怪物:とくに母と子の関係性において母は学校と闘う狂気はあれど、子どもに向き合う勇気はない。
視点交換構造に固執することで、あるはずだった人と人の当然の対話を不自然に回避している。それをコミュニケーション不全に陥った現代社会の病として語るには手抜きで、とくに母と子の関係性において母は学校と闘う狂気はあれど、子どもに向き合う勇気はない(撮らない、というか撮れない)互いの実存を確認する時間こそ必要ではないか。
例えば安藤サクラが演じる母親が、他教員に囲まれる永山瑛太が演じる教師に詰め寄るシーンなど、本来の映画の能力からすれば永山瑛太側の葛藤も滲みでるように(観客にだけわかるように)演出することは可能だ、しかし永山瑛太は単純化したサイコパスとして撮られてしまっている。これはあの場に渦巻く個々人の葛藤よりも、映画の構造を優先する故に生まれた歪みだ。
もちろんそれが制作側の意図だという意見はわかるが、だとすればこの映画は他者への本質的な痛みに関心がないという表明になると思う。
社会派っぽいものをコラージュし、クイアをファンタジーとして逃避(処理)していく地上波ドラマっぽい逃げ切りの軽薄さを感じるが、あの火災がドラマ的な必然になっていない点も含め、フラグがフラグとして機能してないとこがあるなど、色々と失敗してると作品に見えた。