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インドロックダウン17日目。これまでの変遷、心境、生活の変化と、この先について。

今日はロックダウン後最後の買い出しに行ってきました。最後、というのは、ロックダウンが終わるからではなく、私たち家族が日本に帰国することが決まったからです。帰国は3日後。既に、残った食糧を豪華に使っての料理祭りに突入していますが、明日から本格的に帰国のための準備にとりかかろうと思います。その前に、今回のコロナウィルスの影響下の心境、生活がどうだったのかということについて、まとめておきたいと思い立ちました。いつかコロナの脅威が去ったあとに、あのときはこうだったなぁ、と自分で見返すために。

第1章:インドでも影響が出始める(2月26日~3月10日)

コロナウィルスが徐々にインド内でも影響を及ぼしはじめてきた頃。それでもモールも開いていて、生活は普通だった。2月26日にイラン、韓国、イタリアからの帰国者へ2週間の隔離を要請、またそれ以前から中国からは入国停止。27日に日本人のVisa on arrivalが停止に。28日の夜には学校からも「感染が広がっている国(日本含む)から帰った家族がいる生徒は2週間登校禁止」との連絡がくる。実は3月1日の東京マラソンにかけて27日から日本に帰ろうとしていた私。結局東京マラソンは一般参加は中止になり、帰る理由が薄れたものの、3月末で元いた企業に戻るプロボノスタッフがいたり、確定申告の書類を税理士さんに届ける新たなミッションがあったり、食糧調達をして帰ってきたいという家庭運営上の理由もあり、迷いつつ帰国する方向で準備。しかし、26日のインド政府からの隔離発表(なぜか日本が名指しから外れていたけど、次は日本だという予感+インド政府がどう動いてくるか不安)、またこの日仕事で緊急事案が持ち上がりすぐに対応が必要だったこと(飛行機に乗ってしまったらすぐ対応できない)、かつ、自分も喉の痛みがあったため、一度日本に行くとインドにスムーズに戻れなくなる可能性があるとみて、26日にキャンセルの判断。自分で持って帰るつもりだだった、発注済みの大量の食糧が母のもとに置き去りになることに。しかしもし日本に帰っていたら、子どもたちは学校にしばらく行けないことになるところだったのでそれは安堵。

3月から共用施設で外部講師を招いてやっているヨガ教室に朝通いはじめる。月~土の週6日やっているが、子どもたちを無事学校に送り出せた日(送迎についていかなくてよい日)に参加が限れらるため、毎日はいけない。はるさめも同じ先生が夕方週2回やってくれるキッズヨガに参加。そのはるさめのヨガを見守りにうろうろしていたら、日本人の親子と遭遇(ここに住んで初めて!)!そしてその次の日に、朝のヨガ教室で別の日本人女性と遭遇!ここに住んで3か月、今まで全く会わなかったなかった同じ敷地内に住む日本人の女性に2日間連続で繋がれてなんだか興奮。いま思えば、偶然とはいえ両方ともヨガがきっかけ。そしてこの2人も私たちより前からここに住んでいたけれどお互いを知らなかったという。この繋がりがロックダウン前に出来たことが本当に感謝。

第2章:ロックダウンへの序章(3月10日~3月22日)

州内でコロナによる死亡患者が出たことがきっかけだったと思うが、カルナータカ州は3月9日に、小学校等低学年の学校等を閉じることを命じ、娘2人が行く学校が次の日から休校に。

朝早く起きてお弁当を作る代わりに、お昼ご飯を作ること、子どもを起こしてオンラインでの授業を受けさせたり、それについてフォローすることに。実は子どもたちのオンライン授業の時間=私が仕事をしていた時間とバッチリかぶってしまい、急遽さまざまなミーティングをリスケしたり、夫に在宅勤務をお願いしたりしてしのぐ。また緊急事案のストレスとプレッシャーも心理的に大きく影響していて、イライラして子どもたちを怒鳴ることも増えていた気がする。そして、これをどうやって続けるんだ?という不安が重くのしかかる。子どもの学習も大事にしたいが、私の仕事時間確保が難しい。それもあって夫に在宅勤務をお願いし家にいてもらうと、今度はこれまで子どもには作って自分は適当に済ませていたお昼を、もうちょっとちゃんと作らなくてはというプレッシャーが生まれる。3時間半の時差なので、インドの午前中~お昼の時間に仕事ができないと、日本のビジネスアワーに仕事ができないというジレンマ。そんな中なんとか緊急案件資料を完成させる。

3月13日、起き抜けに確認したメッセージで完成させたと思った資料がそうはならかったショックから立ち直れないまま娘2人のZ00M授業にのぞみ、ちっともスクリーンに集中して参加してくれないはるさめにキレて途中でZoomを切ってしまった。夕方、髪の毛を切りに、モールに入っている美容室へ連れていく。かなり人がまばらで、モールのエレベーターを操作する人(ずっとエレベーターの中にいる)は、マスクをしていた。いつも繁盛している映画館もほとんどお客がいない。ドライバーさんによると、1人1人の席が離れている値段の高いシートだけ売っていて、一般席は売っていないからだ、とのこと。そして明日からショッピングモールを閉めるという発表が。

次の日3月14日にモールに行ったら、本当に閉まっていた。前の日に発表して次の日から休み。学校もそうだったが、なんでも急である。うちに来ているインド人のお手伝いさんでさえ「昨日発表だから日曜からだと思う。」と言っていたので向かってみたのだが、これこそインド人もびっくりの急展開である。食糧を買いに通っているスーパーがモールの中にあるため、あそこにある野菜や果物、賞味期限の短いヨーグルトたちなんかは、どうなるんだろう・・・と憂う。じっくりゆっくりそれらが腐っていくところを想像する。しかしモールが閉まる1週間前に私が、その前日に娘たちが髪を切ることが出来たのはタイミングとしてはギリギリセーフでラッキーだった。一方それを逃した夫は、12月にインドに来てから一度も散髪できずロングヘア―の域に現在入りつつある。

また3月から始めたヨガも、夫が朝家を出て会社に行き、子どもたちが学校に行かず家にいるため私が家を空けるわけにもいかず、子どもたちのオンラインラーニングもあるため、行けなくなってしまった。せっかくリズムが出来ていたのに、とても残念に思う。夕方のはるさめのキッズヨガは継続していたが、3月17日にアパートメント管理側から、共用施設を閉じるとの通達。これまでヨガをやっていた場所が使えなくなり、キッズヨガも休止。ヨガクラスがお休みになったのと反比例するようにこのヨガグループのワッツアップ(日本でいうLINEのようなSNS)のグループでのやりとりが活発に。

そして3月19日。夜8時にモディ首相が記者会見をするという。何が起きるのかドキドキである。既に3月22日から1週間、すべての飛行機の国際線を着陸をさせない、という発表があり、海外からの入国が事実上不可能に。実はインドのTVを全く見ていなかった&自分の家のテレビの操作方法すらよくわかっていなかったが、モディ首相が何をいうか極めて重要そうなため、お手伝いさんに一緒にチャンネルを確認してもらい、英語で見られるローカルニュースのチャンネルを確認。BBCとかCNNも見られるように。今までテレビは子どもたちのYouTube再生機と化していたが、この日からチャンネル争いならぬテレビに何をうつすか争いがはじまることに。記者会見はヒンディー語なので全く分からず、あとで英語の記事を確認した。次の日曜日は外出禁止であること、いまインドは危機にあること、5人以上の集まりを行わないように、また医療制度が発達している国すらもコロナには苦戦していること、だから日曜日は家にいて、子どたちの命を守ろう、と。この同じ日、インド保健省は、高齢者および10歳以下の子どもは家の中にいたほうが良いとの声明を発表。この時点ではまだコミュニティ内での感染はひろがってないとの認識。

子どもたちはこの頃毎日夕方になると敷地内の公園に出て遊んでいたので、明日は遊びにいけないよ、と伝える。夫は「首相が言ったこと、みんな聞くのかな?だって日本の場合を考えると・・・」とか言っていたが、ただでさえアジア系の人に対する目が厳しくなっているこのご時世。私はひとつもいやな目にあっていないが、同じアパートメントに住む日本人の人がやや高級めのスーパーで「中国人!」とおばちゃんに言われた、とLINEで報告してくれた。「インド人!」って言い返しますか、と返事したけれど、子どもたちにもそういう目にはできるだけあわせたくない。

3月20日の日記には、こんなことが書いてある。夫は会社、なんとか子どもたちのZOOMオンラインミーティングをこなし、お昼を食べさせてやっと仕事をしようとしているところに、キッチンに出してあった麩を見てはるさめが「お麩のおつゆがのみたい、つくって」と言ってくる。昼ごはん食べたばかりなので、じゃあ夜作るね、と約束したら納得してくれる。その直後、そらまめが同じことを言うので、同じように夜ごはんに作ることを約束するが「いまじゃなきゃやだ」とごねる。(妹のはるさめは我慢できるのに、お姉さんのお主はなぜ我慢できないのじゃ。)これに私がキレて「仕事してるの!」と怒鳴ってしまった、と。子どもたちが起きる前の早朝に起きて仕事をすればよく、朝6時からミーティング(日本時間9時半~)とかこの頃やっているのだが、ミーティングだと起きれるが自分だけでやればいいい仕事だと起きれない。この時期睡眠時間を削って健康を害すことも可能な限り避けたい。

そしてついに3月21日、それまで3月6日から連続更新を続けていたnoteの連続記録が、30秒ぐらいの差で途切れてしまう。がっくりくる。この日は午前中食糧調達に出かけ車で30分ぐらいの場所にある地元の人も行く八百屋+生肉+魚を売っているスーパーを2件はしごし、午後はやりきれなかったそらまめのオンライン提出の課題"Sink or float"を一緒にやっていた。ものを10個選び、何が浮かぶか何が浮かばないかを予測し、その予測を英語で言わせ(そらまめが日本で言う→私が英語にしてカタカナ表記→それをそらまめがひとつひとつものを紹介しながら読み上げるのをビデオにとる→アップロード)、ひとつひとつのものを写真にとり、実際に大きな桶に水をはって浮かぶか沈むかをやってみて、それを用意されているチャートに写真ごとにはりつけ、予測と実際の差異をわかるようにする。すべてiPadでの作業。そして予測と実際の差異は録音したのにうまくされておらず、もうそれはあきらめてアップロード。そこから晩御飯を作って食べた後に、noteの更新をしていた。インドの夜8時半が日本の夜中12時で、書く内容がどうもまとまらず、ほんとにちょっと過ぎてしまったのだ。

3月22日はJANTA CURFEWと呼ばれる外出禁止令。アパート内もほとんど人が歩いていない。うちも家族4人一歩も外に出ずにすごした。そして「今日は外出禁止で17時にはベランダに出て拍手しよう」という自動音声の電話がかかってきた。インドでは、コロナウィルスがはやり始めたことから、電話にいろいろな工夫がされてきた。電話をかけようとすると「ゴホン、ゴホン」と咳をする音がして、咳をするときのマナーみたいなのが自動で流れたりとかもあった。なんかこういう政府のリーチアウトの仕方にいちいちいろんな意味で驚く。そして、夕方17時から、5分間拍手をしようというモディ首相の言葉通り、ベランダに出てアパートの人たちが拍手、インドでよく使われている銀の皿やフライパンをカンカン鳴らす人、ベルを鳴らす人も。そうかー首相がやろうっていうとみんなこんな風にやるんだーへーと感心。

しかし救いもある。この頃、毎日のように日本から荷物が届いていた。母が私が持った帰るはずだった食糧をせっせと送ってくれていたのだ。これはありがたかった。子どもたちはお菓子が入っている入っていないに一喜一憂し、私はコメの到着に安堵、また乾燥なっとうや待っていた調味料たちに心躍った。しかし残念ながらロックダウン前にすべては届かず、米5キロ含め、母が送った小包4つは、インドのどこかでロックダウンがあけるのを待っている。多分。

第3章:ロックダウン混乱期と日本に帰るかの悩みが深い時期(3月23日~27日)

「緊急事態宣言を準備している」というニュースが数日前に流れる日本とはまさに正反対で、インドは発表からその実施のリードタイムが極めて短い。

3月23日に、3月25日から国内線をとめるというアナウンスがあった。実は日本からの便は欠航になっていたが、JALが臨時便をデリーから東京へはまだ飛ばしてるので、デリー経由なら日本に帰れる、というのがこの時の状態であった。この同じ日にフランスの友達からメッセージがあり、インド脱出できないの?と。もう国内線が25日から止まっちゃうから無理だ―と伝えると、その前にインド出れないの?フランスは大変なことになっているよ、と。

これに対してバンガロールの日本人コミュニティにも動きが出ていた。3月25日から国内線ストップの前に急遽帰国する人がちらほらいることを聞いた。私はといえば、うーん国内線止まったらもう選択肢ないから、ここにいるしかないよなぁという感じ。

そしてこの日から酒屋がしまりはじめる。うちはドライバーさんが「一週間ぐらい酒屋がしまるかも」っと警告してくれていたので、土曜日にワイン等買ってあったが、ほぼ突然アルコールを売っている場所がすべて閉まってしまい、そのままロックダウンに突入。そのため、ストックがない人続出。3週間のロックダウン、1週間にビール1本ペースです、なんて人も。

3月24日になると、夜8時にまたモディが記者会見をするらしい、とのこと。今度は何を言うんだ、とざわざわする。ニュースチャンネルは大きな数字で記者会見までのカウントダウンを出している。何時間も前から。その注目度ったらすごい。

今度はヒンディー語のスピーチを英語字幕に即座にしてくれるチャンネルを見つけることができたので、ほぼ同時に内容が理解できた。25分のスピーチ。長い。20時から25分のスピーチをして、24時に全国ロックダウン。人口12億の人たちに、家から出るな、4時間後から、と。え?食べ物確保とかどうしたらいいの?と心配になり、日本人仲間にどうすればいいのどうすればいいの?とおろおろLINEで尋ねる。みんな私より落ち着いていて「食料品は入手できるし、レストランもデリバリーする」と教えてくれる。

もう一度、繰り返すと、3月24日夜8時に発表して、その4時間後からロックダウン。

次の日。それを無視して何気なく、または本当に大事な用事があるのかもしれない外出している人に、事情を聞くでもなく、無差別のように、警察官がしなる鞭のような棒で、バイクにのっている人をおいかけ、バシバシ叩く映像がドライバーさんから送られてくる。このビデオをどういう意味で受け取ったらいいのか、見返しては自分の中でいくつかの答えを反芻する。同様の映像がテレビでも流れ、スクワットさせられる人とかもいる。恐怖を感じるとともに怒りを覚える私。これは明らかな人権侵害。

チェンナイでは車に乗っていたアジア系の人が襲われた的な情報もあったと聞き、なんと、、、と。

コロナが怖いんじゃなくて、警察が怖くて、みんな外に出られない。
たとえ食料を買いに行くのにも。

この頃から、日本に帰るのか、帰らないのかというのが深い悩みに転じる。夫の会社からもいろいろ連絡が頻繁にくるように。家族は日本に帰ることを推奨しはじめられた。

3月25日に私の悩みは何かのラインを超えて、同じ学校に子どもを行かせているママたちのLINEグループに、みなさんどうされますか?と投げかける。みんなどうしようか迷っているはずだから、その判断基準を知りたかった。やはり医療体制が不安なので、どうせかかるなら日本で、という考えの人、帰っても日本に家がないので、こちらに留まるつもりという人、もう会社から帰国命令が出ているという人。バンガロールから臨時便が出るのではないかという話もあり、それが出れば帰ります、という人もいた。

私も考え続けているが、2つの結論を30分ごとぐらいにいったりきたりする。コロナにかかってしまった場合のことを考えると日本のほうが安心。でもそもそもそこに行くまでの感染リスクもある。そして今のところそもそも帰国手段が閉ざされている。何も規制されていない日本より、思い切ってロックダウンしてしまったインドのほうがよっぽど安全という気もする。もし今コロナにかかっていなければ、少なくともここを動かない限り、かかる可能性は極めて低い。そもそも移動手段は車で、既にモールは大分前から閉まっていて、外の人との接点はスーパーに行くときぐらい。

そしてこの頃から東京でも急激に感染者の人数が増え始めた。しかも事務所の近くの病院で死亡者が出たため、会議を開き、これまで推奨だった在宅勤務を、全員完全在宅に切り替えるべく、体制整えに走った。といっても私はインドにいるので出来ることは限られる。転送用のIP電話番号を取得したりして、次の月曜から完全在宅になる方向でスタッフがみな動いた。これまで使っていた災害対策マニュアルは主に地震を想定しているため、このような感染症にはあてはまらないことが多い。そのためのガイドラインも制定することを決め、次の週には策定した。

そんな中私の中の思考は、「このままここに留まったほうがいい」という結論に振れている時間のほうが長くなっていった。いろんな人の意見も聞かせてもらい、夫とも話し、やはりいま移動するリスクのほうが高いという気がしたのである。しかしその結論は、週末を迎える前にあっさりくつがえされる。夫の会社から、本人を含む帰国指示が出たからだ。We have no choice.これには従わなくてはならない。しかし、帰国便が出るという想定があるものの、いつ出るのか、本当に出るのかわからない。ここで目標は「どう21日間のロックダウンをやり過ごすか」「日本に帰った場合の滞在先をどうするか」に変わった。

第4章:ロックダウン序盤(3月28日~4月6日)

そんな状況で迎えたロックダウン3日後の3月27日土曜日。私は食料品の買い出しに車でドライバーさんと出かけた。これは、通行許可証がとれたからだったが、どうやらそう出来たのはかなり早かったらしく、許可証がとれたので買い物に行くとLINEでつぶやいたところその許可証について多くの問い合わせをもらうことになった。

万が一暴動などが起きて今後全く買い物に行けないほど治安が悪くなっても大丈夫なように、今行っておこう、という気持ちもあった。まず、ここで通行許可証がもらえて車で買い物に行ける状況であることが、超超超ラッキーな状況。ドライバーさんがそもそも家から車のあるところまで来ることができない(その途中に警察に棒で打たれる可能性大のため)、アパートメント自体が外の人を入れることを許可しない、など、同じ日本人駐在員でも住む場所や会社の対応によってかなり差が。

そしてそもそも、ロックダウンする前から、バンガロールの中で私たちはめちゃくちゃ恵まれている生活をしている。そういう貧富の差が、残念ながらロックダウンの影響にもはっきりしっかり出ている。オンラインでレストランに注文を頼める人たちも恵まれている人たち。めちゃめちゃ困っている人たちがかなりいる、ということを自覚しながら。

そう、つくづく、恵まれていた。例えば以下。

<恵まれポイント>
・警備員がいる塀に囲われたアパートメントに住む
・敷地内は自由に行き来できるので朝や夕方はウォーキングに勤しむ人多し
・敷地内に小さいスーパーマーケットあり。水、野菜、その他食糧は手に入る。
・食品の保存、貯蔵能力が高い(ばかでかい冷凍庫1、冷蔵庫×2)
・ちょうど、日本からの食糧備蓄が追加されたタイミング。それを待っていた人は、ロックダウンで完全に止まってしまい、今あるものでの勝負に。

3月28日は実はうちにお客さんが来ることになっていた日。キャンセルすることになっていたが、どうせみな家にいなければいけないので、3家族のズーム飲み会を開催。それぞれの遅いお昼を食べながら、飲みながら、4時間ぐらい話す。ここでいろいろ貴重な情報をゲット。みな臨時便待ちなので、それがいつ出るのか、が関心事項であり、それが決まらないと日本の準備も出来ない中で、同じ境遇の家族といろいろなオプションを出し合い、話すことが出来たので、心の準備が出来た。

この後ぐらいから、私の体調がだんだん下り坂に。そして次の土曜日に底を打ち、日曜日から上向いてきた。このご時世なので病院にも行きたくないので、コロナウィルスの可能性も含めていろいろ調べまくる毎日だったが、熱も咳もないし味覚もある。結局、ああ多分、以前もやった胃腸系のこれだな、という結論に達し、以前と同じ方法で対応しはじめたところ、ほぼ回復。日本に帰る帰らないの決断が子どもたちの命を左右するかもしれないというストレスや、それ以外のもろもろが原因だったのかどうかもわからないが、とにかく底を脱した。

第5章 ロックダウン中盤と、春休み(4月7日~4月11日)


子どもたちの学校が今週1週間が休みだった。本当は、コロナがなければ、私たちは今週はスペインでピンチョスをつまんでバカンスを楽しんているはずだった。いまスペインはそれどころではない。なんとか踏ん張ってほしい。

いま、コロナによって準備に時間をかけてきことが一瞬で飛んだ残念さを大小あれどいま誰もが抱えていると思う。日本の場合は卒業式などのシーズンに学校が急に休みになったりして本当になんというか可哀想であった。それに比べたら小さいものかもしれないけれど、この旅行もそうで、私がかなり時間を使って下調べをし、プランを立てたものだった。日本に2月末に帰る計画も、短い滞在時間をそれこそ分刻みのスケジュールでいかに効率的に動くかを何度も考えてシュミレーションしていた。まぁそれは小さいことといえば小さいことで、私の勤めるNGOでも大きな計画がいくつかり、準備にかなり時間をかけていたにもかかわらず、実行できなかったことがあった。悔しい。残念すぎる。あの計画に割いた時間はなんだっんだ感はどうしてもぬぐえない。でも時間は戻らない。一旦豪勢に嘆いて、嘆ききって、次に進むしかない。

今週は子どもたちの授業がないため、私の気持ちの余裕があるのと、臨時便の予約がとれてやっと帰国自体が確定し、いよいよ帰国する日がが迫ってきているので、計画的にいまある食糧を賞味期限がもたないものから消費していくというミッションがあり、料理祭りになっている。昨日は12年前に結婚して多分はじめて、とんかつを揚げた。そして今日の昼はかつどん。これもはじめてつくった。

そして不思議と、料理が苦痛ではない。

どうしても料理が好きになれないと嘆いたことがあった私だったけれど、何かがちょっと違う。もしかしたらそれは、夫の存在かもしれない。普段、コロナ前は、夫の帰りが8時以降になる日が多く(ひどい渋滞に巻き込まれるため)、出来たてを食べてほしいのに、それがなかなかかなわない。でも今は、みんな家にいて、ごはんだよーと声をかければ、そこに夫がいて、お皿を出したり準備を一緒にしてくれる。温かい出来たてを、一緒に食べれる。私が「今日もまっとうな日本食だわー」とアピールするので、おいしいといってくれる。

そらまめとはるさめは仲良く遊ぶしけんかもする。私もいまだにイラっとしてちょっといじわるなことを言ってそらまめを泣かせたりしている。先が見通せない中、日本の滞在先含めいろんな判断をしなければならないので、夫と意見が合わないところもある。

でも、こんなにずっと一緒にいるのに、そのこと自体はストレスではないことに気づいた。何気ないはるさめのひとことに成長とおもしろみを感じる瞬間や、次々と生み出されるそらまめの工作作品に感心したり(制作過程で出たごみを自分で片づけてくれればなおよし)、すっかり毎日の日課にほぼなりつつあるタピオカづくりを子どもたちとしてくれる夫に感謝したりしている。スペインには行けなかったけど、この1週間の休みで、自分が家族を自分が思っていた以上に好きなことに気づいた。これはなかなかの財産かもしれない。

そして来週から、日本。まったく違う世界が私たちを待っている。まずは2週間、おとなしくこもっていられるように、明日からパッキング。そして次にいつ戻ってこれるのかわからない、このインドの家の、あり対策、停電対策、お手伝いさんへのモロモロひきつぎ。そして引き続きの料理祭り+機内食が出ないかもしれないので飛行機の中で食べれるものの準備である。

ということで、予想外の展開で、インドでの生活が120日を迎えるところで一旦途切れてしまうことになった。

インドの生活は日本の生活とくらべてダウングレードになってしまうと感じる人もいるという話を夫にされたとき、自分が全くそう思っておらず、むしろずっと良い生活と思っていることに気づいた。これは、そもそも私の「インド」想定が過去20年のインドとの経験から来ていて、たとえば公共施設のトイレにトイレットペーパーがないことを当たり前ととらえられる自分と、なんでないんだ!と思ってしまう人とは、同じような生活をしていても感じ方にかなりの差があるのかもしれない。

少々不便はあるけれど、私がそれを小さいことと思えるほど、かなりこちらの生活が気に入っている。ヨガもヒンディー語もカンナダ語もまだぜんぜん習得できてないし、もっともっとインドっぽいことを体験したい、インドのことを知りたい、と思っている。

だからまた戻ってくることを楽しみにしながら、来週日本に帰ろうと思う。




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