記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

Strange Life Of Ivan Osokin (イワン・オソキンの不可思議なる人生)[読書録]

※[注意]この記事はTVアニメ「サマータイムレンダ」と小説「Strange Life Of Ivan Osokin」のネタバレを含みます


はじめに

TVアニメ「サマータイムレンダ」の最終回で、実在する二つの文学作品への言及がありました。一つは詩、そしてもう一つが今回紹介する「Strange Life Of Iwan Osokin」という小説。作中で出てきたのはほんの一瞬でしたが、妙に気になったので日本語訳をされたものを探して購入し読んでみました。

本書の概要

表紙の文章から下記に引用します。

P・D・ウスペンスキーの処女作(1915年ロシア語版)にして遺作(1947年英語版)。二つの版から二通りの結末を収録。その思想の出発点と帰着点を明らかにする。

「イワン・オソキンの不可思議なる人生」 P・D・ウスペンスキー(著) 郷尚文(訳)

ウスペンスキーが1947年に亡くなったのと同じ月に出た英語版は、最後の二章分が大幅に改訂されていたとのことから、本書の結末は二通り存在します。そしてこの訳書には、その両方の結末が収録されています。
また、ウスペンスキーの他の著書のほとんどが、思想や知識を扱ったものであることに対して、本書は彼のプライベートな部分を直接的に扱った、例外的な一冊なのだそうです。
100年以上前の作品ですが、内容的にはサマータイムレンダと共通して、青春・恋愛小説の体裁を持ったループもの小説となっています。

著者について

ピョートル・デミアノヴィッチ・ウスペンスキー(Пётр Демьянович Успенский、1878年3月4日 - 1947年10月2日)は、ロシアの神秘思想家。モスクワでジャーナリストとして活躍する傍ら、神秘学、数学、哲学などの研究を行い著作を著す。神秘思想家グルジエフとの出会いは彼に多大な影響を与えた。

出典:Wikipedia

あらすじ

舞台は1902年4月のモスクワ、クールスキー駅。26歳の青年オソキンが、交際中の女性ズィネイダとその母のクリミアへの旅立ちを見送るところから始まります。

第一章 ~ 第三章

オソキンは、ズィネイダに一緒に来て欲しいと誘われますが、彼は一緒に旅をする金銭を持ち合わせておらず、無理に行ったとしても、クリミアで一丁前の街の青年らしい遊びや暮らしぶりをできないであろうことに耐えられない自身のプライドの高さから、結局決断ができないままモスクワに残る選択をします。ズィネイダには2, 3ヶ月以内であれば待っていると告げられますが、結局手紙を書くだけで行くことは叶わず、とうとう向こうからの手紙は途絶え、さらには彼女の兄(モスクワに残っている)から今度ズィネイダが別の相手と結婚することになったと言い渡されます。

第四章 ~ 第五章

全てが上手くいかず身寄りも無いオソキンは、一発だけ弾を込めた拳銃をポケットに忍ばせ、知り合いの親切な魔術師のもとを訪れます。そこで魔術師に、自分の人生が狂い始めた12年前の中等部退学前からやり直させてくれと冗談混じりに頼んでみたところ、気づいた時には本当に12年前に戻されてしまっていました。彼の望み通りに、彼の記憶はそのままに。

第六章 ~ 第二十六章

中等部では、素行不良と行き過ぎたいたずらによって退学に追い込まれたこと。
自分の将来を案じて病気になり早死にしてしまった母親のこと。
身寄りのなくなった自分を引き取ってくれた優しい叔父の家で、彼の後見を受けた少女タネチカと男女の関係を持ったことがバレてしまい、叔父を怒らせ、家を追い出されて軍事学校へ入れられたこと。
軍事学校では門限を何度も破り、最後にはパーティで知り合った女の誘いに抗えず、また門限を破って軍事学校も退学になったこと。
不意に叔母から相続した大金で旅に出るも、金持ちの友達とのルーレットの賭けで大負けして一文無しになったこと。
行く当てもなくモスクワに戻り、近所に住む軍事学校時代の友人の妹と仲良くなって恋仲になるも、クリミア行きの列車に一緒に乗って行けなかったこと。
すべての結末を知った上でもう一度14歳からやり直したのに、以上のことがそっくりそのまま、何の変化も起こせずに同じ運命を辿ってしまったこと…。
しかし、オソキンは始めこそ一度目の人生で経験したことを覚えていましたが、何も変えられない自身の不甲斐なさ、情けなさ、無力さから逃げるためか、徐々に一度目の記憶が薄れてしまっているのでした。

【第一の結末(1915年ロシア語版より)】
第二十七章 ~ 第二十八章

オソキンは拳銃に一発だけ弾を込め、ポケットに忍ばすと、コートを羽織り魔術師のもとを訪れていました。「最悪だったこの数年でもやり直せたら…」とつぶやくと、中等学校からすべて一度やり直し、何も変えられずに元に戻ってきてしまったことを思い出し始め、その事実に恐怖します。「やり直してもまた元に戻ってしまうのであればどうしたら良いのか…」と魔術師に尋ねると、その老人は誰にも人生で一度だけしか言わないことだと前置きをして言いました。
「お前をできるだけ助けてやりたいと思っているが、求められていないことを与えることはできない。何も求めないものが何かを得るということはないのだ。本当に必要なことを求められるようになりなさい。今私がこんなことをお前に言えるのも、お前がどうすれば良いかと尋ねたからだ。人生を変えたいのなら、まずは自分を変えなければならない。自分で考え、自分には何が欠けているか、自分は何を願うのか、自分は何を変えなければならないのかを理解しなさい。自分に満足しないことを学びなさい。」(本書から簡潔にまとめて引用)
これを聞くとオソキンは、同じ結末に戻ってしまう過去に戻ることはもう辞めて、人生を真剣に考え、奮闘し、生きることを決意し、物語は幕を閉じます。

【第二の結末(1947年英語版より)】
第二十七章 ~ 第二十八章

(第一の結末と同じようにことは進み、同じようにオソキンはこれからを真剣に生きることを決意します)
「お前が生きることに決めたなら…」と、魔術師が続けて言うには、ズィネイダの結婚は破棄されたのだと言うのです。オソキンは結局、彼女のことを理解しきれておらず、結婚の話はすべてお芝居で、それはズィネイダのひとときの気晴らしだったのだと理解します。そうであれば、今すぐにでもズィネイダのもとへ向かいたいオソキンですが、このまま決意だけが胸にあってもまた同じようなことを繰り返すのだと諭されます。では、どうすれば良いのか?魔術師に尋ねると魔術師は言いました。
「結局自分一人の努力だけでは何も変えることはできない。助けを求めなければいけないことを理解することだ。私はお前を助けられる。そして、お前は犠牲を払わなくてはならない。原因を作らずして結果を得ることはできないのだ。お前の人生の二十年あるいは十五年でも十分だが、それを私に預け、その間私の言う通りに動いて役に立つことだ。この一定の期間を過ぎたときには、お前はお前の知識を自身のために使えるようになっているだろう。」(本書から簡潔にまとめて引用)
その決心までにしばしの猶予をもらいオソキンは考えました。魔術師の言うように十五年に渡り自分の人生を預ければ、ズィネイダを失うことになる。しかし、自分を魔術師に預けなくても、同じようにズィネイダを失うことに変わりはないだろう。結局、どの道へ行っても何かを失うことにはなるのだ。
「いずれにせよ、明日…」
目覚めようとしているモスクワの町を歩き、家に向かって歩いていく彼は、特別に鮮やかな感覚を伴った想いで満たされ、物語は幕を閉じます。

感想

中等部から人生をやり直したオソキンは、結局何も改善できないまま元に戻ってきてしまいましたが、この小説が言いたいことは最後の二章に詰まっているのだと思います。
実際のところ、人生において自分が何を求めているのかすら分かっていない人がほとんどで、そのことについて深く考えもせず皆死んでいってしまっている。自分の人生を変えたい、より良いものにしたいと願うのであれば、自分のことを深く知り、自分には何ができて何が欠けているのか、自分は具体的に何を求めているのか、それらがはっきりと分かってから、ようやくそこへ近づくために何をしたら良いのか考え始めることができるようになる。そして、常に自分に満足することなく、それについて考え続けることが重要だと説いています。
また、英語版の第二の結末ではそれに加え、自分以外の他者の助けを借りることが不可欠だと言っています。他者の役に立ち、献身することで、結果的に自身の人生の手助けにもなってくれる。他者との関わりも重要なのだということなのでしょう。初版から30年以上もの歳月の中で自身の人生経験を通じて、そういった確信を持つように心境の変化があったのだと見て取ることができます。

気軽に見始められるアニメ「サマータイムレンダ」から派生して、思いもよらず人生の深いところを見つめ直させられる、身につまされるような衝撃を余韻に残す作品であると思いました。

また、六章〜二十六章は、内容のピックアップだけで大分端折ってしまいましたが、ここにはオソキンの身に何が起こっていたのか、その詳細な経験が描かれています。ここをじっくりと読んだ上で最後の結末に至ると、そのどうにもならなさの現実味の解像度が断然違ってきますので、興味のある方はぜひじっくり読んでみてもらえると染み入るところがあるのではと思います。

TVアニメ「サマータイムレンダ」での扱い・考察

アニメではその最終回、主人公である慎平が時間のループを繰り返して全て解決し終わった後の世界の「洋食コフネ」における、ひづる(作家:南雲龍之介)との会話の中で言及されます。
慎平は、自分と潮の二人が、同じ夢を同じ日時に別々の場所で見たその夢の中の記憶から、覆面作家であるはずの南雲龍之介の正体を知ったと話します。
そして、慎平がその夢の後でふと思い出したという本が、この「Strange Life Of Ivan Osokin」です。慎平はネットの寸評しか読んでいないとのことでしたが、ひづるはよく知っていたようです。
(ちなみに、このくだりは原作の漫画にはなくアニメだけにあるようです)

この小説を読み終わったあとで、改めてサマータイムレンダとの関係性や共通点を考えてみると、「前の人生の記憶を持ち越してもう一度人生をやり直している」ということぐらいなのかなと思います(あとは恋愛要素もあるというぐらい)。ひづるもその点だけを気にしているようでしたし。サマータイムレンダの考察としてはちょっと肩透かしな感じですが、もし何か気づいた方がいればぜひ教えて欲しいです。

蛇足

本書をアニメの最終回で取り上げるというアイデアは、アニメ化に当たり著者である田中靖規さんご本人から出てきたものなのか、それともアニメの監督や脚本家の方などアニメ側のスタッフの方から出てきたのかは分かりませんが、もう一つの方の引用された詩(「理想美への讃歌」パーシー・ビッシ・シェリー)も含め、素人目にも結構マニアックな作品を挙げているのだろう感じが伝わってきます。実際どちらの作品ともネットで探してみてもあまり情報が出て来ませんでしたので、相当文学に造詣の深い方がいるのだろうと感じました。🔚

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?