の国家だった、その次代に社会制度も思想も立ち返るべきだというような主張をする人間たちがSNSを利用して緩く、だが太く繋がっていた。

 ネオフェデラリストの主張は過激で、1787年当時の社会的通念や価値観に以上に固執していた。彼らは、1787年以降の全ての科学技術を否定する立場を取り、彼らにとって、その時点で存在しなかったものは、自然や神の秩序に反すると見なされていた。1787年当時の社会では、人種差別や奴隷制度は広く受け入れられていました。このため、ネオフェデラリストはこれらの価値観を守ると主張していた(とんでもない話だ)。

 それから性別による役割の固定も強く主張された。歴史上のできごとでしかなかったはずの男女間が彼らにとって当然のものとされた。18世紀の社会では、男性と女性の役割は厳格に区別されていた。男性は働き、女性は家事を行い、子供を育てるという役割がはっきりと求められていた。ネオフェデラリストはこの役割分担を厳守すると主張していた。

 さらに最悪な主張は教育の制限を正当化するという考え方だった。公立学校や大学は1787年のアメリカには存在していなかった。したがって、ネオフェデラリストは現代の教育制度を否定し、家庭教育や職人の見習い制度を主張するようになっていた。職人の子は職人になるべきだという、職業選択の自由についても否定するようになっていた。

 彼らの主張は、21世紀の価値観とは全く異なるため、非常に過激とみなされ、当然のように社会的な衝突を引き起こしていいた。

 彼らの主張は強化され共和党政権の一部とつながりますます過激化していった。後の赤いアメリカへ繋がっていくことになる。

 彼らはSIDについても否定的な立場をとっていた。プラグドたちを

"That rotten bastard with a brain full of mold,"
"The damn lout with a brain infested with fungus,"
"That stinking prick whose brain's crawling with mold,"
"This shithead's got nothing but mold growing in his skull,"
"Freaking lowlife, brain filled with damn rot,"
"That pissant with a brain teeming with mold,"

"脳みそがカビだらけの腐った野郎"
"脳みそにカビがはえたクソ野郎"
"脳みそがカビだらけの臭いゲス野郎"
"このクソ野郎の頭蓋骨にはカビしか生えていない"
"脳みそが腐った下衆野郎"
"脳みそがカビだらけの小便野郎"

といい軽蔑し差別するようになっていた。

 彼らがそういう主張をするのは社会の変化の一面を表すことでもあった。

 2034年が終わろうとするころ、この時期は後に「AIカンブリア紀」と呼ばれるようになっていた。

 AIの急速な進化は"カンブリア爆発"と呼ばれる生物の急速な多様化を連想させた。
 AIの進化と多様性は、この時期に飛躍的に増加した。生活のあらゆる側面でAIが一般的になり、その影響力は社会全体に及ぶようになっていた。多様なAIが共存し、相互に影響を与える新たなAIの生態系が形成されはじめたのもこのころだった。AIの普及に伴い、その使用方法や影響についての倫理規範や法律も急速に成長・変化していった。
 もっとも大きかったのはAIと人間の融合だった。つまりSIDのようなブレインマシンインターフェースの途上と進歩そしてAIの発展により、人間とAIの間の境界がますます曖昧になっていった。AIは人間の思考と行動に深く組み込まれ、それ自体が新しい「生命形態」のように見えるようになっていった。ファミリアを一種の生命体としてみなすような思想が生まれるようになっていた。AIの普及は、労働力、経済、教育、エンターテイメント、さらには人間の交流とコミュニケーションに至るまで、社会全体の風俗や慣習を根本的に変えていった。これらの変化は、カンブリア紀の生物学的な変化と同じくらい深刻で広範囲なものでした。

 この時代を象徴するのがSIDに接続した頭脳を持つ芸術家たちで、彼らは「プラグド・アーティスト」と呼ばれていた。

 そして2034年のクリスマスにあの事件が起きた。サイバーアポカリプスと呼ばれる大規模なネットワーク障害とそれに伴う大規模な社会的な混乱だ。本当の原因は今もわかっていない、テロだという説もあるし、それ以外の太陽の黒点の影響だとか、いろいろことが原因だと言われていたりするが、どの説も決め手にかけていた。

 サイバーアポカリプスは、人間がAIとデジタル技術そしてネットワークにどれほど依存しているかを鮮明に示した。年が明けて2035年の1月中旬までには大部分のネットワークが復旧したが、その間に発生した混乱は計り知れなかった。ほぼ全てのネットワークが同時にダウンし、通信、交通、医療、金融などあらゆる分野で混乱が生じた。特に人々がAIとネットワークに依存していた都市部では、公共交通の運行停止や電子決済の不能、医療情報システムのダウンなど、社会生活全体に影響が出た。政府は緊急事態を宣言し、国防部や情報技術部などの関連機関が連携して対策を講じた。一部の地域では、物資の供給が困難となり、一時的に物価が上昇するなどの現象も見られたし大都市を抱える州都では戒厳令が出され三日から二週間程度市民生活が大きく制限された。また、国際的な協力も求められ、それぞれの関係機関や組織・企業がネットワークの修復とサイバーセキュリティの強化に全力を挙げた。もちろん人々の生活は大きく影響を受けた。スマートホームが操作不能になり、AIアシスタントが使用できなくなったため、日常生活に支障が出た。また、学校や職場での活動も影響を受け、一部の学校や企業では一時的に休業する場合もあった。
 この出来事は、人々のデジタル技術やAIに対する認識を大きく変え、多くの人が、AIとネットワークへの過度な依存のリスクを認識し、その対策を求めるようになった。また、オフラインでの生活の大切さや、デジタル技術に頼らないスキルの重要性も再認識された。

 それでも多くの人々は、この障害を「一時的な事故」と捉え、デジタル技術やAIへの依存を変えることはなかった。その一方でネオフェデラリストたちの一部はさらに先鋭化し、その主張を強化していった。 

 そのあと何度かSIDニューラリンク社のネットワークに対するハッキング事件が起きたが、それはなんらかの不都合や不具合が明確になっただけで、そういう事件が起きるたびにSIDのセキュリティや能力はますます強化されていった。

 セキュリティ強化と個人情報に対する開示要求は複雑なバランスの上に成り立っている。性的思考や思想などについてどの程度オープンするべきかは難しい。
 SIDのサービスを利用するときに問題になったのは「思考」と「表現」の線引をどこで行うか、あるいはそもそも区別できるものなのかということだ。

 ちょっと思い浮かべただけのことが、ネット上に表現され、それがまた他の人々の思考や意識に直接影響を及ぼすという現象が起こり始めた。

 SIDニューラリンク社がとった手段は大胆だった。

 「思考・思想の自由を守るために、SIDCOMは”表現規制を一切行わない”」

 というものだった。

 「同意できなければ使うな」という姿勢は、その権限を持つ全ての人々、そして社会全体にとって挑戦的な声明だった。
 実際、一部の人々はこの方針を受け入れられず、SIDCOMを使用することをやめた。しかし、その一方で多くの人々は、思考と表現の自由を守るというSIDCOMの方針に賛同し、新たなコミュニケーションの形に飛びついた。SIDCOMの方針は、言論の自由を重視する人々にとって魅力的だった。彼らは自分の思考と意見を自由に表現する権利を持つことを重視し、それが検閲されることなく、自由に意見を共有できるというSIDCOMの方針に引きつけられた。つまり一切の検閲のないコミュニケーションスペースとして期待された。この方針は、新しい自己表現の形を模索していた人々にとっても魅力的だった。彼らは自分の思考を直接的に表現する新しい方法に興奮し、それが創造性や自己理解につながると感じていた。

 もちろん、同時に、多くの人々は自己表現とプライバシーの間で葛藤を感じるようもなった。自分の思考を表現することつまり公開することが、自分のプライバシーを侵害する可能性があると感じ、SIDを使用することに対して慎重になったりもした。でもそれはバランスの上になりたっているという側面も持っていた。
 SIDCOMという閉じられたコミュニティーの中で、そこに参加する全ての人間が「なんの隠し事もできない」という状況のなかで、自分の特殊な嗜好を隠さなくてもよいという自由を同時に手に入れることができるようになってしまった。

 SIDニューラリンク社の大胆な声明は、社会全体に深い影響を与え、人々の間でさまざまな反応を引き起こしました。

 この技術革新は、物理的な国境を越えて人々がつながる、いわば新しい「思考の国境」を創り出した。これは、人々が自分の思考とアイデアを自由に共有し、相互に影響を与え合うことができる新しい空間を意味していた。

 それは、物理的な距離や文化的な違いを超越し、人々が自由に情報を交換し、新しいアイデアや視点を共有するためのプラットフォームとなった。同時に、この「思考の国境」は、思考の自由、プライバシー、データの所有権など、新しい課題と問題を提起しました。

 物理的な国境が政治的な秩序や社会的な構造を定めるように、「思考の国境」もまた新しい社会的、文化的な秩序を形成し、人々の行動や思考を形成する力を持つようになりました。そして、その結果として生まれたのが、この新しい「国境」をどのように理解し、どのように対処するかという新しい議論と挑戦であり、それはまさに新たな時代の始まりを告げる象徴的な出来事だった。

 実のところ20世紀の国家や文化間のコミュニケーションは多くの場合、「表現」を通じて行われていたということだ。これは言葉だけでなく、芸術、音楽、映像、ファッション、いろいろな風俗や習慣など多岐にわたる形で表現されていた。
 言葉は、その文化の価値観や視点を伝える主要な手段であり、一方で芸術や音楽などは、感情や経験を直接的に、また普遍的な形で共有することができた。これらの表現形式は、異なる文化や価値観の間で理解を深め、つながりを構築するための重要な手段となっていた。

ただし、これらの表現は必ずしも思考そのものを直接的に伝達するものではなく、むしろ個々の思考を一定の形式に翻訳したものであると言えた。そのため、人々は自分の思考を他人に伝えるために、様々な表現形式を使用し、それによって自分の思考を表現する能力を磨く必要があった。その表現方法を国家も磨く必要があったのだ。

 この意味で、国家や社会は「表現」を通じて繋がっていると言えたけれど、その背後にある思考そのものを共有するという点で、「思考の国境」は新たな可能性を提供した。
 直接頭脳に接続することで思考そのものを共有し、理解し合うことが可能になるこの新しいコミュニケーション形式は、人々が相互に理解し合う新たな手段となりつつあった。

「思考が直接共有される」というこの世界では、違った理解や共有の方法となった。これは、個々の感覚や思考を、文字や音に変換することなく、直接他人と共有することを可能にする新たなコミュニケーション手段となった。

 表現は、常に、翻訳や解釈が必要とされる。
 音楽や芸術、言葉を通じた表現は、情報を伝えるためにある種のコード化や象徴化が必要だった。そのメッセージは受け手の解釈に大きく左右される。しかし、SIDCOMネットワークを通じて直接思考を共有するという概念は、そのような解釈のニーズを取り除き、思考を「純粋な形」で伝えることが可能になるとされた。

 ただそれは、また新たな問題も引き起こした。特に、思考のプライバシーという問題は、この新たな技術が普及するにつれてより深刻にはなった。思考が直接共有されるということは、その思考が他人によって評価され、解析され、場合によっては悪用される可能性も生じることを意味していた。しかしどのような利用の仕方が「悪用」なのか、そしてそもそも「悪」とは「善」とはどういう解釈なのか誰も決めることができなかったということだ。

 直接的な思考の共有は、人間の個々の経験や視点を理解する新たな方法を提供しますが、それはまた、その思考が他人にとって理解不能なものである可能性も提起した。個々の経験は、その人が経験した特定の文化的、社会的背景に深く根ざしている。したがって、その背景を共有していない人々が、その思考を完全に理解することは困難だったのた。

このように、SIDCOMによる「思考の直接共有」という新しいコミュニケーション形式は、表現によるコミュニケーションの限界を超えるためにも「一切の規制を行わない」という手法を必要とし、そしてそれを取り入れた。

 20世紀的な価値観に縛られた人々は、それに耐えられたのだろうか?

 20世紀的な価値観に固執する人々が、革新的な技術の登場にどう対応するかは、それぞれの人々の心の開放度や適応力による部分も多かった。

 一方で、この新しい技術がもたらす変化や可能性に対する理解と受け入れが進むにつれ、人々はこれらの新たなツールを活用して自己の表現やコミュニケーションの方法を進化させる可能性を信じるようになった。思考を直接共有することが可能になり、プライバシー、自己同一性、個々の自由といった、私たちがこれまでに確立してきた価値観や規範に一からその定義を設定を書き換える必要が生まれた。人類はそれに挑戦する必要があった。そして、その挑戦に対して各人がどう対処するか、どう受け入れるかは、その人それぞれの価値観や心の準備によるものであり、そこをどうするべきか決めるのは結局はそれぞれ個人であるということだった。

 残念ながら、いや残念ながらというのが正しいかどうかわからないけれど、20世紀の価値観や規範が未だに強く存在するこの社会において、このような急速な技術的進歩に対する受け入れが進むのは難しかった。このような新しい技術と共に生きていくことには、新たな視点や理解を得るための可能性があることはわかっていたし少なくない数の人々、つまりはプラグドの人々はよく理解していた。我々が自己や他者、そして社会全体を理解する方法を根本から再考する機会なのだと、環境を理解していた。

 要するに、SIDCOMのような新しい技術がもたらす変化に対する受け入れは、それぞれの人々がどれだけ新しい視点や理解を受け入れることができるか、またそのためにどれだけ努力をするかによるものでしかなかった。それは人類全体の成熟の過程でもあるかもしれない。そしてそのブレーキ、障壁としての数万ドルというコストは人々に重くのしかかっているように思えた。

 だが、そのブレーキは2年という短い時間に解消された。

 初期費用は389ドル、月額はわずか9ドル。

 同じ時期のスマートフォンの代金が1200~1500ドル、携帯電話会社の通話料金や回線使用料が100ドルだったので十分の一程度の費用で利用することができるようになったのだ。

 生体侵襲性のBMIは遺伝子工学と生体工学をハイブリッドで利用することでその障壁を取り除いた。鼻腔から注射器で生体ナノマシンを注入することで、大脳辺緑系、大脳新皮質に自己増殖的に人間の頭脳をチューンナップしたのだ。

 SIDが開発されてわずか10年にも満たない間、実用化が始まってわずか5年の間に、BMIの接続環境は指数関数的に整っていった。

 「エディ、もうこれだけ価格が下がったし、誰もが使う時代なんだから君もやるといいよ。」

 そういうエディの提案を断る理由は僕にはなかった。

 「SIDCOMのネットワークは独立しているから、アポカリプスみたいなことが起きても大常備だよ。両方が一度に落ちるなんてことはないからね」

 レオはアポカリプスの期間中、自分のSIDCOMネットがどれだけ役にたったか、有意義だったのかを説明してくれた。

 アポカリプスの期間中、インターネットとつながることはできなかったが、SIDCOMのネットワークは生きていて、SIDCOMユーザー同士のコミュニケーションは可能だった。

 「そうだな、申し込んで見るよ」そういって僕はその日のうちに申し込みを済ませた。

 同じことを考える人は多かったようでウェイティングリストは随分ながかったようだ。

 僕が利用できるのはどうやら年が明けてからになりそうだった。

 エディは僕とSIDCOMの共有体験をするのを楽しみにしていた。

 けれども結局、彼と共有することはなかった。

 僕が申し込みをした次の週、彼は死んでしまった。

 それが2035年のことだ。それからずっと、私は彼の声を探し続けていた。そして今、その声が、遠くからでも、私に届いている。それは、彼がまだそこにいる証だと思う。

 私は、今、夢をみているのだろうか?

 それとも死ぬ前に見るという走馬灯というやつなんだろうか?

 20年以上前の出来事が、流れては消えていく。

 私は再び目を開け、周囲を見渡す。そこには、彼の姿はない。しかし、彼の声が私に届いていることを知るだけで、私の心は穏やかだ。彼がどこにいて、何をしているのかはわからない。しかしそれでも、彼の声が私に届くことで、私たちはまだつながっていると感じることができる。

「エディ、エディ、私はここにいるよ」

私は再び彼の声に耳を傾ける。その声が、再び私のもとへ届くことを祈りつつ。

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