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ゲートボールとフリーランス

昼下がりの公園で、年配者たちが集まりゲートボールをやっている。

よく見かける光景だけど、最近は今までと違う見え方がする。

あれって、ゲームというよりコミュニケーションなんだと思う。

もちろん、競技自体の面白さもあるだろう。でも、彼(彼女)たちにとってもっと重要なのは「仲間と集まって同じルールでゲームをする」という行為そのものだと思った。

今までは公園でそんな光景を見かけても、通り過ぎるだけで、何も感じなかった。

最近になって見え方が変わってきたのは、自分の環境が変化したことが関係している。

ひとつは、子どもができたこと。

もう一つは、フリーランスになったこと。

人が健全に生きていくためには他者とのコミュニケーションが不可欠だ。その重要さに気づくことになった原因は、どちらかというと後者(フリーランス)のほうが大きい。

老人とフリーランスは似ている

最近会社をやめて移住した。これからは個人で取ってきた案件から生活費を得なければならない。いわゆるフリーランスということになる。

老人とフリーランサーには共通点がある。

どちらも自由で孤独であることだ。

自由だけど、孤独。孤独だけど、自由。

仕事を引退した老人とフリーランスは、会社組織から抜けた、という点で同じだ。

もちろん、両者の置かれた状況はずいぶん違う。
老人は年金をもらっていて、生活の不安はない(そんなにないと思う)。持ち家に住んでいる人も多いだろう。

でも、ぼくは違う。年金がもらえる年齢ではないから、当面の生活費は自分で稼がなくてはならない。持ち家だってない。

その代わり、ぼくが持っているものがある。
若さ。健康な身体。時間。未来への好奇心。
これから大人になる子ども。

置かれた状況はずいぶん違う。

でも、社会的なつながりが希薄という点においては共通している。生活パターンもけっこう似ているかもしれない。

自由だけど孤独

老人(定年退職した人)もフリーランスも、多くは社会的な基盤を持っていない。

社会的な基盤というのは、言い換えると所属する組織とも言える。

会社勤めをしている人からすれば、そこには面倒なことも多いだろう。僕も十分に体験してきた。

でも、組織を離れてみると、別の視点が備わってくる。
所属しているだけで社会的な欲求を得られるという環境は、フリーランスには持っていない。ある意味においては「特権」とすら言える。

フリーランスが、社会的なつながりを持つには、それを「自前」で調達する必要がある。努力を払わなければ、友好的な関係を維持するのも難しいだろう。

ある意味ではとても自由。だけど同じくらい孤独でもある。

会社員とフリーランスの違いとして、収入や税金などの経済的なことはよく言われている。
でも「社会的なつながりの有無」が当事者からするともっと大きかったりする。

「半自動的」に得られるつながりをもっているか、そうでないかの違いは、思いのほか大きい。まだ数ヶ月だけど辞めてみてわかったことの一つだ。

コミュニケーションの本質

コミュニケーションの本質は、お互いの存在を認め合うことだ。

社会的な欲求を満たすために必要なのは「自分が受け入れられている」という感覚。

会話(言葉)が占める割合はそれほど高くはない。感覚的な数値だけど、全体の2割もないのではないか。

人間のコミュニケーション(つながり)において、重要なのは「感覚」だと思う。自分が他者に認められて、受け入れられていると感じること。言葉がそこで果たしている役割は、思いのほか少ないことも理解してきた。

社会的なつながり。会社勤めをしていると、自分がそんなものを欲していることに気づかない。良くも悪くも常に満たされているものだし、頭を悩ませる問題は別のところにある。

でも、こうして会社を辞めてみると社会的欲求の重要性が分かる。「マズローの五段階欲求説」によれば、上位に位置する欲求。しかし満たされなければ健康に深刻な被害をもたらす。人間であれば誰もが持っている欲求。


会社員をやめると、人間関係に煩わされることはなくなる。その一方で、社会的なつながりも無くなってしまう。

フリーランスの人たちは、率先して集まりや会合に出かけて行っている印象がある。
あれは何も、仕事のタネを見つけに行こうとしているだけではないのだと思う。

社会的つながりを自分から作りにいく目的があるのだろう。受け入れられる場所を複数持つことで、自分の精神的な安定を図りにいっている面もあるのだと思う。

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