「グローバル・コミュニケーション」はこれからの時代に不可欠だ

以前に読んだフィンランドの教育方法の本に「グローバル・コミュニケーション力を重視した教育を行っている」ということが書いてあった。

グローバル・コミュニケーションとは、「分かりきったことでもちゃんと言葉にする」みたいなことだ。

当たり前のことを「言うまでもない」とスキップしないこと。

なぜそれを「グローバル・コミュニケーション」と呼ぶのかは忘れたけど(たぶん本には書いてあった)、ぼくなりの理解で進めてしまうと、

生まれた国や文化が違うもの同士がコミュニケーションをするときは「前提」がずいぶん違う。相互理解のベースラインはとても低い。

だから、かなり低いラインからコミュニケーションをはじめないと意思疎通ができない。
この「低いライン」の部分を疎かにしないように、というのがフィンランドの教育方針でありグローバル・コミュニケーションなのだと思う。

日本人とフィンランド人がコミュニケーションする場合を考えてみると、そこには言語の壁だけでなく「文化の壁」も相当にあると想像できる。

たとえば「日本人はなんで知り合いとすれ違う時に会釈するの?」と聞かれたとしたら、なんて答えますか?

ぼくだったら、言葉を発するよりも軽い挨拶で、かつ相手にも発声を求めないというライトな挨拶なんですよ(だけど存在をないがしろにはしていないというサイン)、とでも答えようか。

これだけでも言語化するのはけっこう難しいことに気付かされる。

本には(たしか「フィンランド・メソッド入門」という本)
「車とはどういうモノですか?」について5つ答える、というのも書いてあった。

車は、エンジンやモーターによって移動できる乗り物
所有している人といない人もいる
乗れる人数も種類によって違う
公共の交通機関が発達していない地域だと必需品
持っているだけで税金が取られる

とかいろいろ考えられる。

それがグローバル・コミュニケーション。(本にはもう少し違う定義があったような気もするけど)

「何となく知っているけれど、言葉にしていないこと」をちゃんと言葉にして伝えていくこと。

これは、これから生きていく上で、とても大事なことだと思う。

国際化していく中で、文化の違う物同士でコミュニケーションするための方法、というものもちろんある。

だけど、それだけじゃなくて「同じ文化の者同士」だったとしても、当たり前のことをしっかり言語化していくことは大切だ。

なぜなら、片方が当たり前だと思っていることが、もう一方からすれば「当たり前ではない」ということが世の中には実に多いから。

年代や住むところが違うだけでも、常識(とされていること)はかなり違う。
それに、あることが「当たり前」だと思っているのは、もしかしたら少数派で、多くの人にとっては常識でもなんでもなく、本人たちがそれに気づいていないだけ、ということもある。


人間関係のトラブルというのは、9割がたが「コミュニケーション不全」によって起こるとぼくは思っている。その原因は、どちらか一方が、そんなの当たり前だと言葉にして伝えることをしていないことによって生ずる。


だから、「当たり前だと思っていることでも、ちゃんと言葉にしていく」という姿勢は大事だ。

国際社会においてだけではなく、家族や同僚たちとのコミュニケーションにおいても、とても大切だと思う。

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