見出し画像

「メンデルスゾーンの手紙と回想」を翻訳してみる! 45

第5章-6.ロンドン、1837年:女の子達が書くような、追伸

 ここはかなり静かです。ほとんどの人は田舎かどこかへ出かけています。
 モシェレス一家はハンブルクに数週間の滞在中で、彼らには会えそうもありません。
 タールベルクはマンチェスターなどでコンサートをしており、すごいセンセーションを巻き起こしてどこでも大歓迎されています。彼とはまだ会えるかもしれないと思っています。
 ローゼンハインはブローニュにいて、もうすぐ戻って来ます。ベネディクトは田舎のパトニー。
 クララ・ノヴェロ嬢は音楽祭を転々としていて、春までイタリアへは戻らないでしょう。その前に僕らのコンサートのためライプツィヒに来訪します(許してください、僕は喜んで君に彼女を譲りたいのだけど、仕事なんだ)。
 ライン川の汽船でノイコムに会いました。相変わらずお上品で不愛想、だけど一応僕には好意的に関心を寄せてくれているようです。君のことやその他いろいろ尋ねられました。
 ジムロックは自筆譜のことで連絡を取りたがっていて、君に直接手紙を書くと言っていました。僕は彼に、君が彼のために既に何か用意できたかは分からない、もう少しかかるんじゃないか、と伝えました。彼から手紙は来ましたか?

 ベルリンの皆から長い事(五週間以上)何の便りもないので、少し不安になってきました。不幸の上塗りです。
 ライン地方にいた頃は、いい曲が書けたものです。こんな場所では悪態だけしか出てこない、と言いたいわけじゃないですけど、僕のセシルが恋しいです。彼女が側にいないのに、二重対位法が何の役にたつんですか?

 そろそろこの泣き言だらけの手紙を締めないと、インスブルックの太陽の下で君に笑われてしまいますね。
 あて先はまたライプツィヒで。早く戻りたい。
 二週間前、ショパンが突然こちらに来たらしいのですが、誰も訪問せず誰とも会わず、ブロードウッドのある夕べに美しい演奏だけをして、帰ってしまったみたいです。皆、彼はまだとても具合が悪そうで可哀相だったと言っています。
 セシルを通じて、君のお身内によろしく伝えてもらいます。
 それじゃさよなら、親愛なる「戯曲」君。こんなすごくバカな手紙を許してね、これがまさに今の僕なんです。

 君の フェリックス・M・B


 女の子達がするように、大事なことを追伸に書いてみます。
 君の交響曲ホ短調、まだくれないの? 送ってよ! 交換しようねって言ったのに、君は僕の協奏曲をだまし取ったわけ?
 僕に交響曲ホ短調をちょうだい、ライプツィヒのみんなに絶対聴かせたいの、そして気に入ってもらわなくちゃ。

解説という名の蛇足(読まなくていいやつ)

 前回から引き続き、1837年9月1日付・新婚旅行を中断させられイギリスで嫌々仕事をしているメンデルスゾーンからの手紙を紹介している。
 後半の今回は、当時とても名の売れていた音楽家たちのロンドンでの動向などがぽんぽん出てくるが、やはり大半は愚痴と恨み言だ。

 メンデルスゾーンの頭の中はしっちゃかめっちゃかだったが、実際のロンドンは静かだったとのこと。
 9月となるとパリの社交界ではそろそろシーズンが始まるころで、むしろ避暑に散っていた人々が戻ってき始める時期だった。ロンドンでもまだ人々が戻ってきていないということなのか、ロンドンはパリとは事情が違うのか……パリよりは避暑が不要な気もするし。

 ポンポンと挙がる人名、まず最初はモシェレスだ。
 当時の大人気ピアニストの一人、モシェレスさんについては、既に今までの記事のどこかで紹介してただろう……と思って検索したけどなんと未紹介だった。

★イグナーツ・モシェレス(Ignaz Moscheles,1794-1870)
 チェコ出身のユダヤ系ドイツ人で、ヨーロッパで広く活躍したピアニスト、作曲家、音楽教育家。
 プラハ音楽院でピアノ演奏や楽典基礎を学習後、アルブレヒツベルガーに対位法を、サリエリに作曲理論を師事。著名な弟子にメンデルスゾーン、タールベルクなど。
 ヨーロッパを股にかける名ピアニストとして活躍しながら、イギリスで要職を歴任し、1843年からライプツィヒ音楽院で教鞭をとった。
 1820年代を代表するピアニストの一人であり、ベートーヴェン、フンメル、カルクブレンナー、マイアベーアらと親交を結んだ。
 長くユダヤ人音楽家サークルの中心的存在であり、特にメンデルスゾーンとは彼が亡くなるまで深い親交が続き、彼らの往復書簡は貴重な資料として遺されている。メンデルスゾーンの死後、音楽院長の座を継いだ。
「サリエリはモーツァルトを毒殺したと思う」と日記に書いてしまった人。

 タールベルクはメンデルスゾーンの同門とも言える、モシェレスに師事していたことのある名ピアニストだ。技巧派で鳴らし、フランツ・リストのライバルと呼ばれた。

★ジギスモント・タールベルク(Sigismond Thalberg,1812-1871)
 スイス生まれとされているが幼少期が謎に包まれた、ドイツ語圏のピアニスト、作曲家。
 モシェレス、フンメル、カルクブレンナー、チェルニーなど名だたるピアノ教師達に師事。
 南北アメリカなどでもコンサートを行い、当時最も稼いだピアニストと言われた。リストとは対立していたが後に和解。
 1863年でコンサートピアニストを引退。その後は妻の故郷であるイタリアへ居を移し、ナポリ音楽院で教鞭を取ったり、妻の実家の土地であるブドウ農園を管理したりした。
 趣味は作曲家のサイン・自筆譜集め。

「ローゼンハイン」はおそらくこの方かと思われる。

★ヤーコプ・ローゼンハイン(Jakob Rosenhain,1813-1894)
 ユダヤ系ドイツ人のピアニスト、作曲家、音楽教育家。
 ヤーコプ・シュミット、ヤン・ヴァーツラフ・カリヴォダ、シュニーダー・フォン・ヴァルテンゼーらに師事。
 マンハイムに生まれ、最初フランクフルトで活躍していたが、のちにヨーロッパ各地で活躍。1837年にはロンドンで、ロンドンフィルハーモニー管弦楽団と共演している。
 1837年10月にフンメルが亡くなると、その後任としてヴァイマールの宮廷楽長の職に就く。1849年からパリ、1870年にはバーデン=バーデンに拠点を移した。
 ケルビーニ、ロッシーニ、モシェレス、メンデルスゾーンらと親交があった。また、15歳のブラームスが初めての演奏会で演奏したのはローゼンハインの曲だった。

「ベネディクト」は多分この人だろう。パトニーはロンドンの南西の地区だ。ロンドン塔から13kmくらいの地点にある。本文の「田舎」はフランス語の単語で書かれていた。

★ジュリアス・ベネディクト(Julius Benedict,1804-1885)
 ユダヤ系ドイツ人でイギリスで活躍した作曲家、指揮者。
 フンメル、ウェーバーに作曲を師事。ベートーヴェンとも面識がある。
 1823年からウィーン・ケルントナートーア劇場で、1825年からナポリ・サンカルロ劇場で、楽長を歴任。その後パリなどを経て1835年からロンドンで活躍。王立劇場やハーマジェスティーズ劇場などで指揮者や音楽監督を務めた。
 1848年、メンデルスゾーンの「エリヤ」初演時の指揮者。

「クララ・ノヴェロ嬢」はこの後もちょくちょく登場するので、覚えておいてほしい。

★クララ・ノヴェロ(Clara Anastasia Novello,1818-1908)
 イギリスのソプラノ歌手。
 幼少期から才能を発揮し、1829年にパリの王立音楽・宗教研究所(ショロン音楽学校の前身)に11歳で入学し、同校で教鞭をとっていたヒラーと面識を得る。1830年7月に革命が勃発しイギリスへ戻った。
 シューマンの「8つのノヴェレッテン(Novelletten)」の曲名は、短編小説という意味の他に彼女の名からとったという説もある。
 クララ・ノヴェロの自伝(英語)はアーカイブ(https://archive.org/details/claranovellosrem00noverich
)で読むことができる。メンデルスゾーンやヒラーの名前も登場している。

 ノヴェロ嬢はヒラーのお気に入りの生徒だったのだろうか。メンデルスゾーンがこの先も全力でからかいに来ていてちょっと面白い。

 ノイコムさんはおそらくこの人。

★ジギスムント・(リッター・フォン・)ノイコム(Sigismund Ritter von Neukomm,1778-1858)
 オーストリアの作曲家、ピアニスト、オルガン奏者、指揮者。
 ザルツブルク大学で哲学と数学を学びながら、ミヒャエル・ハイドンに音楽理論を師事。ザルツブルク、サンクトペテルブルク、ブラジルで要職を歴任する。
 1821年にブラジルからパリへ戻り、以降はヨーロッパを渡り歩きながら作曲に専念した。

 ジムロックは楽譜出版社・ジムロック社の代表ことだろう。当時ならおそらく二代目のペーター・ヨーゼフ・ジムロック(1792-1868)。
 ここでも出版の話題が出ているが、もちろんヒラーもいくつかの楽譜をジムロック社から出版している。

○ジムロック社(N. Simrock)
 18世紀にボンで創業したドイツの楽譜出版社。後にパリ、ケルン、ライプツィヒ、ロンドン、ニューヨークなどにも支店や代理店を持ち、19世紀~20世紀にかけて多くの楽譜を出版。合併や売却などを経て、2002年までジムロックの名を冠した楽譜出版社として存在した。
 モーツァルト、ハイドン、ウェーバー、ベートーヴェン、シューマン、メンデルスゾーン、ブラームス他、ドイツ周辺の音楽家が多くの楽譜をここから出版している。

「ベルリンの皆」はおそらくベルリンのメンデルスゾーン一家のことではないかと思われる。結婚自体あまり祝福してもらえていなかったが、まだ手紙もあまり寄こしてくれないのだろうか。
 メンデルスゾーンは母や姉と頻繁に(だいたい月に一回以上)手紙をやりとりしているので、五週間以上返事がないのは珍しい。
 メンデルスゾーンの姉ファニーはこの年、自作の出版を試みており、母もフェリックスに、ファニーに出版を勧めてくれるように(そしておそらく便宜を図ってくれるように)手紙を出していたらしい。だが、その依頼に対するフェリックスの返事(1837年6月2日付)は渋く、要約すると「女性は楽譜を出版すべきでない」というものだった。
 もしかしたらその辺も、ベルリンからなかなか返事が来なかった理由のひとつかもしれないなどと考えてしまう。

 ライン地方にいた時のようにいい曲がなかなか書けない理由はセシルが側にいないからだと、もうハッキリ認めてしまっている。
「彼女が側にいないのに、二重対位法が何の役に経つんですか?」とか、人生の中でいっぺんくらい言ってみたい台詞の10位くらいには入る。筆者はそもそも二重対位法を勉強するところから始めないといけないが……。

 次の手紙はライプツィヒに送ってくれとのこと。バーミンガム音楽祭が終わったら次はライプツィヒの仕事が待っているようだ。
 久しぶりに名前が登場したショパンは、この年インフルエンザにかかったり婚約者だったマリア・ヴォジンスカに婚約破棄されたり散々だった。知り合いのピアノメーカーの若社長・プレイエルさんが彼を傷心旅行にイギリスへ連れ出したのだが、ちょうどそれと時期がかぶったのだろう。
 ブロードウッドはイギリスに本拠地を置くピアノメーカー。パリのプレイエルやエラールと同じく、自前のピアノホールを経営していた。ショパンはそこの夜会で演奏をしたようだ。

 最後まで泣き言を交えつつ、手紙は締め。……と思いきや、追伸があった。
 「大事なことを追伸に書く」のが当時の女の子たちの間で本当に流行っていたのか、単純に「女子ってもったいぶるよね」という意味なのかは判断が付きかねるが、メンデルスゾーンも追伸で本題を言ってみることにしたらしい。せっかくなのでかわいく訳してみた(笑)
 その本題とは、前回の手紙でも催促していたヒラーの交響曲の楽譜の再催促。まだ入手できていないのか。再三ぶーたれていたピアノピースの事は言っていないが、ようやく手に入ったのだろうか。
 ともあれ、ライプツィヒのみんなに聴かせたいということは演奏の予定があるのだろう。ヒラーさん、早く楽譜送ってあげて。

前回の記事についてお詫びと訂正

 前回の記事について、投稿した後で間違いに気付いたので、この場を借りて謝罪と訂正を行う。とりあえず間違いは2点ある。

◇ヒラーの行先はローマじゃなくてミラノだった。
◇メンデルスゾーンが手紙に書いた「Damn it!」はドイツ語原著では伏字無し。

 本当は当該記事を修正すべきなのだが、最近バタバタしていてなかなか修正できなかった。折を見て修正したいが、取り急ぎ読んでくださっているみなさまへお詫び。すみませんでした。

次回予告のようなもの

 さて次回からは、1837年12月10日付のメンデルスゾーンからヒラー宛ての手紙。文面が比較的長いので、3回に分けて紹介していく予定だ。
 今回登場したクララ・ノヴェロ嬢は引き続き登場。ここからしばらくレギュラーみたいにたびたび登場することになる。
 メンデルスゾーンは新居に引っ越し、念願のセシルとの新生活をスタートさせる。今回の手紙とは打って変わって、幸せいっぱいノロケたっぷりのメンデルスゾーンをお届けする。

 第5章-7.引っ越した新居が最高な件 の巻。

 次回もまた読んでくれよな!

よかったら投げ銭程度にサポートいただければ嬉しいです!