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死んだ人もわたしたちのこころの中で生きているー幽霊体験を読み解くー福島のこころの支援 現場ルポ⑥

「ちょっと読むのにエネルギーいります」
「つーか根が真面目なのかね。文章が固いです。」

 数少ない読者様からの率直なご感想にばっちり落ち込み、10日ほど自己否定と抑うつ状態に陥ってしまい、先週はついに書き逃してしまった。そうなると、書いたものがどれもひどくつまらないと感じ、とてもアップする気にならなくなる。今度はそのことで「だからお前は続かない、ダメな奴だ」「論文のみならず、こんな文章すらも書けないなんて死んだ方がましだな。」と誰かの声が頭の中で聞こえて、さらに落ち込むという負のループが巡る。注目すべき点は、他の方からポジティブなフィードバックもあるのにもかかわらず、それらはこのネガティブなこころの声によってかき消されてしまうということだ。人はこうやって現実そのものより、自分のこころの声に支配されてしまうのだ。

 そうして、無理にポジティブに思考を変えることもせず、順調に抑うつ状態を経過して、ようやく得た結論は「率直な意見をもらえるうちが花」ってことだ。こんな風にいつも四苦八苦して凡庸な結論にたどりつく。いやいや、でもこの認識への過程が大事ということにしておこう。本当に感じていること、こころから出てくる言葉がなによりも大切だし、相手にもそれを言ってもらっているうちはなんとかなる。本音が言えなくなったら人はおしまいだ。

 結局、なるべく思ったまま、生成りで書いてみることに落ち着いた。生成りっていうのはなにも手を加えない状態のことだ。精神分析では、「自由連想」という方法があり、始祖フロイトが試行錯誤の末に「思いついたものを思いついたままに話してもらう」という方法にたどりついた。それは語っていることそのものよりも、語り方や語っていることのつながりから、その向こう側や奥にあるその人の本体を分析していくという方法だ。言葉や文章は本体から紡ぎだされている派生物というわけだ。つまりここで私がこうやって自由連想を書いていけば、読者諸氏は私の思考がどう連鎖するか、どんな言葉を選択し、どんな欲望や葛藤があるのかに関する情報を得ていることになる。たとえば、「こいつ臨床心理士にしてはネガティブで落ち込みやすいんだな」とか感じるかもしれない。あるいは冒頭にも述べたが「根が真面目で応用性がないな」とかかもしれない。さらに「人の反応を結構気にしてんだな」とかもそうだろう。ともかくそうやって書いたものを通して、読者にはなにかの連想が生み出され、その交差するところに、その人に対する一定の理解が生まれていく。これはまた、機会があれば触れたいことだが、その継続的な積み重ねが精神分析であり、人のこころを知っていくということだと私は思っている。

 とかなんとか書いている最中、私の脳裏には、祖父の書斎の横で座っている小学生の自分の姿がよみがえっている。私の祖父はそんなに売れていない?小説家であり、「プロレタリア文学」というのを書いていた。細かく言えば、プロレタリアートの農民文学というらしく、その小説は、地元富山の農民の、すなわち祖父自身の私生活をとことん描いた私小説だった。おそらく、その現実を描くことによって、社会の矛盾やら抑圧やら搾取やらの構造を明らかにするといったことが「プロレタリアート」なのだろう。

 ともあれ、私が富山の実家に行くと祖父は6時ちょうどに起きて台所に立ち、トーストとスクランブルエッグとサラダという定番の朝食を自ら作って、私たちに振る舞ってくれた。それを食べ終わると、新聞に詳細に目を通した後に、書斎の机の前に正座して、難しい顔をして原稿用紙の前に座っていた。私はその横で祖父が原稿を書いているのを見ているのが好きだった。祖父は孫の私に対してその難しい顔を一切崩さず「君は最近はどういうことを考えているのだね」などと小学生がとても答えにくいことを尋ねてきた。あるいは「梶井(基次郎)はね。」とか「武者小路がね。」という親交のあった作家の話をしてくれたりした。私は「君は」などと孫に対しておおよそ使わない口調で話してくれる祖父がカッコよくみえ、大人扱いしてくれることがなんだかうれしくて、そして教科書に出てくる作家の生の話を興味本位で聴くのも好きだった。祖父が書き上げたピカピカの原稿の初の読み手になるという役目を預かったりしたときは興奮したものだ。わたしの目からは、その内容はひたすら自分について書かれた私小説で、祖父の現在あるいは過去の体験が詳細にかつユーモアと哀しみを伴って書かれてるように見えた。

 後に私が大学生になって、少しは話が分かるようになって「なんでおじいちゃんはこんなに自分のことを率直に書けるの?」と訊いたとき、90歳の祖父が教えてくれたことは今でもよく覚えている。
『これはイギリスの作家トマス・ハーディの言葉なんだがね。「この小さな田舎の村で起こっていることは世界で起こっていることだ。」僕はこの言葉に真実があると思っている。だから自分のこと、自分の周囲で起こっていることをそのまま書くんだよ。』
言葉はこのままでないが、大体こういう趣旨だったと思う。
―自分の周りで起こっていることは世界で起こっていることだ。
ふむ。

何故この記憶がここでよみがえってきたのだろう?
―そうか、そういうことだ。
「起こっていることを感じていることをそのまま書くんだよ。」
  わたしのこころの中の祖父が私に向かって言っている。私は気を取り直す。私は福島のこの町で起こっていることを、そしてそれに触れたときに私のこころの中に起こってくることをそのまま書けばいいのだ。自分のこころの中に祖父が息づいているのを感じる。プロレタリアートの血なのだろうか?それはよくわからないが。

 もう一つ触れておこう。こうして今回は「こころの中の祖父」が私を救ってくれたわけだが、人のこころの中には自分以外の人がこのように“生きている”と言えると私は思っている。私が祖父のように文章を書くのも、ピンチの時に祖父を思い出すのも、おそらく、私たちのこころには今までのさまざまな人との関係が経験として積み重なっているからだ。たとえ、その相手が実際には亡くなっていても、私たちには、その人との関係が体験されて刻まれている。
 言わば私たちのこころは、生まれつきの自分のこころの部分があるとしても、それに加えた様々に出会った人々との経験と記憶が積み重なってできがっている、と言ってよいだろう。精神分析ではこれを「内的対象」と呼ぶのだが、このこころの中の対象は、複数同時に動いているのだ。たとえば、私で言えば、祖父の言葉に対して「この子はそんな才能はないから」などとネガティブに私を抑えつけ、屈服させようとする別の対象が存在している。今は祖父が勝っていても、その対象も一定の力を持っていて私に影響を与えているのがわかる。こころは複数であり、そしてそれぞれが同時に動き、時には協力し、時に矛盾し、そして時には生死をかけた戦争にもなる。そしてその戦いの果てに自死を選ぶことも起こりうるし、極端には人を殺めることもありえるし、はたまた、その矛盾や戦いに持ちこたえられず自分のこころが崩壊してしまうこともある。
 
 これらは、やや難しい話になるが、今後を読み進める上で重要になる話だ。震災・原発事故という大きな現実のピンチに対して、こころがどのように傷つき、そしてそれにどのように対処していくのか?同じように見える出来事や体験が個々人によって感じ方や反応がどうして違ってくるのか?それは、これらのその人の中に生きている人々=内的対象の相互の動きが鍵になる。一人の人の心の中に複数の人が生きていて、それが言わば脳内会議を絶えず開いている、といったイメージがまずは伝わるといい。

 被災地では、夢のお告げや臨死体験、そして死んだ人の幽霊の話が語られることが普段より格段に多い。ビビりの私はそれに怖くもなるのだが、それらの話の肝は実はこの視点によってその意味が見えてくる。死んだ人が私たちのこころの中で今も生き続けているのだ。

 ともかく、書き進めていこう。人のプライバシーに細心の注意をはらっていくとして、まずはわたしのプライバシー開示には私が許可をだそう。このように遠回りだったり、うざったく思えるかもしれないが、なるべく正確に起こっていることを記していくことにしよう。

話は大きく脱線してひと段落。こころは現場へと戻っていく。

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