蜘蛛の糸

2021/06/06

長澤知之さんの「蜘蛛の糸」という曲を、バイト帰り、公園で聴く。小さい部屋の中にいる自分と蜘蛛のことから、宇宙まで広がっていく曲。なんだかこの曲がすごく自分と重なって、感傷的な気分に浸っていた。

公園のベンチに座ろうと思ったら、高校生くらいのカップルが座っていた。思わずぼくは目を逸らしてしまった。その場所には、横並びのベンチが4つくらいあって、いつもは知らない人が座っていてもそこからちょっと遠めのベンチに座る。でも、なんだかこの2人の美しい世界にぼくという存在が不似合いな気がして、そこには座れなかった。この輝かしい青春を過ごしている人々に、一点の影も落としてはならない。ぼくだって彼と全く同じだった時があったはずなのに、すごく眩しく思えたんだ。

池の反対側から、点になった2人を眺めていた。彼らは、長い間そこから動かなかった。会話の内容も、表情も、何も分からないが、すごく楽しそうに見えた。ふと下に目をやると、池に魚が浮いていた。どうやら、死んでしまっているみたいだった。この世の中に救えるものなどなく、ぼくもこうやって死んでいくだけなのか、なんてちょっと暗いことを考える。その時、歌詞が頭の中に流れてきた。

僕は眉間にシワを寄せる 格差社会の末端で
窓の外をふと見ると虹…虹!
甘い甘い展望とロマン しっかり立ててしまう浅瀬ん中
泳げないことにムカついてる 溺れることも 何もできずに
ただ浮かばない

なんかハッとして、曲を最初からもう1度聴いてしまった。希望を持って生きるということは、蜘蛛の糸を掴むようなものだ。色んなことに絶望して、その結果得るものを人生経験と言うけれど、その結果諦めてしまったら緩やかな死に繋がるだけだ。宇宙や、自然や、社会。壮大なたくさんのものがぼくらを包み込んでいて、その中ではちっぽけな存在であることは間違いない。それでも、包み込まれているものの先を信じて、奇跡を待つことの美しさ。

思えば、あの高校生が輝いて見えたのも、希望を抱いているように見えたからだ。彼らのバックグラウンドをぼくは知らないし、彼の人生は絶望かもしれないけれど、ぼくには希望が透けて見えた。根拠もないし、多分そんなことないのだろうけれど、彼の人生には祝福しか待っていないように見えた。それは、人生経験が少ないからこそ純粋に信じられるもののおかげなんだろう。

人生経験が増えていくことは絶望ではない。思えばいつからか、歳をとることが嫌になってきてしまっている。誕生日も手放しで喜べなくなってしまった。でも、人生の有限さを嘆くよりも、未だ叶っていないことを夢見た方が、きっと魂が輝く気がする。そうしたらきっと、彼らと真っ向から向かい合える日がまた来るかな。

明日は発表がある。楽しみ。


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