子育ての主人公になる、と自分の人生を生きる、の違い
前にVoicyで荒木博行さんのbook cafeを聞いていたら、毎週やっている相談コーナーのなかで子育てに関する質問があった。
質問者(相談者)の人は最近子どもが生まれたとのこと。「子育ての先輩(荒木さんは大学生と高校生?の2人の親)に質問です、子育てが上手くなるにはどうしたらいいですか?」みたいな相談。少しニュアンスは違ったかもしれない。
質問に対する荒木マスターの回答が良かった。
「子育てに上手いも下手もないんですよ。その考え方自体が”親自身が子育ての主人公”になっていることを示しているんじゃないですかね」といったことをズバッと答えていた。
まさにその通りだと思った。子育ての主人公は子ども自身であるべきなわけで、「上手な子育て」という発想そのものが主体のすり替わりを表している。
とはいえ、ぼくを含めすべての親はこの質問者さんのことを笑うことはできない。自分にもそういう時期あったなー、と懐かしさを覚えただけだ。実際に体験しないとわからないことってたくさんある。自転車の乗り方と同じだ。理屈と実行は違う。
子育てに関する話として、似ているものに「親が自分の人生を生きることが何よりの子育て」という考え方もある。ぼくもそう思う。子どもには教えるのではなく、自分の背中を見せる。
でも、この二つは矛盾しているようにも見える。違いはなにかと具体的に聞かれるとちょっと考え込んでしまう。
親自身が子育ての主人公・・・ダメ
親が自分の人生を生きる・・・良い
どこが違うのだろう?
ひとつずつ見ていくことにする。
まずは、「親が子育ての主人公になっている」場合。
やっていることは「子育て=子どもを育てる」という行為。少なくとも本人はそう認識している。
「名目」としては子どものためなのに、実際は親が主体になっている、そこに逆転現象が起こっている。だから良くない。
では、もうひとつの場合。「親が自分の人生を生きる」ことは何が違うのか。
この場合には名目からして「自分の人生を生きる」となっていて、子育て(子どものため)とは切り離して考えている。しかし親自身が懸命に生きていく姿を子どもがみて、結果的に良い影響をもたらす。
それが両者の違いであり、理想的な形なのだろう。
では、後者は本当にそれでいいのか?という疑問が生まれる。
子どもがいるのに自分の人生を生きていてもいいのか。積極的に「自分の人生を生きるべき」というのは矛盾していないのか。
言い換えると「親は自分の人生を生きながら、子どもの親としてやっていくことは可能なのか」という問いにもなる。
ぼくの答えはもちろん「イエス」なんだけど、それを論理的に説明するのは難しい。でもそれができたら、より深くふたつの違いについて理解できると思う。
でも今日は時間がないので、また今度にする。
読んでくれてありがとうございます。
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