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「メンデルスゾーンの手紙と回想」を翻訳してみる! 17

第3章-1.アーヘン、1834年:メンデルスゾーンの手紙(1834年5月23日)

フェリックスメンデルスゾーンから 母宛の手紙(*)
 デュッセルドルフ、1834年5月23日

 先週の金曜日、ヴォリンゲン家の二人と一緒にアーヘンへ行きました。
 音楽祭の五日前になって、聖霊降誕節での開催が内閣から許可されました。この許可は、おそらく将来まで適用してもらえそうな書き方をされています。
 その知らせを受け取るまで11時間も待たされ、滅茶苦茶ウンザリ、しまいには腹が立ったくらいです。

 それから私たちはリハーサルに直行し、「デボラ」の数楽章を、一階前方の一等席に座って聞きました。
 私は同行者に、すぐにヒラーに宛てて二年ぶりの手紙を書かなくては、と話しました。彼は自分の仕事を見事に成し遂げていたからです。
 彼の仕事は本当に奥ゆかしく、よい音で、常にヘンデルに付き従い、なにひとつ省略されていませんでした。
 私は、自分と同じ考え方、自分と同じ奏で方をする誰かを見つけたことが、とても嬉しかったのです。

 口ひげの男が最前列のボックス席で総譜を読んでいるのに気づきました。そしてリハーサルのあと、劇場へ降りてきた彼と上がってきた私は、舞台裏で巡り会いました。
 私の腕の中へ飛び込んできたのはもちろん、フェルディナント・ヒラー。彼は私をハグで絞め殺してやろうと準備をしていたのです。
 彼はオラトリオを聴くためにパリから来ていて、そしてショパンもレッスンを休止してまで一緒に来てくれたので、再会することができました。
 三人で一緒に滞在し、会場となった劇場では私達だけでボックス席をひとつ占領して、音楽祭を存分に楽しみました。そして次の日は朝から揃ってピアノの前にいられる。すばらしい喜びでした。

 彼らは二人とも演奏の腕を上げていて、今やショパンはピアノ奏者の第一人者です。第二のパガニーニのように、誰もが不可能だと考えていた、思いもよらない全く新しいことをしています。
 ヒラーもまた重要な演奏家で、実力十分、そして聴衆を喜ばせる術を知っています。
 彼ら二人は、効果と強い明暗を愛するパリジャンのために少し苦心しすぎて、悲しいことに自由な時間や穏やかさ、そして本物の音楽的な感覚をしばしば見失っています。一方私はおそらく別の方向へ行き過ぎているので、私達三人は足りないものを補い合い、お互いにお互いから学ぶことができると思います。
 そう思えるようになるまでは、私は自分を学校長のように、そして彼らの事はアンクロワイヤブルかミルリフルールかと思っていました。

 音楽祭の後、私たちは連れだってデュッセルドルフまでを観光し、音楽とおしゃべりでとても楽しい一日を過ごしました。
 昨日私はケルンまで彼らに付き添いました。今朝汽船でコブレンツへ向かったはずです――私はまた下ってきました。微笑ましいエピソードはこれでおしまいです。

*注:メンデルスゾーンの書簡集 第2巻より。


解説という名の蛇足(読まなくていいやつ)

 この回からアーヘン・デュッセルドルフ編が始まります!
 最初はメンデルスゾーンが母に宛てた、1834年5月23日付の手紙から。

 メンデルスゾーンはこの前年1833年に、ツェルター亡き後のベルリンジンクアカデミーの指導者選挙で落選、5月にデュッセルドルフ市の依頼でライン下流域音楽祭の監督をし、10月からデュッセルドルフ市の音楽監督を務めていた。
 現在のデュッセルドルフは日本人駐在者が多く、日本人の我々にとってはちょっと親近感のわく街だ。
 が、もちろんこの頃日本はまだ鎖国中。当時のデュッセルドルフはウィーン会議後プロイセン領になっており、工業化の影響で急激に街が発展してきた頃だ。文化面にも力を入れるためにメンデルスゾーンを招聘したかたちになる。
 文化的には成熟しているとは言い難い土地柄、メンデルスゾーンはこの地でいろいろ苦労する。この手紙も、そんな苦労話から始まっている。

 ライン川下流域音楽祭は、資料を見ていても訳語揺れの大きい語句なのだが、この連載ではこう訳してみた。原語だと「Das Niederrheinische Musikfest」。ニーダーライン音楽祭とか下ライン音楽祭などの訳語もある。
 1818年に、ショウンシュタインとブルグミュラーの発案でスタートし、1958年までほぼ毎年ペンテコステ(聖霊降臨祭)の頃に開かれ、112回続いた歴史ある音楽祭だ。ライン川下流域に位置する都市が持ち回りで会場になる。
 前年の1833年の第15回は会場がデュッセルドルフで、前述の通りメンデルスゾーンが音楽監督を務めた。1834年の会場はアーヘン。音楽監督はベートーヴェンの弟子のフェルディナント・リースだ。
 メンデルスゾーンはデュッセルドルフの音楽監督として、ゲスト出演したらしい。
(メンデルスゾーンとリースさんの間で何事かあったらしい? という資料も見つけたので解読中です……)
(資料によってはこの年にショパンもピアノソロでゲスト出演している、とするものがあるのだが、ソースが少ないのでこちらも目下調査継続中です……)

 1834年の音楽祭は、実は開催そのものが危ぶまれていた。プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世が、宗教上の理由で音楽祭を中止を命じたのだ。
 フリードリヒ・ヴィルヘルム3世はこの時代にあっては珍しく平和志向で家庭人の王だったが、周りがそうじゃなかったのでよくボコられた。
 王国内の教会を合併し合同教会を作るべく各派に通達を出し、それを拒否した教会・教派には冷たい態度になる。デュッセルドルフやアーヘン近郊に多かったカトリックや古ルター派も、合同教会を拒否した一派だった。……その辺は主題から逸れるのでまた今度。

 一時は、音楽祭の歴史も15回で終わってしまうのかと思われたが、国王の甥でデュッセルドルフの芸術協会を創設したフリードリヒ王子(1794-1863)の執り成しで、なんとか開催することができた。予定通りの開催が許されたのは、開催の5日前ということだから驚きだ。よく開催できたね。
 メンデルスゾーンも音楽祭の開催許可を得るために、ヴォリンゲン家の二人と共に奔走した様子が書かれている。11時間も待った甲斐あって、この許可は今年だけじゃなく来年以降にも適用できそう、とのこと。
 3人はほっと胸をなでおろしたことだろう。まあ音楽祭はこれからなのだが。

「ヴォリンゲン家の二人」というのが誰なのかは確証がないが、デュッセルドルフの音楽協会の有力者に、オットー・フォン・ヴォリンゲンと、フェルディナント・フォン・ヴォリンゲンという人物がいた。この人たちのことではなかろうか。

★オットー・フォン・ヴォリンゲン(Otto von Woringen,1760-1838)
 ドイツの弁護士、政治家、首長。デュッセルドルフの有力者。
 ライン川下流域音楽祭の共同主催者を務める。
★フェルディナント・フォン・ヴォリンゲン(Ferdinand von Woringen,1798-1851)
 ドイツの裁判官、法律家、テノール歌手、作曲家。オットー・フォン・ヴォリンゲンの息子。
 デュッセルドルフ音楽協会の理事を務め、1837年からライン川下流域音楽祭の幹事。

 そのままリハーサル(練習)へ直行したメンデルスゾーンたちは、ヘンデルのオラトリオ『デボラ』のリハーサルを一等席で聴く。
 その出来は上々でメンデルスゾーンは「ヒラーに手紙を書かなきゃ」と同行者に話したらしい。お褒めの手紙ということだろう。

 この『デボラ』とヒラーの関係は次回の記事で詳しく語られるが、このオラトリオの演奏はヒラーが編曲したものだった。
 ヘンデルの曲は、前回の記事でも触れたとおり、当時はバッハ以上の人気だった。ただ、この『デボラ』は、一般にヘンデルの失敗作とされていたらしい。
 初演時に興行的に失敗したからとか、大急ぎで作ったから既存曲のツギハギになってるとか、それらしい理由はいくつか見当がつく。
 だがそれでも、このオラトリオが聞きごたえのある名作だということに、音楽家たちは気付いていた。
 イスラエル人のコーラスと、長らくイスラエル人を支配していたカナン人のコーラスの対比が見事な作品だ。メンデルスゾーンの言った「ヘンデルの3つの引き出し」の、『異教』の引き出しから取り出されたものかも。
 ヒラーは、フランクフルトに住む大音楽家であり音楽祭の音楽監督でもあるリースさんの勧めで、デボラを音楽祭で披露することになった。

「自分と同じように考え、自分と同じ奏で方をする誰かを見つけたことが嬉しい」という表現がすてきだ。同解釈の同担的な感じか(台無しだよ)。
 この頃からヒラーは口ひげを蓄えていた模様。ボックス席は上階にあることが多いので、ヒラーは上から舞台へ降りてきて、1階席のメンデルスゾーンは舞台へ上ってきたところで鉢合わせた。
 ヒラーはメンデルスゾーンをハグで絞め殺そうと準備していたらしい。この言い回しもとてもかわいい。
 メンデルスゾーンとヒラーとショパンの3人がそろったのは、メンデルスゾーンがパリに滞在していた時以来なので2年ぶりだ。ここで引用された部分には含まれていないが、メンデルスゾーンは家族あての手紙の中で、「ハッピートリオ」という言葉を使っている。かわいいね。

 メンデルスゾーンはショパンの演奏技術をとても高く評価していた。作曲の方は、まあ、うん、演奏ほど高く評価してはいなかったようだ。
 ヒラーにも高評価をつけていて、生涯にわたってヒラーの曲を積極的にコンサートで取り上げている。
 そんな二人が軽佻浮薄なパリの空気に毒されているように見えてしまったのだろう。「お互いに学ぶことはある」とは言いながらも、学校長みたいな気持ちで二人を見てしまった、と書いている。

 アンクロワイヤブルかミルリフルールか、という部分、なんのこっちゃと思い調べた。
 もとは、総裁政府時代(1795-1799)のパリに現れた、奇抜な格好で政府の急進的な施策に対抗した若者たちのことらしい。アンクロワイヤブルが男性を指す言葉で、その対語で女性を指す言葉にはメルヴェイユーズというものがあるのだが、19世紀のメルヴェイユーズは下着のようなドレスに、花瓶の擬人化ですかってくらいに自身を花で飾り立てており、そこからミルリフルールとも呼ばれるようだ。

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画像:Wikimedia Commons
 こちらの画像は、1840年代に出版された本のイラスト。

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画像:Wikimedia Commons
 こちらは1800年頃、イギリスの風刺画だ。頭の上にお花載せてるのがお分かりいただけるだろうか。

 こちらのブログの説明が分かりやすく、イラストも載っていて楽しい。
 メンデルスゾーン達の時代には、政治的な主張については薄れて、「奇抜な格好して騒いでる若者」ぐらいのニュアンスになっていた。すでに死語になって久しい言葉だが、「新人類」と似た用途で使う言葉だろうか。
 厳格な学校長メンデルスゾーンが、派手で奇抜な若者ヒラーとショパンを生ぬるい目で見つめる姿を想像すると、ちょっとおもしろい。演奏のことですよ?

 今や我が街となったデュッセルドルフに友人たちを案内し、ケルン観光を一緒にして、とても楽しかった模様。
 いつの時代も、ワイワイしている若者はかわいい。

次回予告のようなもの

 ――この本の読者諸君の利益のために、私がこの楽し気な手紙につけ足せるものなど、ほとんど何もないはずだった。
 しかし私は逆らえなかった。再びペンを手に取り、この本を捧げた友人に特に関係ない場面さえも要点を繰り返したりだらだらと語ったりして、この「魅力的なエピソード」をもう一度おさらいするという誘惑に。

 これは次項の冒頭部分。ヒラーのこの文章を引用するのが一番の次回予告だと思い、一足先にお読みいただいた。
 今回のメンデルスゾーンの手紙、さらっと書いてある部分の裏側でどんなことが起こったのか。
  誘惑に負けてくれてありがとうヒラーおじいちゃん、めっちゃ楽しいです。

 次回、第3章-2. ヘンデル『デボラ』の巻。

 よかったら次回も読んでくれよな!

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