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ガイドはきっかけを作る場所~平和記念公園ガイド MASAさん~

はじめに


2024年8月6日。
広島は79回目の原爆投下の日を迎える。

被爆者の平均年齢は85歳を超え、被爆体験を聞く機会が減っている。平和記念公園のガイドをするボランティア団体も、後継者不足などで活動の継続が困難だ。

しかし、苦しい状況でも諦めずに原爆と平和を語り継ぐ若者がいる。

彼の名前は村上正晃さん。通称、MASAさん

今回の記事では、MASAさんがガイドで大切にしていること、今年ガイドを再開した経緯などに焦点をあてる。

村上正晃さん(MASAさん)のプロフィール

1993年広島県尾道市瀬戸田町出身。
大学4年生の時、英語を勉強したくて訪れた平和記念公園で、原爆についての無知を実感しガイドを始める。被爆者や戦争経験者が減少する中で、若い世代が引き継がなければならない想いから大学卒業後もアルバイトをしながらガイドを続けた。メディアでも取り上げられ、現在サッカー日本代表の森保一 監督をガイドしたこともある。

広島の新サッカースタジアム、エディオンピースウイング広島の開業を機にガイドを再開。サンフレッチェ広島の試合がある日を中心に、不定期で平和記念公園のガイドを行っている。

2024年7月末現在で約3万人をガイド。また、ブログ『25歳が原爆を伝えるガイド日記』、Xで情報発信も行っている。



知らないことばかりだった

MASAさんは1993年2月、広島県尾道市瀬戸田町に生まれた。小学校から高校まで平和学習を受けてきた。しかし、この頃は原爆や平和と聞いても、自分のこととして捉えられず、さほど関心を抱いていなかった。

広島市内の大学に進学後、英語を勉強したいと考えていた。そんな折、友人に誘われ平和記念公園へ。最初は外国人観光客と一緒にツルを折っていた。

ツルを折るMASAさん(右)

ただ、そこで胎内被爆者の三登浩成さんをはじめとするガイドの方々の話を聞いた。
MASAさんは「知らないことばかりだった」と語るほど、原爆のことを知らなくてショックを受けた。悔しくて、原爆のことを学び始めた。そして、学んだことを伝えていこうと思い、平和記念公園のガイドを始めた。

相手に伝わるガイドがしたい

MASAさんはガイドを始めた頃は失敗も多かったと語る。観光客が話を聞いてくれなかったり、説明が上手く伝わらなかったりした。

MASAさんが特に難しいと感じたポイントが2つある
・ガイドの内容がどうすれば相手に伝わるか
・感情をどのくらい込めればいいか

1点目を振り返る。
「知識が豊富な人もいれば、全く知らない人もいる。質問しながら相手の知識がどれだけあるか確認し、少しずつガイドの内容や話し方を変えていた。その上で、自分のメッセージや考えてほしいことを入れるようにした。

まずは聞き手のことを把握する。その上で、ガイドブックなどに書かれていない、MASAさんの思いを伝えられるかに努めていた。

ガイドを始めた頃のMASAさん①

2点目はこのように語った。
「勉強すると、伝えたい気持ちや自分の考えが大きくなるので、それを抑える難しさはあった。結構感情的にガイドをしたときもあった。だからといって、感情的になりすぎるのは良くないし、誰が聞いても理解しやすいようにしていたかな。

感情の入れ具合を調整するのが大変だったそうだ。でも感情を入れることで、何かを伝えたい気持ちが聞き手に伝わるため、より心に響く。

ガイドを始めた頃のMASAさん②


MASAさんはガイドを続ける中でやり方を工夫し、次第に地元の新聞社などのメディアでも取り上げられるようになった。

森保監督をガイド

MASAさんは地元のプロサッカーチーム、サンフレッチェ広島の大ファン。
サンフレッチェ広島の関係者を案内したときは、もちろん嬉しかった。

サンフレッチェ広島のスタジアムを訪れたMASAさん(左)

案内した人の中で印象に残ったのが、森保一監督。現在のサッカー日本代表監督だが、ガイドをした時はサンフレッチェ広島で監督を務めていた。
森保監督はサンフレ監督時代には、地元戦当日に平和記念公園周辺を歩き、原爆で亡くなった犠牲者に祈りを捧げていたそうだ。

謙虚で聞き上手な人柄の森保監督をMASAさんはガイドすることになった。時間の都合で、普段のコースを回りきれなかった。でも森保監督はガイドを受けた後、このように語っていた。


「今までいろんな舞台で広島から平和を発信と言ってきたけど知らないことばかりだった。ここでこうやって毎日ボランティアされている方々のことも。恥ずかしいです。」

森保一監督(右)と。

自分は「平和を考えてもらうきっかけを作る」。森保監督の言葉から、MASAさんは自分がガイドをする役割に気づかされた。

また、ガイドの客層は県外から来た人が多く、広島の人は少ないそうだ。でも、MASAさんは本当は広島の人に聞いてほしいと思っている。広島の人は、幼少期から平和学習で原爆や平和のことを学ぶので、自分は知っていると思いがちだ。当たり前すぎて、興味が持てなくなっているかもしれない。

「広島の人は、声をかけても大体「広島なので大丈夫です」と返ってくる。ただ県外の友人が来るとき一緒に聞いてくれることがあって、隣で聞いていたらどんどん表情が変わってきたんだよね。」

また、これまでのガイドを振り返ると、原爆や平和に関心がない人に話す回数が圧倒的に多かった。でも、「参加者の表情がどんどん真剣になっていくところには、すごくやりがいを感じている」と語っていた。

MASAさんの大事な場所

MASAさんに平和記念公園のことを聞いてみた。特に思い入れのある2つの場所を語ってくれた。

まず1つ目は原爆ドーム。原爆ドームは有名な世界遺産で、たくさんの観光客が来る場所だ。

夜の原爆ドーム

「原爆ドームは平和記念公園の象徴で、広島に来た人がまず行きたい場所。路面電車の電停が近くてアクセスもいいし、自分がいつも横でガイドしていたので、とても愛着がある。だから、原爆ドームは絶対伝えているね。」

単に有名なだけでなく、MASAさんの慣れ親しんだ場所でもある。

続いて、2つ目は原爆供養塔
原爆ドームと比べ知名度は低く、立ち寄る観光客も少ない。初めて名前を聞く人も多いだろう。

なぜもう一つが原爆供養塔なのだろうか。

原爆供養塔
この地下に約7万人分の遺骨が納められている。

「原爆ドームと違い、原爆供養塔はあまり人が行かない場所。だけど原爆で亡くなった人々の遺骨が置かれた場所だから、公園内で一番大事な場所だと思っている。たくさんの人に訪れてほしくて、供養塔の説明は絶対してるかな。」

そう、原爆供養塔は原爆で亡くなった人々のお墓なのだ。
多くの人に知ってもらいたいとMASAさんは改めて、強調していた。

また、平和記念公園内で詳しく説明する場所はMASAさん自身が最初に回ったときの思いを重視している。
「自分が初めて知ったときに驚いた感情などを大事にしているかな。」

MASAさんにしかできないガイドをするように努めていた。

6年振りのガイド

MASAさんは2018年頃からガイドを休養。その後香川県に移住。周囲に同様の活動をしている人が少なく、平和や原爆を考える機会は少なくなった。それでも平和に関する記事を読むなど、情報収集は欠かさなかった。

転機となったのは、2024年2月。広島市に新たなサッカースタジアム、エディオンピースウイング広島が開業したことだ。平和を願うスタジアムのもと、自分にできることがしたい。MASAさんは再び動き出した。

エディオンピースウイング広島

2024年4月からサンフレッチェ広島のホームゲームが開催される日を中心に不定期で夜にガイドを行っている。6年間のブランクがあるとはいえ、以前のようにすんなり説明できた。ガイドの内容もあまり変わっていない。

ただ、夜の平和記念公園は人通りが少なく、ガイドを再開したばかりの頃は参加者が0人だったこともあった。
それでも、Xの発信の甲斐もあり、7月中旬にガイドをしたときは、5〜6人が聞いてくれた。ガイドに参加する人は県外から来るアウェイチームのサポーターが多い。少しずつ平和の種は蒔かれている。

また、私生活では長女が生まれ、MASAさんは父親になった。ガイドの中でも、今まで以上に命の大切さを重視するようになった。

「戦争の犠牲になるのは罪のない人たち。特に子どもたちが戦争でなくなることは、絶対にあってはいけない。」

長女とともにピースウイングへ。

実際、ウクライナやガザでは多数の民間人が犠牲になっている。その中には多くの子どもたちも含まれている。自分の子供ができてから、ますます他国の紛争といったニュースに敏感になった。

MASAさんの平和への思い

最後に、MASAさんはガイドを通じ、参加者がどうなってほしいかメッセージをくれた。

「サッカーができるのは平和だからできること。だけど、決してそれは当たり前のことじゃない。平和が当たり前じゃないことをより多くの人が考えて、まずは知ることから始めていってほしいし、知るきっかけ作りを僕のガイドでできたら嬉しいな。サッカーに限らず、日常生活でも「自分が幸せで良かった」だけではなく、自分たちの外にある平和じゃない部分にもしっかり目を向けてほしいね。」

今を生きる上で大切なことを語ってくれたMASAさん。改めて、取材させていただきありがとうございます。

次回、8月10日(土)と8月11日(日)の夜にガイドを行う予定だ。ぜひ広島に来たらMASAさんのガイドで、平和について考えるきっかけを作ってほしい。

編集後記

MASAさんと私の出会いは9年前に遡る。以前紹介したインドへのスタディーツアーに一緒に参加したのが、MASAさんだった。

当時、高校生の私と大学卒業したばかりのMASAさん。その時から精力的にガイドをされていて、新聞記事でも取り上げられていた。普通に高校生活をしていたら、絶対に会えない人に会えた。

その6年後、私が大学を卒業した頃、広島にいる友人の紹介で修学旅行生向けのガイドをするようになった。その時脳裏に浮かんだのは、MASAさん。
紛れもなく若き日の私に影響を与えた人だ。

真ん中がMASAさん、一番右が私。

今、私はガイドではなくライターをやっているが、両方とも人に何かを伝える仕事。共通する部分を感じながらお話を聞いた。

そんなMASAさんがガイドに復帰したことが何よりも嬉しい。今度は友達を連れて原爆ドームの下に行きます!これからもたくさんの人に平和の種を蒔いてください!


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