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「メンデルスゾーンの手紙と回想」を翻訳してみる! 43

第5章-4.ビンゲン、1837年:文通の約束

 この手紙は『毎月15日に君が、毎月1日に僕がお互いに手紙を書く』という約束を思い出してもらうために書きました。
 お互いちゃんと約束を守ろうね、親愛なるフェルディナント。例えたった数行や数語だけの手紙でも、定期的なやり取りは大事です。
 パリから取り寄せた君の交響曲ホ短調は、9月にライプツィヒに持って行くのでスーシェイ家に預けておいてください。じっくりしっかり見て聴いて、楽しむつもりです。
 チェチーリア協会で、君の特別なお祝いのために音楽の夕べを開きたいと思っていました。指揮をすることも約束していたのに、それも諦めなければいけませんでした。結局何か開催されましたか?

 フランクフルトの音楽監督たちは、まだ歯をむき出しにしていがみ合ったままですか? そして君に折れた歯の根を見せに来てるんですか?
 ドイツの音楽家たちのバカバカしい振る舞いについては、色々言ったけど、その言葉以上に僕はイライラしてました。
 悪魔にでも連れていかれればいいのに、神もそれを望んでいるよ。彼らが生きてるだけで地上の地獄だよ。
 この話題はやめよう、思い出してまたムカムカしてきちゃった。

 僕への手紙のあて先は、8月1日まではここの郵便局留めで。10日以降はコブレンツ、20日以降はデュッセルドルフの郵便局留めでお願いします。9月20日以降は、ロンドン市ピムリコ地区イートン街区ホバート街のC・クリンゲマン気付で送ってください。9月の終わりにはまたライプツィヒに戻ります。
 とっても几帳面じゃないですか? 僕のピアノピースは? まだ手元に届かないんですけど?
 何か新しいものを演奏したいので、いい曲を教えてください。僕の協奏曲はあてにできませんから。

 それではこのへんで、親友よ。早く返事を書いてね。君のお母さんにくれぐれも、くれぐれもよろしく。いつも愛情とご厚意を本当にありがとうと伝えてください。
 時々は僕の事を思い出して、そして早く幸せな再会の時がやってくることを期待しましょう。

 あなたの フェリックス・M・B

解説という名の蛇足(読まなくていいやつ)

 前回に引き続き、1837年7月13日付のメンデルスゾーンからヒラー宛ての手紙を紹介している。新婚旅行中のメンデルスゾーンからの手紙は、予想外の出来事すらも余裕ある態度でのんびり楽しめている感じがよく出ていた。
 イタリアへ向かうヒラーと、出発前に会えないか考えたが結局無理そうで残念だと書いてあった。

 手紙の後半では、メンデルスゾーンとヒラーが交わしていた約束が明かされる。毎月1回、相手に宛てて手紙を書く約束をしていたとのこと。メールやLINEで瞬時にテキスト・画像での交流が可能となってしまった今、なかなかお目に懸かれなくなって久しい文化『文通』というやつだ。
 毎月1日にメンデルスゾーンが、毎月15日にヒラーが、相手に手紙を書いて送る約束らしい。忙しくても、数行や数単語だけの手紙でもいいからちゃんと送ろうね、と書いている。
 LINEに既読つけたなら、スタンプだけでも押しとこうね、みたいな感じだろうか(?)。
 ちなみにこの約束、どれくらい律義に果たされたのかというと……まあ3回くらいはちゃんと続いたっぽい。詳しくは次回以降、いったいどこで「手紙送る約束やぶってごめん」という謝罪の文面が入るかをご確認いただきたい(笑)。

 ヒラーの交響曲ホ短調は、彼の楽譜を今も多数管理しているフランクフルト・ゲーテ大学のサイトに詳しい情報がある。op.4と書かれている。1837年に出版されたとのことなので、印刷されたてホヤホヤだ。このサイトやIMSLPで、自筆譜を参照できる。

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画像:IMSLP
 ヒラーはなかなか流麗な字を書くひとだと思う。フランショームの繊細さには負けるが。

 ヒラーはこの楽譜をメンデルスゾーンに渡す約束をしていたようで、メンデルスゾーンはそれをイタリアへ行く前にスーシェイ家(セシルさんの実家)に預けておいてくれればいいよ、と伝えている。
 が、ここから少なくとも二通分の手紙の中で、メンデルスゾーンはヒラーに対して「約束した楽譜まだくれないの!?」とぶつくさ言っているので、ヒラーはこの時メンデルスゾーンの指示通り楽譜を預けることはしなかった模様。
 パリからの取り寄せが遅れたのか、ヒラーが預けるのを忘れたのか、理由は分からない。
 手紙の中で再三語られ、今回の手紙にも愚痴られている一向に入手できない自作のピアノピースといい、メンデルスゾーンはここしばらく、欲しい楽譜がなかなか手に入らない呪いでもかけられているのだろうか。

 メンデルスゾーンはヒラーのために、チェチーリア協会のメンバーと一緒に壮行会を開こうと計画していたらしい。だがそれも、予定変更のためにできなくなってしまったそうだ。
 メンデルスゾーンは指揮できなかったが、誰か別の指揮を立てて開かれたかどうか尋ねている。
 そしてそこから、フランクフルトの音楽家のいがみ合いについて、メンデルスゾーンには珍しいなかなか激しい口調での苦言(というか普通にディスってる)が展開される。
 この時期に音楽監督たちの間で一体何があったのか、詳しい調査は間に合わなかったのだが、せめて当時の音楽監督たちが誰だったのかを調べた。
 以前の記事で、フランクフルトにロッシーニが来訪した時のエピソード(1836年)を紹介した。この時に、こぞってロッシーニの前でいいとこみせたいと頑張っていた音楽界の重鎮たちの名があがっていたので引用する。

 まずは、カール・グーア。1837年当時、フランクフルト歌劇場の劇場監督であり、専属オーケストラのフランクフルト・ムゼウム管弦楽団の音楽監督も務めていた。

★カール・グーア(Carl Guhr,1787-1848)
 ドイツの作曲家、ヴァイオリン演奏家、ピアニスト、音楽監督、記譜家。
 シュナーベル、ベルナー、アッベ・フォーグラーらに師事。ウェーバーやマイアベーアとは同門。
 ヴュルツブルクで室内楽団のヴァイオリン奏者、ヴィースバーデン劇場の音楽監督、カッセルのカペルマイスターなどを歴任し、1821年からフランクフルトで職に就き、1827年から亡くなるまで市のカペルマイスターを務めた。
 楽譜を残したがらないパガニーニの曲を耳コピで採譜し後世に遺した「パガニーニのヴァイオリン演奏技術について」は代表著作。

 フランクフルト歌劇場の監督は、1817年から1819年まではシュポーアが、その後1819年から1821年まではホフマン(後述)が、その2年後にグーアが就任している。グーアの前職はカッセルの楽長だったのだが、まるで職をトレードするように、シュポーアが1822年からカッセルの宮廷楽長に就任している。なんとなく、裏を疑いたくなる。
 筆者はドイツ語が読めないのでぼんやりとしか理解できていないのだが、ヒラーは別の著作「Erinnerungsblätter(覚え書き)」の中で、グーアをそこそこにけなし、『でも、愛すべきダメ人間ってよく好かれるものだからね』と現代にも通ずるような皮肉をとばしている(このサイトで全文が読めます)。

 ヒラーの文章を見る限り、グーアさんだけでも十分メンデルスゾーンのディスに該当しそうだが、「音楽監督たち」と複数形で語っているし、「いがみ合う」ことは少なくとも相手がいないとできないものだ。他にも誰かモメていた人物がいるはず。
 ロッシーニのエピソードの時には、他にもアロイス・シュミットとフェルディナント・リースが登場していた。

★アロイス・シュミット(Aloys Schmitt, 1788-1866)
 ドイツの作曲家、ピアニスト、音楽教育家。エアレンバッハ・アム・マイン生まれ。ヨハン・アントン・アンドレ、フォルヴァイラーに師事。
 ミュンヘン、フランクフルトなどで活躍した。
 (比較的)著名な弟子にヒラー、アルメンレーダー(Carl Almenräder, 1786-1846、作曲家・ファゴット奏者)、アーノルド(Carl Arnold, 1794-1873、作曲家)、ヴォルフゾーン(Carl Wolfsohn, 1834-1907、ピアニスト)、スローパー(Lindsay Sloper, 1826-1887、作曲家・ピアニスト)、ヴィルヘルム(Karl Wilhelm, 1815-1873、作曲家)などがいる。
★フェルディナント・リース(Ferdinand Ries, 1784-1838)
 ドイツの作曲家、指揮者、ヴァイオリン・ピアノ奏者。ヴァイオリンを宮廷楽団のコンサートマスターだった父のフランツ・アントン・リースに、チェロをロンベルクに、ピアノをベートーヴェンに、作曲・楽理をヴィンター、アルブレヒツベルガーらに師事。
 世が世なら将来も何もかも約束されていただろうに、(だいたい)ナポレオンのせいで人生狂わされたひとり。
 技巧派ピアニストとしてヨーロッパ中をコンサートツアーで巡り名声を得て、イギリスやボン、フランクフルトでは音楽監督・指揮者・指導者としても活躍。ベートーヴェン交響曲第9番の普及に大きく貢献した。
 1825年からライン川下流域音楽祭の音楽監督を務める。1827年から逝去までの10年間をフランクフルトで過ごし、当地の音楽家たちとよく交流した。
 師ベートーヴェンの回想録を共著者として執筆したが、出版直前に逝去。
 多作な作曲家で、ピアノ協奏曲などは19世紀のピアニストのレパートリーとして人気だった。

 フランクフルト歌劇場で長らくグーアに次ぐ地位の副音楽監督兼第一ヴァイオリンを務めたハインリヒ・アントン・ホフマン(Heinrich Anton Hoffmann, 1770-1842)は1835年にすでに公職からは引退済ではあるのだが、シュポーアさんがいなくなって副音楽監督から音楽監督に出世したのに、グーアさんが来たらまた副音楽監督に戻ってしまったので、もしかしたらグーアさんと遺恨があるかもなどと疑ってしまう。
 スイス生まれのシュニーダー・フォン・ヴァルテンゼー(Franz Xaver Schnyder von Wartensee, 1786-1868)もヒラーの『覚え書き』内でけちょんけちょんにされている一人だ。フランクフルトで活躍した作曲家・音楽教師・指導者で、チェチーリア協会では彼のコーラス作品をよく歌ったとのこと。

 歯をむき出しにしていがみ合うフランクフルトの音楽監督たちは、このあたりの中にいるのだろうか? そして彼らは若手音楽家ヒラーのところへ代わる代わるやってきてわいわいと、あいつがこんな事言ってたとか陰口聞かせたりしたんだろうか? ……んんん。
 ソースが見つけられなかったので想像でしかないが、もし、もしも筆者の想像通りだったとしたら、メンデルスゾーンのこの痛烈な言葉にもちょっと頷いてしまう。
 「悪魔に連れていかれればいいのに」から始まる言葉は、人への悪口としてはなかなか痛烈ながらも上品さを失わない感じでよい。筆者では逆立ちしても思い浮かばない悪口だ。つまり遠回しに死ねってことでしょ? 京都の方か?

 7月~9月は移動が多いので、手紙を送るならここにお願い、とスケジュールを伝えている。そしてさらりと入手できないピアノピースの愚痴。何度目だっけ。
 他にも何か僕の知らない新しい曲の中でいいのがあったら教えてね、とのこと。「自分の協奏曲はあてにならないから」なんて、作曲家は謙虚でいらっしゃる。
 いつも通りヒラーのお母さんへの言葉と、再会の時を望む言葉を添えて、手紙は結ばれている。

次回予告のようなもの

 次回の訳文は、とうとうこんな書き出しで始まる。

 遅ればせながら、私もついに旅に出た。

 ヒラー、ついにイタリアへ向かって出発! そんな友の旅路を狙い撃ちするように、途中に立ち寄る町へ手紙を送るメンデルスゾーン。
 次回はメンデルスゾーンがロンドンからインスブルック(オーストリア・チロル地方の都市)に向けて出したヒラー宛の手紙をご紹介。
 新婚旅行を中断し、バーミンガム音楽祭に参加しているメンデルスゾーンが、どれだけ嫌々仕事をしているかが見て取れる(笑)。 

 第5章-5.ヒラー、イタリアへ行く! の巻。

 次回もまた読んでくれよな!

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