うつくしいすべてへ


あなたは中学で不登校になり、通信制高校を経てやはり通信制の大学(学費が他より安いというのが決め手だった)を出、就職したもののストレスから脳を病んでいまはモラトリアムをしている。あなたは実家二階のユニットバスでルベルイオの赤を使って髪を洗う。クリアレックスで身体を清める。キュレルの泡洗顔料でその端正な顔にわずかにある「ねむった跡」を消す。あなたは隣接する洗面所に出て、母親が洗濯した無印良品のバスタオルで全身と、長い髪を拭く。タオルは、少しだけ柔軟剤のハミングの青が匂う。あなたは青光りするような健康な髪の水気を取ると、あんず油をそこに塗る。あなたは裸のまま三面鏡のなかのあなたと見つめ合う。サロニアの黒いドライヤーで豊かな黒を乾かす。あなたは洗面台横の引き出しからあなたの下着を取る。このユニットバスや洗面所はいつの間にかあなた専用になっていた。白地に黒の刺繍のブラジャーとショーツ、あなたは身につける。汗ばむ肉体に紐やホックや布地が張り付く。下着のままでしばらくいようと、思う。あなたは洗面台の下からヘアミストを出す。誕生日に両親から贈られたわけではない、デパートの一階で何気なく入ったシャネルで購入したアリュールだ。洗面台の下には他にも、やはりシャネルのチャンスとかディオールのブルーミングブーケとかジャドールとか、ミスディオールとか、入っている。全部あなたの気まぐれな浪費の結果だった。あなたはヘアミストが好きなのだ。アリュールを頭から十センチ離して吹いて、三面鏡の裏の物入れからルシードエルのピンク、ワックスを取り手のひらにクリームチーズほどの粘度を乗せて水を含ませ手の全体にひろげ、美しい漆黒をかきあげるように、伸ばす。少し硬くなったがサラサラの直毛がまとまった。あなたはやはり三面鏡の裏から黒いヘアゴムを一つ取って後ろで一本に結う。あなたはノニオの青い液体ハミガキで口を清める。それから、十畳ある自室に入って、全身鏡の自分と出会う。腰のくびれと割れた腹筋、対して肉置ゆたかな胸と尻にも同時に面会する。あなたの胸はFカップだった。下着はエメフィールのネット通販で割引きのときを狙ってまとめて買うのだ。あなたは汗が引いたのを確かめて、顔にキュレルの白いスキンケアを施す。そこを含めた全身にアスリズムの日焼け止めクリームを塗る。まとめた髪には同じシリーズのミストを吹いた。あなたはクロゼットからユニクロの白いメンズTシャツを出し、明るい青のテーバードデニムを履き、白いクルー丈の靴下を、赤いペディキュアをした足にあてがう。そして、鏡の横の枯木の枝だけみたいなカバン掛けから無印良品の斜めがけバッグを選ぶ。保険証とマイナンバーカード、お薬手帳、パスモ、ハンカチ、バーバリーの二つ折り財布が中に入っている。あなたは絹のシーツがかかったベッドの枕元から、「充電完了」と表示されたスマートフォン、コードを離す。バッグに入れる。ベッドの足元の小棚から、「女性・子どもサイズ」と書かれた箱入りの白い不織布マスクを一枚取って、装着する。メイクはしない、ピアスもたくさん持っているが着けない。あなたは使ったバスタオルとパジャマを抱えて階段を下りる。ドラム式洗濯乾燥機に放り込む。専業主婦の母親があなたの朝にパンを焼いてバターを乗せ、冷えたダージリンをいれてくれた。あなたは短く礼を述べて食む。ダージリンで朝の服薬を済ませる。あなたは席を立ち、ダイニングを出る。玄関の下駄箱の上の白いデジタルベビージーを右腕につける。あなたは左利きだ。あなたは左右がわからない。どうしても覚えられない。アナログの針が読めないからデジタル時計は大切にしている。時計がついている方が右、と覚えている。外したら、黒いマニキュアをしている方が右、白い方が左、である。モズのスニーカーを履く。母親がダージリンの入った冷たい水筒を渡しに玄関まで出てきてくれる。礼を述べて受け取り、バッグにしまう。

あなたは五歳から十七歳まで、地域のバレーボールクラブに在籍した。コーチは柔軟で、左右盲のことを伝えたらマニキュアを許可してくれた。「デコレーションや長い爪はプレイの邪魔だが色だけなら」と、チーム全員が手の先を彩って良いことになった。あなたは、同期が受験などのために辞めるごとに寂しくなって、十七歳で自分も、流れるように。規則の上では、あと一年いてよかった。あなたの背は百八十センチあり、試合の度に相手チームからマークされた。あなたより小さいがセンスのあるサエコちゃんという子がいて、あなたが囮になっている間に彼女がポイントを奪取するのだった。よく一緒に自主練習をし、帰りにミニストップでソフトクリームを食べた。

彼女は練習中にアキレス腱をいためてしまい、車椅子生活になり、パラバレーボールに転向した。それこそ十七歳のときで、あなたがバレーボールを離れるのに充分な理由だった。サエコちゃんはあなたが中学一年のゴールデンウィーク明けから卒業まで不登校だったことを知っていた。同じ中学校に在籍していたから。
「学校なんて、よく考えたらそんな面白くないよね、決まったことやってさあ、点数つけられてさあ。バレーボールの方が面白いよね、ルールさえ守って、あとは頑張れば結果がついてくるし」と、よく言っていた。自己否定感にうずもれていたあなたは、サエコちゃんに依存した。彼女が種目をパラに変えてからも、時々街へ遊びに出た。

いまでもサエコちゃんとあなたはよい友人で、月に一度くらい遊ぶ。障害者割引で映画を見たり、お茶をしたり、ディナーに出かけたり。サエコちゃんは県立大学の経営学部を出て、ITコンサルタント関連の日系大手企業に就職した。お盆に休みがないほど忙しいのだった。

あなたは家の前のバス停で日傘を差す。夏休みの子供たち五人くらいが行列のなかで、がやがやしている。あなたは待っているこの時間、行き先の精神科クリニックで担当医に話すことを脳内、まとめあげる。バスが見えたから日傘を畳んで今度はパスモを出す。停車した。ドアが開く。涼しい。あなたは後方の座席を選ぶ。発車する。交通機関によくある生乾きの匂いが、マスク越しにうかがえる。あの人だろうか。それとも、こっちの人?犯人は無自覚なのだろうか。やがて駅に着き、反対口から別の会社のバスに乗る。精神科クリニックが家から近すぎると顔見知りに会った時が気まずいから、あなたはあえて遠くに通っているのだった。隣の隣の市まで行く。手間も交通費もかかるが、知った顔に合わないし担当医も優しいので、通い続けている。あなたは駅の裏の雑居ビルの一階でスニーカーから院内用スリッパに履き替え、受付のマダムに保険証と診察券と、自立支援医療証、なるものを出す。マダムが紙の番号札をくれる。ここでは氏名ではなく、「何番の患者さん」と呼ばれるのだ。
将来落ち着いたように見えても、再発防止のために薬が一生必要だと言われていた。病態が安定すれば、無理のない範囲で労働してもいいらしい。あなたはまだ体調に波がある。就労は止められている。待合室をぐるっと見渡すと、自然派ファッション雑誌そのままみたいな垢抜けた人もいるし、本当に具合が悪いんだろうな、と思える、ヨレヨレぐちゃぐちゃの、丸めて広げた紙みたいな人もいる。あなたの統計上、付き添いがいる人と、診察室に持っていく荷物が多い人は話が長い。診るのはひとりにつき三十分以内、と決まっているけれど、それは形骸化している。あなたは、ハンカチで軽く汗を取りながら、適当な椅子に座る。ダージリンを静かに飲む。
あなたの番がくる。診察室で担当医と向き合う。
「最近の調子はいかがですか」
「前々回処方して頂いたお薬が身体に合っていたようで、まだ日常生活には疲れますが、でも、毎日食事も保清もできます。少しだけなら家事の手伝いや買い物の同行もできます。近所だったら人に誘われて遊びにも出られます、あとで寝込みますが。目が滑ったみたいにできなかった読書も映画鑑賞もできるようになりました、カフェでゆっくり過ごす、というのもいまはできます」
「それはよかった。お薬はすべて継続で大丈夫そうですかね」
「はい」
「ではまた二週間様子を見ましょうか」
近いな、あなたは思う。しかし、意外と遠いのである。病んだ脳は毎秒ルーレットだからだ。たった一瞬のうちに沈みも浮きもする。
「ありがとうございました」
診察室を出て、また二週間後に受診の旨、あなたは母親にメッセージを送った。しばらくするとマダムから呼ばれる。会計。処方箋を受け取り、代金を支払って、次回、担当医と約束した日に予約を入れる。クリニックを出てすぐ隣の調剤薬局で、さっきもらった処方箋と、お薬手帳と、自立支援医療証を提出して待つ。あなたの薬については、一包化という、同じ時間帯に飲む薬をプラの小袋にひとまとめにする指示を担当医から出されているから、出来上がりまでに時間がかかる。あなたはSNSを見て待ちを溶かす。インスタグラムを見ると物欲が湧いて困る。あなたは脳の報酬系に生まれつきの障害を抱えている。そして、後天的に、さらに故障した脳はときどきハイになる。すると、どどのつまり、とにかく衝動に弱い、という事態が発生する。金銭があればあるだけ使う。だから障害年金は母親が管理している。会社員だった頃の、三百万近い貯金はもう、ない。
あなたが欲しがるものは、駅前のバラエティショップやドラッグストアにあるような、ファンデーションや、口紅や、アイシャドウ、制汗剤、リップクリーム等だ。高級品は、ヘアミストとシャンプー、トリートメントを除けばあまり手にしない。なお、使わない安いヘアケア用品が部屋にたくさんある。本当に欲しいものは、金銭を支払うときに分泌されるドーパミンか、それ以外の、まだあなたが知らないかわからない何かだろう。あなたの鏡台も学習机の引き出しも、本棚だって、安価な化粧品で溢れている。いまはハイだな、ローだな、と、あなた自身がわかるようになったのは最近のことだ。
あなたの薬が揃う。薬局では苗字にさん付けで呼ばれる。あなたは薬剤師のお姉さんと一緒に内容を確かめて、「調子はいかがですか」と聞かれ、「普通です」と代金を渡す。それで全ての手続きは終わり、あなたは来た道を帰りゆく。あなたの明日はフリーだ。あなたは両親から月に三万円ほど、自由費を支給されている。美容院代や被服費や交通費、スマートフォンの使用料とは別だ。あなたは今月に入って、ハイでもローでもない、フラットの日が続いた。お金は丸々あった。日傘を差し、片腕に薬が入ったA・P・Cのショッピングトートを下げる。道端のチェーンのカフェに入ろうか迷う。店外にアルファベットのA型のメニュー表があるのを見る。あなたは、素通りして、バス停の待合椅子で、母親から持たされたダージリンを飲む。まだ冷えている。あなたは水筒をしまい、パスモを手に挟む。そのままスマートフォンを見る。明日の天気をアプリで確認しているのだった。あなたは低気圧が近づくと頭痛と関節痛がして気分が沈む。幸い、明日も明後日も快晴らしかった。あなたは安堵する。あなたは自らが病と両親に甘えて、生きているのを知っている。あなたはあなたを養うあなたの父親が苦手だった。昔、まだ小さいあなたに対して「みにくい」とか「きたない」とか「しょうがないからいっしょにいる」とか、たくさん投げかけたからだった。あなたが化粧品を好きなのは、血の繋がった父親に、みにくいと「認められた」ことが大元かもしれなかった。あなたはバスを乗り継いで自宅へ。母親にただいまと告げて病院および調剤薬局の領収書を渡す。立て替えたお金が返ってくる(あなたの治療費をあなたが立て替えるというのも一種不思議だとあなた自身は思っている)。あなたは一階の洗面所で不織布マスクを屑籠に捨て、裸体になる。身につけていたものはドラム式洗濯乾燥機に入れた。鏡に映るあなたのバストトップはカフェラテの色で、中心だけが、濃いピンクだ。誰にも吸われたことがない。あなたは斜めがけバッグとショッピングトートを持って二階に行く。荷物を廊下に置き、ヘアゴムを取り、百均の櫛で髪を梳かしてから専用のユニットバスに入ってそのシャワーで全身を濡らし、ルベルイオの赤を使って髪を洗いトリートメントをする。浸透させている間にクリアレックスで身体を清める。キュレルの泡洗顔料で顔を包む。湯を浴びて泡やトリートメントを流す。皮脂と一緒に大事なものを失った、気が、毎回してしまう。あなたは上がって無印良品のバスタオルで全身を拭き、裸体のままサロニアのドライヤーをする。下着、今度は、白地にピンクの上下にする。あなたは自室に入る。クロゼットのなかの三段プラボックスからジーユーのサテンパジャマを取る。あなたは「部屋着」を持たない。外出着かパジャマしかない。あなたは家の裏のコンビニエンスストアに行くにも着替えることが必要で、必ずメイクと不織布マスクをする。あなたがノーメイクで出かける先は精神科クリニックだけだ。そこでは、「みにくい」己でもかまわないと、判断しているのだった、おそらく。今日のあなたにはまだ気力があった。スマートフォンを使い捨てのメガネクリーナーで拭いて、ショッピングトートから薬を出して整頓し、斜めがけバッグを鏡横の枯れ木にかける。
あなたは水彩色鉛筆七十二色セット(ハイの時期にアマゾンで買った)と、大人用の塗り絵を開く。あなたはおびただしい花や惑星や葉ではなく、背景から塗る。あなたがあなたの国にひとりでいる時間は、優しく、流れる。あなたは朝飲む薬の影響で、お腹が空かないから、お昼ごはんをいつも、食べない。母親も、軽いものを念のために用意するだけで、「お昼よ」とあなたのもとへ知らせに来たりはしない。あなたは塗り続ける。飽きたらスクワットや腹筋や腕立て伏せをする。あなたは専用の小皿と小筆を取り、小皿に水を張って、全体を彩った絵に筆で馴染ませる。こうすると、趣が出るのだ、とあなたは信じる。水彩色鉛筆のうつくしいところである、と思う。あなたは自分が「みにくい」ため、うつくしいものが大好きだ。
あなたは、あなただって、そのすべては、かぎりなく、うつくしいのだ、きっと。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?