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外来種駆除は何故、悪と言われるのか?

1.初めに

 こんにちは。こんばんは。IWAOです。今回は、東洋経済オンラインの石浦章一氏の記事を読んだことがきっかけで、書きました。

 この記事は、「突っ込みどころ満載」という意味で話題になりました。外来種駆除での言いたいことの核心は、「外来種は生態系の一部であるから、駆除してはならない」ということにあります。この手の主張は、この記事に始まったことではなく、とある著作の影響によって拡大しています。このような「外来種駆除は悪だ」と物申す主張のおかしい所であったり、その根拠となる部分について、検証や反論をしてみたいと思います。

2.外来種とは何かと定義の理解

外来種の定義

 申し訳ありませんが、外来種とは何かについては、以前のブログにて説明しており、ここの内容をリブートしたものです。また、この内容は、私の自信作でもあるので、読んでもらえると嬉しいです。
 https://note.com/iwao2205/n/nbb131309eb03

 まず、外来種とは何か?についてここで解説していきます。
 外来種とは、環境省では以下のように説明されています。

https://www.env.go.jp/nature/intro/2outline/invasive.html#sec1より引用

 私が考える外来種の定義のポイントは、以下の2つの特に1つ目(赤文字)になります。

 特に、気を付けてほしいのは、「人によって連れてこられた」です。「本来、その場にいなかった」だけでなく、人間活動を介して連れてこられた生物を外来種と言います。例えば、ツバメやアホウドリのような渡り鳥、サケ、ウナギのような大回遊を行う魚などは、自らの足で生息地を拡大・移動しているため、外来種ではありません。これは、環境省のサイトの方でも説明されています。

渡り鳥、海流にのって移動してくる魚や植物の種などは、自然の力で移動するものなので外来種には当たりません。

https://www.env.go.jp/nature/intro/2outline/invasive.html#sec1

 つまり、自らの足で生息地を世界中に拡大した人間も外来種ではありません。有名な外来種である、ブラックバス、ブルーギル、ミドリガメ、アライグマ全ての共通点は、経緯は何であれ、自らの足で日本に来たわけではなく、人間によって原産地から連れてこられたことになっています。
 もう1点注意すべき点があります。それは、「国内由来の外来種」、つまり、「国内外来種」がいることです。代表例として、北海道と沖縄のカブトムシ、琵琶湖のオヤニラミが挙げられます。例えば、カブトムシは、北海道と沖縄、一部離島を除くほぼ全域に生息する甲虫ですが、ペットとして持ち込まれた個体が逃げ出し、定着したと考えられています。つまり、国内の生き物でも、「人間」が「本来いなかった所に連れてきた」場合、外来種になります。
 
他にも、外来種について解説したものがあります。それらも見ることをお勧めします。Rickyさんの動画ですが、こちらは、「死滅回遊魚は外来種か?」という章で、自然のものと人間活動が原因なのかがいい対比になっているので、定義を理解するのに役立つと思います。

https://youtu.be/A-6F6mFf2sc

(*WOWさんが、ここまで簡潔で詳細に動画を作られているのは、すごい能力だと思います。)

(Rickyさんのこの動画は、簡単に聞くことができます。)

記事のおかしい所

 では、ここから記事のおかしい所について述べていきます。まず、記事の方では、外来種の定義についてこう述べています。

 今の日本の外来生物法では、「外来生物」は「海外から我が国に導入されることによりその本来の生息地または生育地の外に存することとなる生物」と定義されています。

https://toyokeizai.net/articles/-/636278?page=2

 確かに、特定外来生物法の条文には、太字のように書いてあります。しかし、先程の説明にある通り、外来種は、「他地域から入ってきた」だけでなく、「人によって連れてこられた」も含んで説明されており、「自然で移動したもの」は外来種とは説明していません。下記のサイトで外来種とは何かについて説明されています。つまり、外来種の定義を理解していないことが、ここで分かってしまいます。
(*また、私は、このサイトも参考にして作成しています。)

3.外来種はいいやつ?生態系の一員?

 石浦氏の記事は、おかしい所はまだあり、その一つに外来種と生態系についての記述になります。その関係について以下のように説明されています。

 しかし現在の生態系は、外来種の存在も含めてできているわけです。つまり、在来種か外来種かのいかんにかかわらず、現在の環境には、一番そこに適応している生物がいるということです。

https://toyokeizai.net/articles/-/636278?page=2

 この説明から、外来種は、日本の生態系を作っているということを主張しています。ただ、ここの「外来種を含めて今の生態系ができている」という箇所から、人の連れてきた生き物と自らの足で移動した生き物を混同して扱っていることが分かります。つまり、ここからも外来種とは何かをわかっていないことが分かります。
 定義の問題を含めてですが、外来種の問題は何かという問題点はたくさんあります。問題点の一つに「生物間の関係性」を破壊することにあります。そもそも生態系とは何かを説明すると、「生物同士、生物と生物ではない(例えば、環境等)もの同士の関係性」になります。一番わかりやすい例は、「食物連鎖や食物網」、つまり、「食う、食われる」の関係性になります。その上、食べるだけでなく、「何らかの形で生物を利用する」間接的な相互作用も含まれます。その間接的な相互作用には、二枚貝の幼生が、大きくなるまで淡水魚に寄生して過ごすような関係性などが当てはまります。
(*この二枚貝についてはより詳細なことをここに書きました。是非、読んでください。)

①食う、食われる関係性

 「食う、食われる」の関係性で見るならば、捕食者も食べられてばかりではありません。つまり、いかにして逃げるのか、反撃するかなどの対抗手段があります。外来種の場合、この関係性を壊してしまうから問題です。例えるとこんな感じです。

人間で例えるなら、剣とこん棒だけで戦っていたグループの中に突然銃を持ったおっさんたちが乱入してきて無双する

https://youtu.be/A-6F6mFf2sc

 実際の例だと、オオスズメバチへの対抗手段になります。二ホンミツバチは、高熱でオオスズメバチを殺すという対抗手段があります。これは、オオスズメバチと二ホンミツバチが長期間、共に過ごした時間があるために生まれました。つまり、オオスズメバチとニホンミツバチの両者が長年の関係性を築いたからこそ生まれた対抗手段です。

 一方、アメリカでは、オオスズメバチが進出し、脅威になっており、かなりのミツバチがオオスズメバチにやられています。それはなぜでしょうか?それは、オオスズメバチとの関係性がないために、やられてしまうことになります。そもそもオオスズメバチは、日本を含むアジアを中心に生息しています。つまりアメリカには生息していません。そのオオスズメバチが、日本からアメリカへワープしていることになるので、現地のミツバチを含む昆虫がオオスズメバチへの対抗手段をすぐに築くことはできません。よって、オオスズメバチに蹂躙されてしまいます。(*セイヨウミツバチもオオスズメバチへの対抗手段を持たないため、やられっぱなしになります。それが、セイヨウミツバチが日本の自然界に定着しない抑止力にもなっています。)
 これは、日本においても同じで、オオクチバス、ブルーギル、カダヤシなどにも同じことが言えます。彼らに対しての対抗手段を持たないから、日本の在来種は、やられます。

②間接的な相互作用と関係性

 生き物同士の関係では、「食う、食われる」以外の関係性として、間接的な利用が含まれます。これは、以下の文献を基にして要約したものとなります。

 北海道のエゾノカワヤナギ(以下、ヤナギと表記)という植物が舞台になります。茎から汁を吸うマエキアワフキ(以下、アワフキと表記)、歯を巻いて巣を津作るハマキガの幼虫の3種との関係性に注目します。
 アワフキが、夏の終わりにヤナギの枝の中に卵を産みます。これにより、枝の先端は枯れてしまうのですが、翌春に卵を産んだ枝の基部からはたくさんの新しい枝が伸びます。新しい枝ができるため、新しい葉もたくさんできることになります。その新しい葉は、ハマキガが歯を巻いて巣を作るのに最適なため、ハマキガが増える要因になります。つまり、アワフキの産卵が、意図的でなくともハマキガを増やす間接的な要因になっています。ただ、ハマキガが成虫になったら、幼虫時代に作った巣は使われなくなります。しかし、それで終わるのではなく、その巣をヤナギクロケアブラムシが再利用します。さらに、そのアブラムシの甘露を利用するためにアリが集まります。このように「食う、食われる」以外の関係でも、空間的にも時空的にも距離が離れているも生物同士はつながっているということが分かります。

①、②のまとめ 

 ここで、①、②までを読めば分かることは、「生物同士は、何らかの形でつながっている」ということになります。もし、その関係性ができている中に外来種が入りこんでしまった場合、どこかで作られていた関係性の糸が切れてしまうということになります。また、入り込んだ外来種が、それまで在来種が担っていた関係性の役割の代わりになるとも限りません。つまり、長い時間をかけて作って生きた関係性を無秩序に破壊することが、外来種の問題点になります。同時に、外来種は、生態系を破壊しようとする侵略者でもテロリストでもありません。つまり、悪者ではありません。それでも、「罪はないけど害がある」から、駆除しなければなりません。

③(おまけ)生物防除

 外来種を抑えるため、又は、農業等の被害を抑えるために、その天敵となる生物を野外に離すことを生物防除と言います。有名な例だと、ハブの被害を軽減するためにジャワマングースを野外へ離したものがあげられます。しかし、すべてではなくともそのほとんどは失敗しています。失敗要因としては、「想定した動きをしなかった」ということになります。つまり、目標とする外来種の捕食をしなかったということです。
 『アメリカ版 大学生物学の教科書 第5巻 生態学』において、この生物防除で想定外の動きをしたことを説明しています。

ジャコウアザミをコントロールするためにその天敵であるRhynocyllus conicusというユーラシアゾウムシの1種を導入した。しかし、ジャコウアザミが減ると、土着のハイイロアザミやナミアザミに取りつき、土着の昆虫の競合者になった

『アメリカ版 大学生物学の教科書 第5巻 生態学』134~135頁を要約

 ここでは、外来種のコントロールに成功はしたが、同時に在来種のライバルにもなったことを示しています。これ以上の情報がないため、分からないことがありますが、導入種がいなければ、土着の昆虫が生存、繁殖のために使えた資源があり、彼らの繁栄に使えました。しかし、その可能性を奪ってしまったということで、よろしくない結果になったと言えます。また、被害の大小に差はあってもそれまでの在来の生き物同士の関係を壊しているということは変わらないでしょう。つまり、人間の思い通りの行動はしないということです。
 この生物防除に関しまして、話題になったものは、「日本に絶滅したオオカミの代わりに大陸のものを再導入しよう」とするものになります。シカ・イノシシによる獣害を防ぐために大陸のオオカミを再導入すれば、かつて生息していたニホンオオカミの代わりになるという主張です。

 上記の彼の主張ではありませんが、「オオカミは絶対に人を襲わない」「サルにも効果がある」「イエローストーンの例を見習え」などとオオカミ再導入のメリットを主張している団体は存在します。では、ニホンオオカミと大陸のオオカミが全く同じもので全く同じ生態をしているといえるのでしょうか?(私の考えですが)シカやイノシシが人里に降りてきているので、それにオオカミもつられて人里に降り、その個体が人に危害を加える場合もありえるでしょう。また、シカやイノシシではない別の生き物しか狩らない集団も出てくるなどと想定していなかった動きをすることになるのではないか?などということが考えられます。特に、シカやイノシシを狩らなかった場合、または、狩りすぎた場合、その地の生態系は、再導入したオオカミのせいで破壊されたということにならないのでしょうか?
 つまり、生物防除は、想定した動きをしないで、在来種同士の関係をただただ破壊することになります。よって、私は、あまりやるべきではないと思います。
(*『アメリカ版 大学生物学の教科書 第5巻 生態学』では、生物防除の成功例も紹介されています。実践する場合、慎重に判断しなければならないことを主張しています。)

4.元凶

 このような「外来種を悪者にしてリンチにして虐殺している」などと主張するきっかけに、フレッド・ピアス氏の著書『外来種は本当に悪者か?: 新しい野生 THE NEW WILD』がその一つだと感じます。この著作は、出版された当初、賛否両論が大きく別れました。養老孟司氏、出口治明氏などの著名人が、良書であると高く評価しました。私も読んだのですが、非常に劣悪な著作であると感じました。そのため、全部読むことをやめました。また、オイカワ丸さんという湿地での生態系を研究されている方も、非常に厳しい評価を下しています。(*オイカワ丸さんは、Twitterもやられているので、フォローされるのもいいと思います。)

 この著作は、どのような内容であるのかということは、先程のオイカワ丸さんの書評と出口氏の評論記事にその詳細がのっています。主に「外来種が入り込んだおかげで種の数が増えたから、生態系・生物多様性が豊かになった」ということが核になります。その一例として、「アセンション島へ人が草木を持ち込み、緑豊かにしたため、生物多様性が豊かになった」ということを挙げています。しかし、「種が多い=豊かな生態系、生物多様性が豊か」であるとの説明は、完全に誤りになります。そして、「緑の豊かな自然はいい自然」もおかしい内容となります。それについて私なりの批判を述べていきます。

①「種が多い=豊かな生態系で生物多様性が豊か」

 生物多様性とはそもそも以下3つで定義されます。

・生態系の多様性
・種の多様性
・遺伝子の多様性

 「生態系の多様性」では、先程読んだように、生物同士などで関係性を構築できているかという点を指しています。「種の多様性」は、ある生態系の中でも種の数が多いことがいいという点になります。最後の「遺伝子多様性」は、同じ種であっても個体差、地域差などで、生物に違いがあります。その地域での違いが、その環境での適応の結果であり、その違いが新たな進化のきっかけになり、更なる種の繁栄などに繋がります。
 この定義から、ただ種の数が多いから、自然がいいというわけではありません。また、種数が多ければいい自然というのは、会社で例えると「売上だけ見ればいい会社であることが分かる」と言っていることと同じです。売り上げが昨年の10倍になったが、過労死、うつ病発症者、残業時間が全て昨年の10倍になった、顧客満足度の星が2下がった(MAX5と仮定)…これは、本当にいい会社でしょうか?ここで大切なのは、物事を判断するものさしは、一つだけではいけないということになります。
 また、『生物の多様性ってなんだろう?』においても、トンボの生息が環境ごとにどのように違うのかを研究した内容(①樹木に囲まれて岸には抽水植物が生えて水の中には水草がある池、②樹木には囲まれてないが岸には抽水植物が生えて水の中には水草がある池、③コンクリートに囲まれ、植物がほとんどない池の3種で検証)が示されており、そこで、種数の多さについて調べた結果、種数は「①>②>③」となっていました。この結果だけを見ると、①の池の方が豊かな自然があるといます。しかし、この結果に対して以下のように記述されています。

トンボの種数が多いため池は、いい環境にあるのかというといえるだろうか。そう簡単にトンボの種数を環境指数に読み替えるわけにはいかない。種数が多いことは、環境が複雑であることの指標にはなるが、良い環境であるかどうかとは別の話である。

『生物の多様性ってなんだろう?』 222頁より引用

 実際に調査をしている研究者からも「種の多さが、環境の良さをそのまま示しているわけではない」と主張しています。
 また、「種数が多い=いい自然」となるならば、多くの生き物が生息し、種数の多い熱帯地域の自然がいいわけであります。つまり、温暖な気候がいい環境ということになり、寒冷な環境はいい自然ではないという極端な主張にもなりかねません。そうでしょうか?
 種数は、あくまでもいい自然を見るための指標の一部でしかないということになります。

②「緑の豊かな自然はいい自然」

 「アセンション島へ人が草木を持ち込み、緑豊かにしたため、生物多様性が豊かになった」の事例は、「種数が多いならいい自然とは言わない」という先述した内容を反論すればおしまいです。しかし、「緑があれば、自然は回復する」というのも間違いです。
 この事例の間違いは、「ビオトープ」を作る時の考えを用いれば、分かります。そもそも、「ビオトープ」とは、以下のように説明します。

ビオトープ(Bio)は「生きものたち」、トープ(Top)は空間をさすドイツ語です。つまり「ビオトープ」とは、地域の野生の生きものたちが生息する空間、を意味しています。

https://www.biotop-kanrishi.org/
*ビオトープ管理士という資格があり、ここの説明を引用させてもらいました。

 皆さんが、ビオトープというと、「池」をイメージされると思いますが、池に限らず、「草原」、「川」、「森」もビオトープに入ります。では、そのビオトープは、生き物がいれば何でもいいのでしょうか?それは違います。「池」といっても、「コンクリートに水を入れ、金魚やホテイアオイやアメリカザリガニ、ミシシッピアカミミガメを入れた環境は、野生の生き物が生息している」といえるのでしょうか?つまり、その自然を構成する「生き物の構成」も大切になります。

この池は自然の池といえるのでしょうか?

 そのビオトープを作る仕事をされている久保田潤一氏の著作(『絶滅危惧種はそこにいる 身近な生物保全の最前線』)の内容を要約して記述します。池の水全部抜くに出演し、かいぼりで出てきた生物の解説をされている方になります。

自然を回復するとはどういうことか(*久保田潤一氏の取り組みより)

 池の水を見ている人なら、かいぼりをしているというイメージが強いのかもしれません。しかし、かいぼりだけでなく、ビオトープを作る、つまり、自然を回復する・再現することも仕事して行っています。東京の神社にビオトープを作る仕事をしていた時の話になります。先述したようなコンクリートの池を作るのではなく、水深の違う段階のある池を作ることを大切にしています。完全に水の中に入るもの、少し岸に近いもの、水と陸が入れ替わる地点…のように環境が違う池にしなければなりません。生き物が好む環境は、それぞれ違うためです。

こんな感じで環境の違う場所がある方がいいです。

 ここが肝心なポイントになります。池を構成する生き物は、在来のもので構成するのが基本です。入れる生き物は、「ホームセンターやペットショップで飼った個体を池に放流する」でよろしいでしょうか?その地の生き物であるとは限らない上、遺伝子や地域の差をもっている場合もあるため、その違いを考慮に入れない放流は、外来種を意味なく放流しているだけのただの自然破壊です。生き物を放流したが大炎上するという話があります。その原因の一つは、遺伝子や地域の差を考慮せずに生き物を放流しているからでもあります。
 よって、久保田氏は、水辺に入れる生き物は、その場に生息しているものを導入することで神社の池を構築しました。植物の場合、田んぼの隣接地にある畑の池の土をもらい、芽が出るまで待ちました。動物の場合、メダカをどうしても入れたいという要望に応えるため、東京のメダカ、別の地域とも交雑していない東京のメダカを探してその池に導入しました。
 また、久保田氏の自身の著作で生き物を入れることについて、以下のように述べています。

造成したビオトープには人の手で生き物を入れることはしないのが基本だ。環境さえ整えてあげれば、生き物たちは、自分の力でビオトープに来てくれるものであり、どんな生き物がやってくるのか観察するのがビオトープづくりの醍醐味でもある。

『絶滅危惧種はそこにいる 身近な生物保全の最前線』105~106頁を引用

 つまり、人間の手で何もかも作ってしまってはならないということを大切にしなければなりません。同時に、その地域の自然と生き物でビオトープが構成されることが大切であるということです。
 では、ここで再びアセンション島の事例について考えてみましょう。

ダーウィンが訪れたときは丸裸の島で人間が持ち込んだ外来種が島を緑に変えたのである。

https://toyokeizai.net/articles/-/139348

 そもそも「人が現地の自然を考慮せずに持ち込んだ植物(*私のうる覚えですが、日本の竹などを使用していたはずです)」を植えて、自然が豊かになったと主張することは、ガーデンニングと自然保護を完全にはき違えているとしか言えません。そして、島に入れるべき植物を考慮に入れないで、緑豊かになったとの主張も、ビオトープの構築の際の理念に反していると言わざるを得ません。つまり、自然の回復をしたのではなく、ただのガーデニングを島でしただけです。また、私の感じたことですが、波風や鳥の糞で運ばれる種子などがその島に漂着し、そこでの植物帯を作ります。その機会を完全に潰しているのにも関わらず、自然を豊かにしたとの表現にも問題があると感じます。

①、②のまとめ

 以上の点から、この著作とその評論のおかしい所をまとめました。
 種数の多さは、生態系や生物多様性の豊かさではありません。そして、どのような生きものがそこには生息しているのかも考慮しなければなりません。ただ、外来種が生態系の一員であると主張したいのであるならば、「外来種が生態系を健全なものにするならば、どのような役割を担っているのか」や「在来種は、外来種に対しての対抗手段、逆に外来種をどのように利用しているのか」や「炭素、窒素などの物質循環に悪影響はないのか」を説明しなければなりません。つまり、「外来種は、どのように在来種との関係性を作っているのか」を説明しなければ、生態系を豊かにしていると主張することはできないと考えます。この著作とその評論において、私が考えている点の言及は、ありませんでした。
 また、引用させてもらった記事の著者である出口治明氏は、「教養が大切である」ということを主張しており、立命館大学で学長を務めています。私は、人文学系の出口治明氏の言論を聞いていますが、大変勉強になってると感じます。しかし、この著作の評論で、「教養の大切さ」を主張できる立場ではないと感じます。その上、生態系とは何か、自然を回復するとはどのようなことなのかについてもまったく知らない人であると感じました。生態系について学んでから、評論をしてほしかったとしか感じえません。また、このようないい加減なことは、二度と喋ってほしくないです。

③COP15に合わせて考える(2022/12/22追記)

 この著作に限らずですが、最近、「外来種は生態系の一員である」や「外来種駆除は時代遅れで、駆除しないことがグローバルスタンダードだ」と評論する者もあります。しかし、これは、完全に現在のグローバルスタンダードは逆行している主張になります。下記は、著作に対する評論の一部です。

 外来種を悪しき侵入者と決めつける「環境保護論者」は、解明的で進歩的な装いをポーズをとってはいるが、本質的に反動的で、原始賛美の趣を称える。自分たちは文明と自由貿易の恩恵を受けながらだ。

https://www.amazon.co.jp/product-reviews/4794222122/ref=acr_dp_hist_5?ie=UTF8&filterByStar=five_star&reviewerType=all_reviews#reviews-filter-barより引用

人間の手が加えられていない、「ありのままの自然」というのは幻想でしかなく、それを祭り上げて、外来種をやり玉に挙げる言論は、鎖国主義にも似たイデオロギーによるものにしかすぎないという主張がされていた。

https://www.amazon.co.jp/product-reviews/4794222122/ref=cm_cr_arp_d_paging_btm_next_2?ie=UTF8&filterByStar=five_star&reviewerType=all_reviews&pageNumber=2#reviews-filter-barより引用

 最近、生物多様性に関する国際会議、COP15が開催され、そこで、生物多様性保護にむけた新たな目標が設定されました。簡単にまとめられたものは、以下のようになります。

目標には23の項目が盛り込まれ、
▽世界全体で陸地と海のそれぞれ30%以上を保全地域にする「30by30」という目標
▽外来種の侵入を少なくとも50%削減すること、
▽生物の遺伝情報の利用で得られる利益を公平に配分すること、
などが盛り込まれています。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221219/k10013927831000.htmlより引用

 今回のCOP15だけでなく、その前の愛知目標、SDGsにおいても外来種は脅威であることが明言されています。ここにあるように、外来種対策は、「世界共通であり地域の環境問題」であるということです。
 外来種は悪者ではありません。害があるから駆除します。ただ、明らかに間違った批評や評論が世の中の出回りまくっているので、騙されないようにしてください。

5.まとめ

 以上が「外来種駆除を悪だ」と吹聴する主張について検証・反論してみました。生態系とは何かを考えた時、私は、「生物の関係性」を見るものが生態系と考えています。生物同士の関係性に外来種がどう働いているのかを検証しなければいけないと考えておりますが、現状、この検証をしたものはあまりないように感じています。
 また、実際の現場で自然を見ている久保田潤一氏は、自身の著書で「外来種駆除反対」という主張を展開する人たちに関して以下のように苦言を呈しています。 

 世の中には、専門家・学者の肩書を持ちながら「外来種を悪者にするな」「駆除する必要はない、受け入れろ」という発言をしている人たちがいる。また、そうした論調の専門書っぽい書籍も存在する。しかし、非科学的な感情論なので注意が必要だ。…(中略)…
 こうしたことを発信する人は、種数が増えたり交雑したりすることが生物多様性を高めると思っていたり、外来種問題と人種差別問題を混同していたりすることも多い。いずれも、生物多様性やその保全という概念の理解が間違っているので、影響されないでほしい。

『絶滅危惧種はそこにいる 身近な生物保全の最前線』96頁
(ここでは紹介しなかったのですが、誰に対して強い憤りを持っているかは明白だと感じました。)

 現場で自然を回復させるという仕事をされている方が、このような注意喚起をしているということは、悪質な主張が世間に浸透しているということの表れだと感じており、強い危機感を持っているのだと感じます。私も、そのような主張をする記事や著作を読んだことがあります。決して世に出てはいけないようなことを事実のように語るものもあるため、そのような内容には注意しなければならないと感じますし、触れないようにしなければなりません。悪質なものは撲滅されなければなりません。
 最後になりますが、今回のブログを作るために参考にした記事、動画、文献を以下にまとめました。特に、参考資料編は、非常に有意義な内容となっているので、是非ご覧ください。
 非常に長くなりましたが、ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。

参考資料リスト

問題資料編

参考資料編

5.5.おまけ

 ここでは、外来種対策ではなく、「生物多様性重視はアメリカの経済政策の一環だった」について物申したいです。確かに、環境問題は、「外交」の面があり、損失を受けるだけでなく、利益にしつつどのように自分たちに有利なルールを作るのかを考えている面は捨てきれません。つまり、各国は、環境問題を経て国益に繋げることを求めています。
 しかし、アメリカは生物多様性条約に批准「していません」。そのため、遺伝子組み換え生物等の扱いを規定したカルタヘナ条約、ましてや、遺伝資源から得た利益の配分についてのルールである名古屋議定書にも批准していません。つまり、自国優先の姿勢は変わっていません。その上、バイデン大統領の前のトランプ大統領の時では、パリ協定からの脱退、さらにブッシュ大統領の時では、京都議定書に脱退などと、環境問題に後ろ向きになることもあります。これらの事実から、何故、「生物多様性重視はアメリカの経済政策の一環だった」といえるのでしょうか?

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