知ってるけど選べない
「なぜ、島根県にしたんですか?」
転職して島根の隠岐に引っ越しまーす!と周囲に報告してから何度も聞かれた質問。
それはもう偶々ですとしか言えないのだけど、この質問では「どのようにその選択肢を見つけたのか」と「なぜその選択肢を選ぶ決断ができたのか」の二種類のことを聞かれていて、どちらのことをより聞きたいかが人によって結構違うな、と思った。
自力で見つけらる選択肢は限られている(びっくりするほどにたかが知れている)。知らなければ選べないのだから、場所を変えたり会う人を増やしたり本を読んだりとにかく「他者には見えてる選択肢」を増やしながら、それを知る過程で自分が感じる違和感や喜びや驚きをかみしめているとその新しく出会った選択肢のいくつかが自分のものになるよ。
…みたいなことを、学生に話すことが何度かあったのだけど、最近「知ってるけど選べません」という反応が増えている気がする。
私にとっての海士町もかつては知り合いが住んでる離島。というだけの「知ってる場所」の一つだったのだけど、それを選べたのは実際に住んでる人に会って話を聞いて、来島して風景を見たことで、選択肢に手触りができたからだと思う。
ネットで調べてSNSを眺めているだけでは、知ってることにならなくて、それを選択肢として血を通わせるには人(他者)の介在と自分の意気込みがいるのよね。
そんなことを思う来島前夜。
思考の手触りって言葉としてなんか面白いね。
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