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【短編】ダブルキッスオマージュ

〈彼〉は腰を下ろすなり、鋭い眼差しで着座の人々を見回した。それは一瞬のことで、〈彼〉はすぐに隣にいる僕に話しかけてきた。

テーブルを挟んで、僕たちの前には4人の女性が座っている。こちら側には男5人が対座していた。
〈彼〉は右隣にいたフェッちゃんに何やら耳打ちした。
フェッちゃんがおもむろに立ち上がった。
フェッちゃんの顔の重厚さに対して身長があまりにも低かった為、女性陣たちはやや驚いた様子。その様子に〈彼〉は満足そうにニヤリと相好をくずす。
フェッちゃんはずんぐりとした体を直立させると、周りの視線を意に介さず、元気よく乾杯の音頭をとった。フェッちゃんはこの日の為に、クローゼットの奥に後生大事にしまい込んであった、高価なビンテージスウェットを着ていた。だが、彼女たちがその晴れ着に気づいてくれたかは甚だ疑わしい。
宴は緩やかに始まった。ぎこちのない会話は、時間と酒がときほぐしてゆく。
彼女たちの微笑み。僕たちの哄笑。

〈彼〉は自分の面には自信があった。その過度な自信がどこからきているのかは僕には理解出来なかった。が、とにかく〈彼〉は自身の顔の作りが優れている事に確信があった。
彼女たちは皆、アパレル勤務であり、男の顔やスタイルには目が肥えていたと思う。彼女たちのうちの1人は有名なモデルと付き合っていたが、〈彼〉は後日、そのモデルの顔を(卑猥な馬面)と笑い飛ばしていた。
彼は時々目の前の女の子をじっと見つめた。女の子は慌てて目を逸らした。(彼に言わせると、彼女が目を逸らした理由は明確で、彼の眼差しがあまりにも東洋的で神秘的だった、からだそうだ)

宴は滞りなくすすむ。
テーブルの奥に座っているパチ郎は軽快な会話を続けていた。前を見て、横を見て、僕を見ては、ウィットに富んだ、パチ郎独特の会話を展開している。女の子たちも楽しんでいるようだ。
入口の近くに座っていたナキーム氏はそろそろ(ふて寝)を始めている。いつものことだ。特に誰も気にしていない。それが余計に気に触るのだろう、ナキーム氏の眉間の皺は深い。
〈彼〉は奥二重の瞳を常に女の子達へ向けていた。たまにレモンサワーを口にする以外はあまり首を動かさない。
彼の眼差し!〈彼〉はそれに絶対の信頼を置いていた。どんな言葉よりも、振る舞いよりも女性の心を掴むものと妄信していた。なぜ? 彼の胸中こそ永遠の謎!

宴はいつも通りに終演を迎えた。まったくいつもの通りだ。
彼女たちを駅まで送って行く時も、〈彼〉は傲然と胸を張り、威風堂々と歩いていた。丸いおでこがネオンに光る。
改札の向こうへ小さくなっていく彼女たちへ、〈彼〉は投げキッスを2度、あたえた。
この日、〈彼〉には何の戦果も無かったはずだ。けれど、その瞳はまるで勝利者のように輝いているではないか。


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