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今、令和にすべき空海論。

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宗教をやらない素人が語る
空海について。

なぜ、語るのかと

なんかね、語りたいからね 

空海の面白さは、
その特殊性。

そして、
密教のこと。


歴史家は、
色々語ってきたかもしれない。


けれど、面白いのは
その座(ざ)のありようだと思う。


それは、地球にいる
点という側面をもつ私たち


と同じようだけども


それは、同時に
遍在する座を持ち、

個(点)でも、
遍在的(あらゆるもの)な点たち
でもある。


この遍在的なもの
かつ、生としての色をもつもの

それを個かつ
遍在でとらえたときに

目に前に拡がっていたのは
たえまない
極彩色の曼荼羅(まんだら)
であった。



思想を通して、
ヤコブベーメを
とらえられないように

(後にそれは、
ヘーゲルに多大な影響を
あたえたけれど、)

思想を通して、
近似(きんじ)しうるべき
冷静な立場という点(個人)が
必要ならば

思想は、絶対かつ遍在を
とらへられない


どこまでも座が
点として残るから。

生命への換入(染み込み)もなく

個に端を発する知が
複雑な様相を生むだけで

座は、個という点に
終始する


空海という座は、
おそらく
それを直観的に吸い込み

曼荼羅を模した。


宇宙と、離れた
人間の思想的な知ではなく

宇宙、それいぜんの
始まりを模したもの


その生み出す力

その創造性

それに貫かれた

霊的な直感を持って

空海は、
この地に生まれたのだろう


それを思考てきな
思索で、近似するあらゆるこころみに

そのこころみの延長線沿いには
(常に思考する点としての個人が残るので)
無いことを識るとき、

曼荼羅を識る
余白が生まれ
えるのかもしれない

古の賢者たちがのこした
智慧は、

思想と呼ばれることで
手に取る場所に近似され

まるで、虹を
凍らせて持ってきて
調べて
理解して

知性が納得しうる納得さえあれば
満足するとでも言うように


すべての学者たちが
それを逃した


それは、
西洋的な密教の
文献の伝えるけれども

誰も、どんなに、調べて
理解し、暗記し、近似しても

誰もたどり着けなかった


空海があの時代に識るした
筆の一筆は、
なにを描いたのだろう


それは、空的な叡智ではなく

それは、有をあえてもつ
曼荼羅(有なる遍在)を模した
世界観かつ、
妙技(みょうぎ)であった。



『あるがままを説く如の真理や、
徹底的に否定した空の智慧だけでは、
手足がなく、進めない状態である。

密教は、マンダラを説き、
仏の手足による活動を説くから、
密教は、不思議である。

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